第143話 ニーム攻防戦 5


「敵襲! 敵襲ー!」


 オーギュスト=ランベールが守る第二高地で、敵襲を告げるラッパが鳴らされた。時刻は六時三十五分のことである。


「なにッ!?」


 突如のことにオーギュストは地面を蹴って、司令部の幕舎から飛び出した。といっても囲いの無い、屋根だけの幕舎である。

 ちょうどその時、ヴィルヘルミネからの伝令も到着した。随分と時間が掛かったが、それは霧の中、道に迷ってしまったからだ。


「ランベール少佐! 少佐は何処いずこにおられますかッ!?」


 まだ十代前半と思われる少年の伝令兵が、息を切らして陣営に駆け込んできた。


「ここだッ!」


 オーギュストが振り向くと、伝令は足を縺れさせて転んだ。それでも顔だけを上に向けて、ヴィルヘルミネより託された命令を銀髪の少佐に伝える。


「ぐ、軍事顧問殿より伝令、こちらも応射せよ――とのご命令です!」


 オーギュストは敵襲の報にざわつく部隊司令部を一瞥し、「ふむ」と小さく頷いた。冷静さを取り戻したのだ。


「なるほど。どうやらミーネは、こうなることを予測していたらしい。伝令――彼女は何時ごろ、貴官にその命令を託したのかな?」

「はっ、はい。敵の砲撃が始まって、間もなくのことであります。ですが霧が深かった為に道に迷い、到着が遅れてしまい、その……申し訳ありません」

「いや、べつに貴官を責めている訳ではない。そのようなこと、知らされずとも俺が気付くべきだったのだ。責められるとすれば、俺の迂闊さと無能さだろうよ」

「は、はぁ……しかし少佐は命令違反をなさったわけでもありませんし……」

「そうでもないさ。俺がここに居る理由は、敵に付け入る隙を与えぬこと。ならば、それを与えてしまったことは非難されて然るべきだろう」

「そうなので、ありますか?」

「そうさ。それに、なるほどミーネは確かに戦争の天才だ。この奇襲があることを予測し、恐らくは背後にいるだろう敵の大部隊の姿まで考慮している。応射せよとの命令は、これを近付けさせるな――という意味だろう。彼女がここの防御指揮官であったなら、今のような無様は無いだろうさ」

「ヴィルヘルミネ様には、敵の意図が分かっておいでであったと……?」


 伝令には、オーギュストの語る言葉の意味が分からない。けれど、それで良かったのだ。銀髪の砲兵少佐は語ることで思考を整理し、ヴィルヘルミネが伝令を寄越した意図を理解したのだから。

 そしてそれは、状況を打開することに繋がる。だからオーギュストは心の中で、赤毛の令嬢に礼を言った。


 ――ミーネ、助かるよ。キミのお陰で目が覚めた。第二高地はランスの為に……いや、俺とアデリーの未来の為にも、絶対に落とさせないッ!


 むろん赤毛の令嬢は、そんな意図で伝令を寄越した訳ではない。しかもこれがオーギュストとアデライードの桃色な未来の為になると思えば、「キエェーーーッ!」と奇声を発したくなったであろうが。


 ともかく状況を理解したオーギュストの行動は、素早かった。


「北へ向けて砲撃! 距離は六百、五百五十、五百と三段階に分け、撃ちまくれッ!」


 砲撃命令を下したオーギュストは、次に敵奇襲部隊に対応すべく二人の中隊長を呼んだ。


「霧中に音も無く接近した部隊だ、数が多かろう筈も無い。また、塹壕内部の戦闘であることを考慮し、武器は刀剣サーベルを使用せよ。これは視界が悪い中で、互いが味方だという目印にもなる」

「はっ!」

「では、行けッ! 貴官らの奮励努力に期待する――敵を塹壕から叩き出すんだッ!」

「はっ!」


 中隊長たちはそれぞれ二百の兵を纏めると、部下に抜剣を命じて斜面を駆け下りた。徐々に霧は晴れてきており、移動もそれ程の困難では無くなっている。


 オーギュストは最悪の場合、塹壕を失うことも考慮に入れていた。こちらの砲弾が的外れな地点に着弾した場合、敵には損害が無い状態となる。それでは無傷の大部隊が塹壕へ到達することになり、もはや為すす術が無くなるからだ。


 ――たった四日守り切るだけだと思ったが、甘かった。流石は名将だ、霧さえも利用してくるとは。

 いや、それよりもミーネは、そのヴァレンシュタインの手を読んでいた。分かっていたことだが、やはり俺は彼女に及ばないのか――……。


 銀髪の少佐は霧で霞む空を赤い瞳で見上げて、自身の無力に愕然としている。


 ――いや。劣等感に苛まれ、嘆いている場合じゃあない。今ここで塹壕を失えば、戦線が大きく後退する。それではいくら二千の兵を与えられていても、第二高地を守りきることはできん。やるしかないッ!


 自らの頬を両手で叩き、オーギュストは気合を入れなおした。そして直接砲兵の指揮を執るべく、力強い足取りで大砲の設置場所へと向かう。


 ――俺がヴァレンシュタインなら、どう兵を進める? 霧の中、敵に気取られぬよう進むとしたら、どのルートだ?


