第133話 ニーム上陸
海戦に勝利を収めたフェルディナント艦隊は、キーエフ艦隊の軍艦を曳航してニーム港へ入った。この知らせに驚いたのはベッテルハイム大佐が残した二個大隊、千二百名の駐留部隊である。
だが、彼等の驚愕はそれだけに留まらなかった。続く知らせが彼等の思考を、いよいよ硬直させたのである。
「大尉殿、敵艦隊から信号旗! フェルディナント公国摂政、ヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナント様の名で、こちらに交渉を求めておられますッ!」
「なんだと! それは確かかッ!? ウィーザー提督の艦隊はどうしたというのだッ!?」
「そ、それが……フェルディナント艦隊に曳航されておりまして……どうも降伏した様子であります」
想定していた最悪の事態だ。部下から報告を受けたニーム残留部隊の指揮官は拳で机を打ち付け、唇を
「ウィーザーめ、おめおめ敵に捕らわれるとはッ! 何がヴァレンシュタイン閣下の盟友かッ!」
「た、大尉殿。今、ウィーザー提督を責めても仕方がありません。如何なさいますか?」
「如何もクソもあるかッ! こちらの艦隊を降伏させるほどの相手に、たった千二百の兵で何ができる!? 相手が交渉を求めているというのなら、応じるしかあるまいよ! せめて少しでも時間を稼ぎ、重要書類を焼却して処分しろッ! 急げッ!」
■■■■
「――と、いうわけで、ニームの街には今、千人ていどの敵兵しかいないそうです」
旗艦リンドヴルムの貴賓室で眠っていた赤毛の令嬢に、エリザ=ド=クルーズが報告を齎したのは、時を遡ること四時間ほど前であった。
時刻は午前五時、払暁の灯りが窓から差し込んでいる。ボンヤリと目を開けたヴィルヘルミネは、寝惚け眼を黒髪の女提督へと向けた。
――ああ。余、何かあれば、いつでも起こせと言ったんじゃった。
寝台から起き出し、床の上に立つ。体がぐらりと揺れた令嬢はそれで、ここが船の上であることを思い出し……。
艦隊は周囲を哨戒しつつ、ゆっくりと北上を続けていた。三隻ほどの小型艦艇が戦闘後の混乱に乗じ、逃亡している。警戒は必要であった。
しかし、この程度の敵を取り逃がしたところで大きな脅威にはならない。だから明朝までに敵艦を捕捉、拿捕できなければニーム港へ向かうことになっている。
このような状況なので、もうヴィルヘルミネの出番は無かった。だから、彼女は諸般のことをエリザに任せて早々に部屋へ引き上げ、休んでいたのだ。
そのエリザが部屋に来て、船が揺れた。ヴィルヘルミネは何かにしがみ付こうと思い、そこで目の前のエリザに手を伸ばす。
これは倒錯の乙女ヴィルヘルミネにとって、千載一遇のチャンスであった。黒髪の女提督に抱き付き、豊かな胸の感触を確かめようではないか。そして美女成分をたっぷりと補給し、今日という一日を豊かに生きるのだ。むはー!
