第132話 東オーダン山麓の戦い 2
大地を揺るがす馬蹄の轟きと共に、アデライード率いる二千の騎兵がオーダン山脈の麓を駆け抜ける。鈍色の胸甲が東から登る朝日を受けて、水平に構えた
アデライードは突撃の最中、逆光に目を細めている。敵の背後に回ろうとした理由は、それを避ける為でもあったが、いまさら後悔しても始まらない。
キーエフ軍は勇敢にも前進し、麓の開けた場所で陣形を整えようとしている。だが、体格に優れたランスの巨馬に跨り猛然と迫る敵騎兵を前に、動揺は隠しきれない。それが齎すいくつもの綻びが、アデライードには見えていた。
彼女の任務は砲撃によって生まれた敵の傷口に入り込み、広げ、更なる出血を強いること。だからもっとも混乱に満ちた場所へ、率いる胸甲騎兵を躍り込ませるのだ。
「
振り上げた
哀れなキーエフ歩兵が最後に見たものは、軍帽から溢れたアデライードの豊かな金髪であった。お陰で彼は
だが、そんな幻想を抱くのは、ほんの一握り。キーエフ兵の大半にとって、馬上で
斜面を駆け下り突撃を敢行して敵の傷口を広げると、アデライードは天幕が連なる敵の幕営に出た。そこには未だ火が付いたままの焚火があり、砲撃によって散乱した朝食や手足の千切れた死体が残っている。
「全軍反転して、再突撃せよッ!」
アデライードは人が――自らの陣営が生み出した地獄絵図を視界の端に捉えたまま、決然と号令を下す。敵はまだ、浮足立っている。このまま数を撃ち減らせば、早々に降伏するかも知れないからだ。
結果として交戦が早期に終われば、流れる血の総量が減る。今はそれのみを目指し血濡れの
こうした突撃を二度、三度と繰り返すうち、アデライードはふと違和感を覚えた。繰り返すたび、敵にぶつかる衝撃力が落ちている気がしたのだ。
「まさか……いなされている?」
実際、その感覚は正しかった。
「半隊ごとに方形陣を作り、通り道を作れ! 銃剣を斜め上に向けて構え、馬を怯ませろ! 人がどれほど直進を望んでも、恐怖に駆られた馬は従わんッ!」
敵の指揮官――ベッテルハイム大佐が声を枯らし叫んだ命令が、ようやく生きてきたのだ。キーエフ兵達は信頼する上官の命令に応えて半隊(小隊二つ分)ごと、三十五個の方形陣を作っていた。
「――後退するッ!」
依然アデライード隊は優勢であるものの、敵が体制を整えてしまえば多勢に無勢となってしまう。アデライード隊は二千で、敵は四千なのだ。
むろん、それでも戦いようはある。しかし敵が騎兵突撃に特化した陣形を整えたなら、無理をして戦う必要など無かった。後方に無傷の歩兵部隊がいるのだから、当然である。
アデライードが馬首を翻すと、麾下の部隊も整然と引き上げていくのだった。
■■■■
アデライードの後退に合わせ、バルジャンは歩兵部隊を前進させた。予定の行動ゆえに手際は良かったが、しかし、この時点で予想外のことが起きている。それは敵が陣形を再編しつつあることだ。
バルジャンの歩兵部隊は七千である。しかし山道が狭く到底、横陣をもって攻撃を仕掛けることは出来ないのだ。従って縦陣で敵へ攻撃を仕掛けるのは、必然であった。
むろん、敵が陣形を崩している状態であれば、突破力のある縦陣による攻撃は有効だ。一撃のもとに敵を破砕することも出来るだろう。あるいは、細かな方形陣が無数にある状態でも同様であった。
しかし敵は三十五に及ぶ方形陣から一気に横陣へと展開し、寸でのところでバルジャン隊を待ち構えることに成功したのである。
何故ならベッテルハイムは罠だと悟った段階で、バルジャン師団の作戦行動を看破した。砲撃により混乱を誘い、騎兵突撃で壊乱させる。そして詰めは歩兵による包囲殲滅であろう、と予測を立てたのだ。ゆえに、それに見合う陣形の構築を急がせたのである。
何故これほどまで正確にベッテルハイムがダントリクの作戦を予測し得たかと言えば、この戦法をヴァレンシュタインも使ったことがあるからだ。むしろダントリクの方が彼を模倣したのだが、だからこそ相手が悪かったと言えるのだろう。
「しまった! バルジャン少将! 歩兵部隊を後退させてくんろッ!」
敵の機動を見て、ダントリクがバルジャンの袖を掴む。しかし既に前衛部隊は敵と交戦を始めており、後退させるのは容易なことでは無かった。
「いや、ダン坊――……もう前衛が戦っている。いま後退させたら犠牲が出るぞ」
「だ、だども……」
「大丈夫だ。ほら、すでに敵は退き始めている。問題ないだろ?」
このときベッテルハイムは中軍後方にいて、馬上から全体の動きを冷静に見つめていた。突出してくるランス軍は、今のところ一千弱だ。
「中央部隊、敵の前進に合わせて後退しろ! 後退に合わせて左右両翼は突出、敵を半包囲するッ!」
――ここでしくじれば、全滅だ……!