 オーギュストは目を閉じて、頭の中に戦場の地図を思い描く。そして彼はついに白く煙る霧の中、脳内の計算だけで敵の位置を割り出し、砲弾を叩き込むのだった。


 ■■■■


 ヴァレンシュタインは晴れつつある霧の中、馬上で不快気に目頭を揉んだ。敵の砲弾が、狙いすましたように五千の塹壕攻略部隊を攻撃していたからだ。むろん、見える訳ではない。音から察して、方位と距離が味方部隊の位置と合致していた。


「間もなく七時になりますが……」

「攻撃は失敗だ。霧が消えきらぬうちに、兵を戻せ」


 馬を寄せてきた参謀に首を振り、ヴァレンシュタインは溜息を吐く。目を瞑れば敵が降らせた砲弾で、味方の吹き飛ぶ光景が瞼の裏に浮かぶようだ。

 けれど隣に並んだ参謀には、霧の先で起きた出来事など見えるはずもなかった。


「は……しかし閣下。味方からの合図はありませんが?」

「あと少しで敵の塹壕へ到達しようというところ。多少の攻撃を食らったからといって、並の指揮官であれば後退の命令は下せまい。しかし、それが味方の死者を増やすのだ。ゆえに参謀長――後退を命じよ」

「そう申されましても、閣下、一戦も交えぬまま退いては、カーマイン少将には不満が残りましょう。彼は男爵位を持つ帝国貴族ですし、名誉に関わるかと……ましてや平民であるオルトレップが先陣を切り、既に戦っておるのですぞ」

「だから、並の指揮官だと言ったのだ」


 ヴァレンシュタインは口を尖らせ、小さな声で呟いた。何事につけ帝国的杓子定規な、この参謀長が少し苦手なのだ。


「は、いま何と?」


 参謀長はヴァレンシュタインが敗北することなど、微塵も考えていない。むしろ勝利の功績を公平に分配すべく調整するのが、自身の役割だと思っているらしい。


 それを咎めるつもりも、あげつらうつもりもヴァレンシュタインには無い。けれど、どうせ戦争をしなければならないのなら、もう少し分かり合える幕僚が欲しいとは思うのであった。

 

 その時、突如とした甲高い少女の声が霧の中に響いて――


「参謀長、はやく後退の合図をなさい! カーマイン少将の部隊は目下、密集した状態で敵の砲撃を受け続けているのですわ! この状態で名誉の為に前進を続けられてごらんなさい、戦う前から千人もの兵を失いますのよッ! それはもう、敗北と呼べるものに変わってしまいますの! だ・か・ら! ここは一刻も早く散開して後退させるべきなのです! 予ての手筈通りにッ!」


 伍長の分際でありながら、ルイーズが中将たる参謀長に人差し指を突き付けている。しかも参謀長は、なんと侯爵でもあるのだ。


「な、な……いくらヴァレンシュタイン公のご息女とはいえ、こ、こ、この暴言は……!?」

「いや、すまんな、参謀長。しかしまぁ――ルイーズの言うとおりだ。急ぎ手配を頼む」


 こうしたルイーズの暴挙は、しかしヴァレンシュタインにとって少しだけ好ましいものなのであった。


 ――本当にこの子が参謀になったら、私も少しは楽が出来るのだろうか。


 参謀長による渋々の手配により、前線の部隊へ後退の合図が送られた。それはラッパや銅鑼、大太鼓などによる派手な演奏であったから、砲撃の合間にベッテルハイムの耳にもしっかりと届いている。


「ちっ……敵も中々やるッ! 撤退だッ!」


 塹壕の戦いも、ベッテルハイムが思うほど有利には展開しなかった。

 オーギュストが送った増援が思いのほか早く到着したこと、それから彼等の武器が刀剣サーベルのみであり、狭い空間で戦うには有利であったことが原因だろう。


 加えて一個中隊規模のベッテルハイムに対し、オーギュストは持てる最大兵力を繰り出した。こうした対応が、ベッテルハイムに付け入る隙を与えなかったのだ。


「……何とか凌いだか」


 午前八時――霧が晴れて辺りを見渡せるようになると、オーギュストはホッと小さく息を吐き出した。塹壕では味方の損害を多く出したが、砲撃によって敵の主力をどうにか退けている。その証拠に彼が砲撃を命じた地点では敵の無残な死体が散見し、赤く血の花を咲かせていた。


 しかしヴァレンシュタインの攻勢が、これで終わったわけではない。それどころか、これが始まりだったのである。


「やれやれ――どうやら、楽に勝たせてくれる相手じゃあないらしいね、ルイーズ」

「何を言っているの、お父様! 作戦が第二段階で完了したら、そんなの計画を立てた意味が無いのですわ! さあさあ、次ですわ、次ッ! 今度はあっちの丘でしょう!?」

「そうだったね。じゃあ、次の段階に移ろうか」


 ヴァレンシュタイン軍は第二高地から兵を下げる動きと連動して、全軍の比重を左翼へシフトさせていた。そうして一万の兵力を第六高地の正面へ集めると、八時三十分――攻撃を開始するのだった。

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