第135話 幼き日の記憶


 ヴィルヘルミネとバルジャンがニームで再会を果たしたのは、十月十八日のこと。当初の予定では十六日にニームを包囲し三日間で陥落させるつもりであったから、計画に大きな誤差は生じていない。

 

 しかしながらバルジャン師団は単独でニーム駐留部隊を撃滅し、一方でヴィルヘルミネも単独でニームを制圧している。

 意図した形とは大きく異なるが見事な連携が決まり、彼等は損害らしい損害を出すことも無くヴァレンシュタイン軍に痛撃を与えていた。


 もっとも、だからと言って再会を素直に喜ぶことは出来ない。ここからが本番なのだ。

 ヴァレンシュタインがヴィルヘルミネの望み通り、会談に応じてくれれば良い。しかしそうでは無かった場合、干戈を交えねばならないのだ。

 

 とはいえヴィルヘルミネ自身はヴァレンシュタインが父の友人であるため、わりと気楽であった。だからバルジャン師団を迎え入れたあと、彼女はフェルディナント軍として接収した貴族の邸の一室で、静かに入浴を愉しんでいる。


 入浴となると南方艦隊が取り戻した司令部では簡素だし、キーエフ軍駐屯部隊の司令部が入っていたホテルでも、イマイチ質が良くないのだ。

 なのでここは逃げ出した貴族の邸を接収し、豪奢なバスタブに薔薇の花びらをたっぷりと浮かべて、ヴィルヘルミネはゆっくりと寛ぎたかったのである。この時点で令嬢は、事態を完全にナメきっていた。


 ――まあ、ヴァレンシュタイン公も余が会談を望んでおると知れば、悪いようにはせぬじゃろう。


 燃えるような赤毛を布でくるみ湯に付けないようにして、バスタブの中で大きく手足を伸ばすヴィルヘルミネ。側には帯剣したゾフィーが侍り、周囲を警戒している。「一緒に入るのじゃ」と言った令嬢の要望は、にべもなくゾフィーに撥ねつけられていた。


 何ならエリザにも同じことを言ったヴィルヘルミネだが、彼女にお腹の傷を見せられて、「やっぱりいいのじゃ」と逃げ出し現在に至っている。


 とはいえ、根が臆病で用心深い赤毛の令嬢のこと。ここまで楽観できるのには、別の理由もあった。仮にヴァレンシュタインと戦うことになったとして、既に手は打ってある。以前リヒベルグとベーア=オルトレップに送った手紙が、その正体であった。


 あれこそ短絡的でポンコツな彼女に相応しく、目先の問題を解決する為に先の問題を拡大するかの如き手段だ。しかし、ヴィルヘルミネは彼等に全幅の信頼を置いている。だからこそ手紙を送った時点で、安心しているのだった。要は政治的配慮を一切せぬまま、内緒で軍人に事態を丸投げしたのである。

 

 しかし令嬢にも誤算はあった。というより、全てが誤算とうっかりで錬成されているヴィルヘルミネだが、今回の誤算は特大級だ。


 なんと恐るべきことにリヒベルグとオルトレップは手紙の内容を、氷の宰相ヘルムート=シュレーダーに知らせていた。令嬢の内緒話など、ヘルムートにとっては拡声器を使用した注意喚起のようなものに過ぎないのだ。


 こうしてヘルムートはヴィルヘルミネがキーエフ帝国と戦火を交える決意をしたのだと見て取り、彼女の為に切り札を用意したのである。


 もちろん、こうした本国の動きをヴィルヘルミネは知る由もない。ただ最悪の場合でも、オルトレップとリヒベルグが来てくれる――なんて思っているだけだ。

 

 そうして令嬢は根拠の曖昧な安心安全を元に悠然と、かつての記憶を呼び覚ました。ヴァレンシュタインが娘と共にフェルディナントの公都、バルトラインを訪れた時のことである。

 

 ――そういえばヴァレンシュタイン公の娘、名を何と言ったかの? テレーズ、ミミーズ? んー、違うの。ああ、ルイーズじゃ。あやつ、元気かの? 考えてみたら余、あやつを落し穴に落として、その後、助けた記憶がないのじゃが……。


 ヴィルヘルミネはご幼少のみぎり、何かと上から目線のルイーズが面倒くさかった。なので彼女を呼び出し落とし穴へ落として蛙を放り込み、逃げ出したのだ。


「貴様のご高説は、そこな蛙にでも説くが良い。では――さらばじゃ」


 令嬢はそう言って、夕闇の迫る裏庭の森にルイーズを放置したのだ。


 ヴィルヘルミネはハッとして次にゾッとし、湯船の中で首を縮めた。


 ――あれでルイーズが死んでおったら、余、ヴァレンシュタインに相当恨まれておるのではないかッ!?


 なおルイーズはプライドが破局的に高い為、自身がヴィルヘルミネの落とし穴にハマっていたことを、今まで誰にも語ったことは無い。なのでヴァレンシュタインはこの事件を、まったく知らなかった。


 しかしヴィルヘルミネは自らの想像に怯えまくり、風呂から上がる。そして思い立ったが吉日とばかりに、「エルウィンを呼べ!」と言いながら身なりを整えて。

 

「防備を固めねばならぬ! ヴァレンシュタインは必ずや、我等に攻め掛かってくるであろうからの!」


 そう言い切る赤毛の令嬢にエルウィンは只ならぬものを感じ、急ぎ皆を招集するのであった。


 ■■■■


 キーエフ軍が司令部としていたホテルを、そのままヴィルヘルミネはバルジャン師団へ貸与した。現在はホテルにいくつかある広間の一室に令嬢を始めとした幹部達が集まり、今後の方針を話し合っている。そこでバルジャンが開口一番、こう言った。


「ブラッディ・ミーネって、いったい何をしたんです?」


 ヴィルヘルミネは沈着冷静そのものに見える白皙の頬を、僅かに引き攣らせた。あの時はテンションが上がりまくっていたから血塗れも気にならず歌ったり笑ったりしてしまったが、今思い返すと最悪だ。


 ブラッディ・メアリーを倒せたことは単なる偶然に過ぎず、従ってこんな異名を引き継ぐ理由など、一切無いからであった。なにより今は、それどころではない。


「何もしておらぬ。そのような話、どうでも良いのじゃ」

「そんな事お言いじゃないよ、ミーネ様。ブラッディ・メアリーを倒したときのアンタ、凄かったじゃあないか。蹴りと銃撃――たった二回の攻撃でアイツを倒すなんて、アタシでも無理ってモンさ。ハハハ」


 謙遜ともとれるヴィルヘルミネの言葉を、葉巻の煙をくゆらせながらエリザが否定した。上座に座る令嬢は「ふん」と小さく鼻を鳴らしたが、反論はしていない。

 表面上は確かに、そう見えたのだろう。結果としてブラッディ・メアリーを倒して血塗れになった令嬢は、ブラッディ・ミーネと呼ばれるようになったのだから。


 だが、そんなことはどうでもいい。ヴィルヘルミネは上座で両拳を握り締め、紅玉の瞳に怒気を滾らせていた。


 一見すると冷静に見えるヴィルヘルミネの表情から、ある程度の感情を読み取れる者が二人いる。その内の一人エルウィンが、令嬢の機嫌を慮って話題を変えた。


「それよりも問題はヴァレンシュタインが今後、どのように動くのか――でしょう」

「ああ、そうだったな、デッケン中佐。退去した残留部隊の指揮官がヤツの下に到達したとして、ヴァレンシュタインがとり得る行動は二つだが……」


 バルジャンは右手の人差し指と中指を立て、顔の前に上げた。全体を見渡し、「分かるか?」と問う。この場で彼よりも上位の存在は、ヴィルヘルミネとエリザだけだ。

 ヴィルヘルミネは上座にいてエリザは彼の正面にいるから、下座側にいるエルウィンを見ながら話せば必然的に、このような口調となる。


「そりゃ当然、会談を受け入れて紳士的に接してくるか――でなきゃ有無を言わさず軍事力をもって、ここを奪いに来るのだろうさ」


 フェルディナント艦隊の参謀長ビュゾーが、「それがどうした」と言わんばかりの口調で言った。


「後者だったら、どうする? 前回と同様、私達を見捨てて海軍の諸君は逃げ出すかね?」


 バルジャンも挑戦的に返す。


「やかましい。あれは、街を戦場にしない為の戦略的後退だ。しかし今の俺達はフェルディナント海軍、必要とあれば戦ってやる」

「なら結構だ、ビュゾー代将。どうやらヴィルヘルミネ様は、ヴァレンシュタインの選択が後者だと思っておられるようでな。とすると問題は彼我の兵力差だが――敵は少なく見積もっても二万五千。対して我々の兵力は諸君ら海兵を入れても一万八千といったところで、しかもニームは要塞化されている都市じゃあない……つまり」


 バルジャンは栗色の髪を描き回し、眉間に皺を寄せて言う。

 先だっての戦いで大軍を指揮した経験からか、ランスの英雄にはヴィルヘルミネとはまた別の、覇気とも呼べる何かが備わっている。この場の誰もが、彼の一挙手一投足に注目していた。


 そんなバルジャンの言葉を、赤毛の令嬢が引き継いだ。


「つまり陣形を構築できぬ海軍では、野戦を戦えぬ――ゆえに急ぎ防御陣を構築し、陸海の連携を密となすのじゃ」


 こうしてヴィルヘルミネが入浴時に感じた恐怖から、急遽ニームの北へ防御陣が築かれることとなったのである。

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