第141話 ニーム攻防戦 3
オーギュスト隊が守る第二高地の塹壕に、雨あられと砲弾が降り注ぐ。深い霧の中、敵が細かな狙いを付けている筈も無く、だからオーギュストは反撃の指示を出さなかった。
「敵の狙いはこちらに撃たせ、砲の位置を探ることだ。今は身を潜めて耐えろ。打ち返すだけ弾が無駄になる」
オーギュストは部隊の本営で顔を洗い、悠然と歯を磨いていた。その最中も砲弾が齎す轟音が鳴り響き、大気をビリビリと震わせている。
「それよりも、問題は霧が晴れたあとだ。砲撃を怖れて身を縮めている隙に、敵が近づいていることを想定しろ。前線には、くれぐれも油断するなと伝えるんだ――行けッ!」
口の周りを布で拭き、軍服を整えつつオーギュストが伝令に命令を託す。本番は霧が晴れてからだと身を引き締めて、ランスの俊英と呼ばれた銀髪の少佐は部隊の指揮を執るのだった。
■■■■
敵の砲撃音を聞き、ヴィルヘルミネも目を覚ました。珍しいことだがゾフィーに言われるまでも無く、自ら率先して着替えている。もっともボタンをかけ間違えて、余計に金髪の親友の手を煩わせただけであったが。
「ヴィルヘルミネ様、敵の攻撃が始まりました。攻撃目標は、どうやら第二高地のようです」
令嬢が準備を整え幕舎の外へ出ると、確かに前方から轟音が響いていた。その理由をエルウィンが報告し、隣ではバルジャンが目を一生懸命擦っている。
「……凄まじい砲撃ですよ、ミーネ様。まさか敵には砲弾が、無限にあるなんてことは無いでしょうね?」
「あっさり負けおったシチリエとやらの砲を鹵獲し、使っておるだけであろう。そう考えれば兵数に比して敵の砲数が多いことも、説明が可能じゃ。バルジャン――……卿も少しは自分で物事を考えよ」
「おお、流石はミーネ様。慧眼であらせられる。あなたが軍事顧問で本当に良かった」
数日前から別のことに気を取られまくっていた赤毛の令嬢は、基本的にボンヤリとしている。だからなのか、逆に軍事的見解が冴え渡っていた。
「で、あるか。とはいえ、これは面白うない状況じゃ。霧でまったく先が見えぬからの」
ヴィルヘルミネの言う通り、状況は最悪であった。白い靄が前方を覆い、数メートル先の視界さえ定かではない。
それでも敵は休むことなく大砲を撃ち、攻撃を続行している。お陰でバルジャンは首を竦め、ヴィルヘルミネの後ろにコソコソと隠れてしまった。
「そうですよ。見えないところから飛んでくる砲弾ほど、恐ろしい物はありません。いっそ本営を、ニームまで下げませんか?」
「第二高地が健在であれば、砲弾がここまで届くことは無い。とはいえ敵の意図が気になる。オーギュ……いや、ランベール少佐に伝えよ。音と霧に紛れて敵兵が接近するやも知れぬ。ゆえに、こちらも撃ち返せ、とな」
■■■
ヴィルヘルミネが下した命令は軍事的に非常識であり、かつオーギュストが下した判断の真逆であった。実際、彼女もボンヤリとした状態でなければ、こんな命令は出さなかったであろう。
では、なぜこんな命令を下したのかと言えば――オーギュスト=ランベールが心配だったからだ。どんな些細な危険さえ、彼の身に近づけたく無かったのである。
だが指揮杖を前方に翳し高らかに命じようとしたヴィルヘルミネは、オーギュスト=ランベールの名を出すとき、声が上ずってしまった。
近頃は輝くような銀髪の少佐を思い浮かべるたび、令嬢の心は苦しくなってしまうのだ。とても不思議な事であった。
そんなヴィルヘルミネは振り返り、駆け出さずに控えたままの伝令をじっと見た。「どうした、何をしておる、行け」と命じている。正直、無茶ぶりであった。
「ヴィルヘルミネ様、ここから第二高地までは距離もあり、この霧では伝令とて道に迷うこともあります。迂闊に彼を走らせ敵に捕まれば、こちらの意図を悟らせてしまいますが……」
エルウィンが事情を説明すると、令嬢は胸を抑えて苦し気に眉を顰める。とにかくもう、オーギュストが心配なのだ。しかし、その感情が理解出来ないから意味も分からず苦しんでいた。
「だ、第二高地を取られるわけにはいかん。絶対にいかん。だから打てる手は、全て打つのじゃ」
「……はっ。伝令、すまんが行ってくれ。くれぐれも迷わぬよう、頼む」
この時、エルウィンは「流石はミーネ様!」と思った。何しろ彼はヴィルヘルミネに、いっさい第二高地の重要性を説明していない。にも拘らず彼女は第二高地を重要視していたからだ。
もちろん令嬢にとっては、第二高地を守るオーギュストが問題であった。だが、そのことを誰かに言うわけにもいかないから、第二高地と言っただけなのだが。
そして今、ヴィルヘルミネはオーギュストのことを思い、ひたすら胸が苦しくなっていた。
そういえば赤毛の令嬢は数日前、オーギュストを思うと胸が苦しくなる件について「はっ! これは心臓発作の予兆では!?」とヘンテコな勘違いをしている。
そこでさっそく詳細をぼかしてゾフィーに相談してみたが、しかし芳しい答えは得られなかった。
「きっとヴィルヘルミネ様は、戦いを前に高揚しておられるのでしょう。わたしも強敵と戦うことを考えれば、胸がキューッと締め付けられますから」
「で、あるか」
ニッコリ微笑むゾフィーに対し、赤毛の令嬢は絶対に違うと思った。戦闘民族に聞いたのが間違いである。
そこで、ヴィルヘルミネはエリザにも相談をした。
「なんだい? ああ、そりゃあ肉が足りないのさ。肉を食って銃を撃ち、剣を振って敵を殺す。そして煙草を一服すりゃあ、人生なんぞバラ色さ。そうそう、胸が苦しきゃ、まずは肉を食うことだね」
ぜんぜん全くそうじゃあない。ヴィルヘルミネは相談する相手を間違えたことを、この時点でようやく悟った。こんな時は医者であるハドラーに聞くべきだったのだ。
しかし今となっては、ハドラーに手紙を出すことさえ出来ない。結局のところ令嬢は軍医から医学書を借り受け、自ら問題に対処することにしたのだが……。
――分からぬ!