そんなわけでヴィルヘルミネはしっかとエリザに抱き付き、船の揺れに耐えようとした。いやむしろ船の揺れは大したことが無く、なんと令嬢は自らが揺れて頼もしき美女エリザにしがみ付いている。
その時、突如として冷酷な声がヴィルヘルミネの背中に突き刺さった。
「ヴィルヘルミネ様、おはようございます。さ、お着替えを致しましょう。クルーズ提督も、ちょっと離れて下さい」
完全武装のゾフィーに首根っこを掴まれて、ベリベリと幸せの果実から剥がされる哀れな公爵令嬢だ。
――ゾ、ゾフィー。いったい、いつ眠っておるのじゃろ? 昨日は余と一緒にベッドへ入ったはずなのに……。
夜は令嬢より後に寝て、朝は必ず先に起きる。そんな金髪の親友が不眠に見えてしまうのは、ヴィルヘルミネが一日の大半を眠って過ごすからに過ぎないのだが。
「フフ。軍事の天才といっても、まだまだ子供だね。寝惚けていれば可愛いもんじゃあないか」
「クルーズ提督言っておきますがヴィルヘルミネ様は昔からいつだって可愛くて美しいのです小さい頃はそれはもうプニプニのフワフワでしたそんなことも知らんのに気安く触るな三十回殺すぞ」
ゾフィーは呪詛のような言葉と共にエリザからヴィルヘルミネを引き離すと、手早く着替えさせた。そのままボンヤリしている彼女に薄化粧を施し、あっと言う間に冷然とした赤毛の令嬢を完成させる。
エリザは呆気に取られて、その様子を茫然と見つめていた。
「ニームの兵は千名ていどか……しかしなぜ、そのようなことが分かったのじゃ?」
フェルディナント軍近衛連隊大佐の華美な軍装で身を整え、つやつやピカピカの軍靴でヴィルヘルミネが床を鳴らす。僅かに吊り上げた眉毛が、情報の出どころを訝しんでいる――ように見えた。
むろん実際は他に訊くことが無く、とりあえず無駄口を叩いただけの令嬢である。
「ああ……用意は終わったんだね。そう、それなんだけど……」
暫し茫然としていたエリザは、眉を吊り上げ腰に手を当ててこちらを睨む赤毛の令嬢に圧倒されて、思わずゴクリと唾を飲む。ボンヤリしていた反動でヴィルヘルミネの圧を、うっかり真正面から受けてしまった。
「なんじゃ、提督。言い淀むようなことか?」
「――いや、まさか。哨戒に出していた船がニームの漁船を捕まえてね、乗っていた漁師に聞いたんですよ。で、アタシらは元々ニームを母港にしていたから、その漁師とアタシの部下が顔見知りでね。なら、嘘じゃないだろうってことで、報告に来ました」
「で、あるか」
「どうします? 敵がこの程度の数なら、ランス軍と連携する必要も無さそうですが」
「――うむ。皆を集めよ、意見が聞きたい」
■■■■
夜も明けきらぬ早朝に幹部達を士官食堂へ集めたヴィルヘルミネは、完全にノープランであった。要は「話し合って、みんなで勝手に決めてよね!」という気持ちで皆を招集したのである。
むろん、これは彼女にとっても皆にとってもベターな選択であり、様々な可能性が検討された。そうして出された結論は、「キーエフ軍が一両日中にニームを退去するのならば、攻撃は仕掛けない」というものであった。
理由としては、戦えば必ず勝てる兵力差だが、だからこそ進退窮まった敵が住民を人質にするかも知れないからだ。その場合、勝っても後味の悪い犠牲者が多く出ることだろう。
またヴィルヘルミネの立場は、あくまでもヴァレンシュタインとの交渉を求めるものであった。ならば、こちらから攻撃を仕掛けることは得策ではない。
むしろニームから退去させたキーエフ軍に親書を託し、ヴァレンシュタインとの交渉に一役買ってもらう方が良いだろう――というエルウィンの提案に、皆も賛成したのだった。
「だがキーエフ軍と交渉するにせよ、具体的な条件は、いったい誰が詰めるんだ?」
ギザギザ眉毛のラメットが、獰猛な笑みを浮かべていた。誰もが、「コイツにだけは行かせちゃあダメだ。絶対に喧嘩しかしない」と思っている。
「もともとランスの駐在武官ですし、ここは僕が行きましょう。役職的にも、丁度良いかと思いますが?」
ピンクブロンドの髪色をした青年が手を上げた。ヴィルヘルミネは任務の危険性を考え眉根を寄せたが、その時、カミーユも手を上げ名乗りを上げて。
「では、私も行きましょう。どうせ一人で行くわけにはいかないのだし、私はニームの街にも詳しいから、適任ではないかと」
こうしてヴィルヘルミネが「あ、う、あ、う」などと口をパクパクしている間に、美貌の士官二人の上陸が決まるのだった。
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