知らず、ベッテルハイムの咽喉はカラカラになっていた。永遠にも感じられる数十分、彼は徐々に部隊を後退させ、ランス軍の前衛部隊を遂に半包囲の中へと誘い込む。これがいつもの勝ち戦であれば、会心の笑みも出たであろう。
しかし今回の戦いは、既にして負けている。敵の一部を半包囲下に誘い込めたところで、喜ぶことは到底出来なかった。
「――反撃せよッ!」
退き続けていた中軍を止め、ランス軍へ反撃。同時に左右両翼も一気に襲い掛かる。今度は攻守を入れ替え、血の饗宴が始まった。三方を囲まれ圧倒的に不利な状況となったランス軍は、混乱の坩堝に陥っている。
「くそッ! 退かせろッ! ――いや、レグザンスカ少佐に伝令! 今度こそ敵の背後に食らいつき、その腸を喰い破れッ!」
バルジャンが下した命令は、やや遅かった。ダントリクが戦況を見つめ、茫然としていたからだ。
「そ、んな……嘘だべ……考え得る限り、最悪の状況なんさ。ベッテルハイムが、こんなに強いなんて……あり得ねぇべ」
こうなればバルジャンも、独自に判断せざるを得なかった。
だが敵は、またしてもダントリクの想定を超えていく。突出したランス軍が壊乱状態に陥るや、全軍で後退を始めたのだ。
結果として雑然とした味方に邪魔をされ、アデライードの騎兵部隊は敵の追撃を断念せざるを得なかった。同様の理由で本隊を進めようにも前衛の混乱を収拾させねば、どうしようもない。
「やれやれ、敵さんは逃げ出したか。ま、俺でもそうするよ。懸命な判断さ」
砲撃目標を変え、やや至近に設定し直していたオーギュストが銀色の髪をかき上げた。「私が歩兵の指揮を代わり、敵を殲滅しましょう」と、バルジャンへ進言しようと思った矢先のことだ。
バルジャンは部隊の混乱が収まるのを待ち、索敵の為に偵察兵を四方に放った。三時間後に齎された報告によれば、敵は複数の部隊に分かれて北へ――つまりアルザスを目指しているという。
これでは追撃する為に、こちらも部隊を分けて北上しなければならない。それではただでさえ一日遅れたヴィルヘルミネとの合流が、更に遅れてしまう。そのうえ北に向かえば、ヴァレンシュタインの本軍と出会ってしまう可能性もあった。
「仕方がない――当初の目的は達成した。ニームへ向かうぞ」
正午過ぎ、陽光を隠した灰色の雲を睨み、バルジャンは宣言をした。ヴァレンシュタインどころか、その部下さえもこれ程に手ごわいのだ。ランスの守護神にして英雄の股間は、すっかりヒュン――としてしまった。
そんなバルジャンに頭を下げ、ダントリクが申し訳なさそうに詫びている。
「オラの計算が甘かっただ。将の指揮能力っていうものを、もっと考えねばダメだったんだべ」
「いいさ、ダン坊。戦いには勝ったし、お前は良くやったよ。何より作戦を決定して遂行したのは、俺なんだぜ? お前さんが責任を感じることなんて、これっぽっちも無いんだよ」
ポケットから小さな豆を出し、抓んで口に放り込みながらバルジャンが言う。ダントリクは眼鏡を少しだけ持ち上げ、こみ上げる涙を指で拭った。
――オラ、オラ……もっと、この人の為に働きてぇ。もっと役に立ちてぇ……そんで、そんで……。
根がゲスなバルジャンは、プルプルと震えるダントリクが可愛かった。だからカッコイイことの一つでも言って、好感度を上げようと思っただけだ。しかしこれが結果としてセレス=ダントリクに、鉄の忠誠心を与えてしまうのであった。
この戦いによりキーエフ軍は三割、千二百の兵を失っている。一方でランス軍の死傷者は、百名弱であった。
結果だけ見れば、これはランス軍の大勝利である。実際にランス軍はニームを目指す道中、大いに勝利に湧いていた。
しかし作戦の立案者と実行者は出来の悪い絵画を描いてしまった芸術家のように、憮然とした表情でニームへ入っている。
そこでバルジャンとダントリクは、同じく憮然とした表情のヴィルヘルミネと再会を果たすのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます