第136話 名将の願い


 軍勢と共にアルザス郊外の森で身を潜めていたヴァレンシュタインは、バルジャンに敗れたベッテルハイムと合流して苦笑した。


「なるほど。私も卿も、まんまと敵に踊らされたというわけだ。まさか、オーダン山脈に新道があるとはな」

「面目次第もございませぬ。調査隊を派遣して、事前に調べておくべきでした。このような失態を犯した以上、本来ならば万死をもって償うべきところですが……おめおめと閣下の下へ戻りましたるは、偏に敵軍の動向を報告せんが為にございます」


 幕舎の中、ヴァレンシュタインの前に跪くベッテルハイムの姿は、余りにも悲惨であった。普段はきちんと整えている髪もバラバラで、顔も汗や泥に塗れて薄黒くなっている。堂々たる体躯を包む軍服は至る所でほつれ、千切れていた。そうした有様をランプの灯りが仄かに照らし、彼の撤退行の過酷さを浮かび上がらせている。


「気にするな、ベッテルハイム。百戦して百勝というわけにもいかんし、そもそも卿の失態に関して遠因を辿れば、その責は私にある。だというのに卿だけを咎めて更迭などすれば、それこそ敵と戦う前に自らの手足を捥ぎ取るようなものであろう」


 鷹揚に手を上げ、朱色髪の名将は笑っている。とはいえ内心では、死んだ兵士達に詫びていた。万死に値すると言えば、自分の方が余程そうであろうと思うからだ。


 ヴァレンシュタインは大貴族の責務として軍勢を率い戦うが、必ずしもそれが好きというわけではない。むしろ領地で安穏と暮らし、週に一度、家族と歌劇オペラでも見に行ければ満足なのだ。

 それなのに何の因果か士官学校を卒業して以来、領地で悠々自適に暮らしたのは数年に満たず、ルイーズに兄弟を作ってやる余裕すら無い有様であった。

 

 ――やれやれ。北方戦線で大勝利なんか収めるから、人生設計が狂ってしまったよ。私は名将になどなるより、ただ、この子の父親でありたいだけなのだがなぁ。


 そんな父の子でありながら、ルイーズは戦争に憧れを抱いている。ヴァレンシュタイン公爵家で暮らしていれば、毎日のように誰かの口から当主の武勲譚が語られるのだから、それも当然であった。

 

 結果としてルイーズは父を尊敬するあまり帝国軍の幼年学校へ進学し、「将来は軍人になって、お父様の参謀になる」と言いだしてしまったのだ。

 それはヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントが、軍事の天才ともてはやされ始めた時期とも合致している。


 ――私は娘の人生も、狂わせてしまったのかも知れないな。はぁ……お父様のお嫁さんになる、と言ってくれたら嬉しかったのだが。


 今日も天幕の隅に椅子を置き、行儀よく座って本を読むルイーズに、ヴァレンシュタインが視線を送る。彼女の手にした本が『征服王の東征記』だったから、思わず天井を見上げて神に祈りたくなる朱色髪の名将なのであった。


「閣下――……」


 口を噤んだ司令官を訝しみ、ベッテルハイムが心配そうに見つめている。


「ああ、まあ――……という訳だから今後ともよろしく頼むよ、ベッテルハイム大佐」

「……はっ!」


 片膝を付いたまま大きく頭を下げるベッテルハイムをチラリと見て、ルイーズは軽く頷いた。どうやら彼女は偉大なる征服王と父の姿を重ね合わせ、悦に浸っているらしく。


「ところで、ベッテルハイム。卿が命を賭してまで私に知らせたかった、敵の動向というのは?」

「はっ。奴等は一路、ニームへ向かいました。ゆえに、このままでは我等の補給路が寸断されるのではと」

「ニームに残留させた部隊は?」

「二個大隊であります」

「ふむ……それは少ないな。しかし海軍と上手く協力すれば、一週間程度なら耐えられるのではないか?」

「それが、じつは奇妙なことがありまして」

「奇妙なこと?」

「はい。小官が出撃する前に、海軍も慌ただしく出撃したのです。何でも一個艦隊ほどの敵が出没したとかで――詳細を確認しようにもウィーザー提督ご自身が出撃なさり、分からずじまいでした」

「なるほど、卿の懸念は分かった。場合によっては、既にニームが陥落していると言いたいのだな?」

「御意」

「まったく――……どういう経緯かは知らんが、軍事の天才というものは……」


 途中で言葉を止めたヴァレンシュタインは右手で顔を覆い、近くに控えていた弟を姓と階級で呼ぶ。


「イシュトバーン少佐、ニームへ強行偵察。ウィーザーが勝利を収めていれば良し、そうでなければ敵艦隊の所属と指揮官を確認せよ。私の予想が正しければ、そこにはヴィルヘルミネがいるはずだ」


 イシュトバーンは敬礼を残し、すぐに天幕を出て行こうとした。するとルイーズが立ち上がり、彼の裾を掴んで止める。

 

「待つのだわ。これを」


 ルイーズは目の部分が巨大なボタンで出来たウサギの人形を年齢の近い叔父に手渡し、彼の紺碧色をした瞳を見上げている。そこには静かでありながら、大海原を思わせる力強さが備わっていた。


「……これは?」


 イシュトバーンが僅かに首を傾げている。


「叔父上は、これを見て何も分からないんですの? はぁ――……お守りに決まっていますわッ!」

「お守り……そうは見えないぞ。どちらかと言えば呪われそうな……?」

「なっ! これは呪術師シャーマンの末裔がくれた、由緒正しきお守りですのよ! 製法は兎の骨と狼の毛皮と先祖の遺髪と……それからそれから……とにかくまあ、伝統的な秘密ですわッ!」

「分からないか、忘れたのだろう?」

「そんなことありませんわ! 秘密なのです!」


 ルイーズの説明を聞き、いよいよ本気で呪われそうだと思ったイシュトバーンだが、しかし彼女が自分の身を案じてくれていることだけは理解した。

 

「分かった。ありがたく貰おう」

「誰が差し上げると言いましたか! 帰ってきたら、必ず返して頂きます――……だから強硬偵察の任務、どうかご無事で行ってらっしゃいまし」


 イシュトバーンは素直じゃない姪の頭を軽く撫で、ぎこちない微笑みと共に天幕を出た。

 確かに強行偵察である以上、危険は常に付きまとうはずだ。けれど、それで死ぬような男ならヴァレンシュタインは最初から、イシュトバーンに任せたりはしない。

 

 ――その辺りのこと、はやく分かってくれよな。


 妾腹の子であるが故に他家へ養子に出されたイシュトバーンは、ほんのりと心が温かくなっていた。彼の手の中には今、姪から手渡された人形がある。


 一時期は自身を追い出したヴァレンシュタイン家を、随分と恨んだものだ。しかも「本家を支えるのが、お前の使命だ」などと自身の存在価値を生まれた時に決められたせいで、相当な反発もした。けれど今は気持ちの悪い兎の人形を握り締め、「そういう使命も、悪くはない」と奇妙に納得した気持ちである。


「ああ、承知した。帰ったら必ず返すよ、ルイーズ」

 

 もう一度だけ朱色髪の少女の頭を撫でて、イシュトバーンは天幕を後にする。そして音も無く第七騎兵大隊の面々を集め、強行偵察に出るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る