結局、何一つ解決しなかった。
そもそもヴィルヘルミネはオーギュストとアデライードのキスシーンを見て以来、彼等のことを愛称で呼べなくなったのだ。それが問題の発端である。
そこからイライラとした気持ちが湧き上がり、全身が燃えるように熱くなったのだ。結果、胸が苦しい。
分析してみると令嬢は、その感情が「悔しさ」であることに気が付いた。
だからヴィルヘルミネは自分が悔しいと感じる場合を色々とシュミレートして、ようやく正体に気付いたのである。
――余は、誰かに何かを取られると悔しいのじゃ。ということは、つまり……え、と……なんじゃ? 精神的なアレかのぅ?
ただ、そこから先が判然としない。少なくともオーギュストにアデライードを取られて悔しいのか、それとも逆なのか――という点が分からなかった。
前者であれば赤毛の令嬢は初志貫徹。「余、ブラボー。アデリーはゾフィーと恋愛すべきなのに、オーギュストのやつめ、断じて許せん。貴様に相応しい相手を見繕ってやるゆえ、今に見ておれよ」という話だが、後者であれば問題だ。
――まさか余が、オーギュに惚れておったじゃと!? そんな馬鹿な! 余ごとき塵芥なゴミ虫と、あのイケメンが釣り合うはず無かろう! 余、身の程を知れッ!
しかし、誰よりも卑屈な公爵令嬢であるヴィルヘルミネは、そのようなことなど絶対にあり得ないと全面的に否定した。
……と、このように結論付けたはずなのだが、ヴィルヘルミネの胸は今も苦しいままである。やはり謎であった。
「……ミーネ様も、オーギュを心配しておられるのですね」
いつの間にかヴィルヘルミネの隣に金髪の美女、アデライードが並んでいた。そして彼女は優しく微笑み、ヴィルヘルミネの足元に跪いて。
「私でよければ、いつでもオーギュの下へ増援に駆け付けます。ご命令を――……」
「少佐。その時は、わたしもお供します」
跪くアデライードの肩に、ゾフィーがそっと手を添えている。
「あら、ゾフィー。随分と頼もしくなったわね」
六月革命以来、金髪の親友とアデライードは急速に仲を深めていた。ゾフィーにマンゴーシュを用いた戦闘法を伝授したのもアデライードだから、それも当然であろう。
ヴィルヘルミネにとっては、この二人こそ美女×美少女の正式カップルであった。
だから仲睦まじい二人の姿を見て、赤毛の令嬢は大きく頷き目を潤ませて。
――うむ、そうじゃ。余はゾフィーからアデリーを奪ったオーギュが、つまり憎いのじゃ! 悔しいのじゃ! そうに違いない! ようやっと本質に辿り着いたわッ!
実際は同じ砲兵科として尊敬できるオーギュストに、彼女は心を寄せていた。つまり恋心を抱いていたのだ。しかし結局、そんな想いに気付かないままヴィルヘルミネは気持ちにしっかりと蓋をして、グルグル巻きの封印を施してしまったのである。
結果、未だ霧の晴れやらぬ北方を眺め、首を左右に振った。
「アデリー、増援は時期尚早じゃ。他方より敵が攻め寄せるかも知れず、現状であればオーギュストには、現有戦力のみにて当たらせるが良かろう」
絶望的とも言えるほど感情に左右される令嬢の指揮ぶりであったが、それが不思議とヴァレンシュタインの攻勢を見事に読み切り、完璧な防御を見せる。
つまり世界はヴィルヘルミネに甘いのか辛いのか――この一事をもってしては、よく分かないのであった。
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