第131話 東オーダン山麓の戦い 1
ダントリクが策を巡らせてから五日目。バルジャン師団が山脈を抜けると東南方面の麓には、敵軍およそ四千が陣を構えていた。彼等は見事、少年の罠に嵌ったのだ。
むろんヴァレンシュタインの本軍も姿を見せておらず、その意味でもダントリクの策は見事に的中している。
とはいえバルジャンはダントリクとの約束どおり自身の発案として作戦を実行していたから、黒髪の少年が賞賛を受けることは無かった。むしろバルジャンの名声が高まり、戦う前から「ランスの守護神」などと持て囃されている。
だが、元より自身の発案ではない作戦だから、どれほど褒められてもバルジャンは苦笑を浮かべるだけ。これがまた謙虚過ぎる知将に見えて、いよいよ兵士達は彼を崇拝する始末なのであった。
「驚いたな。バルジャン閣下の言うとおりに動いたら、戦う前から敵に勝ちそうだよ」
「ああ。しかも連中、こっちには全く気付いてねぇ。どんな魔法を使ったら、こんなことが出来るってんだ? ハハハ」
山中の台地に大砲を設えた砲兵が、同僚と共に望遠鏡を覗いている。激戦や混戦が予想される戦場では強がりでしかない笑声も、今は余裕からのものであった。
「お前達、もう間もなく砲撃開始だ。勝てるからと言って、くれぐれも油断するなよッ!」
油断するなと言う砲兵指揮官の言動にさえ、確信した勝利の形が垣間見える。それ程までにバルジャン師団は今、有利な状況にあるのだ。
敵は朝の烹炊で、無数の煙を上げている。ダントリクの情報操作により、ランス軍の到着を明日から明後日だと考えている為だ。つまりキーエフ軍は天幕も畳まず、戦闘単位ごとの小集団に分かれている状態なのであった。
これではランス軍が攻撃を開始しても、すぐさま体制を整えることは出来ないだろう。陣形を組もうにも、その場では天幕などが邪魔になるからだ。
とはいえランス軍を要撃する為に出張った部隊である以上、警戒は怠っていないらしい。ランス側も騎兵も大きく迂回させて、敵の背後へ回り込む――という戦術は使えそうもなかった。
ランス軍は払暁から移動を始め、すでに陣形を整えている。といって平坦な地形ではないから、どうしても陣形が変則的なモノになってしまう。
今回重要な点は砲兵が敵を正確に射撃できることと、敵の混乱に乗じて騎兵を突撃させることである。
最終的には歩兵による包囲殲滅を狙うのだが、その前段階で敵が降伏を申し出てくれるのが望ましい。
だからこそ陣形を作るにあたって一つの問題点があった。それが、アデライード率いる騎兵部隊二千の配置である。
山間の狭隘な地形ゆえに、騎兵突撃を狙える箇所が限られていた。当初の予定では敵の後背を衝くべく機動しようと考えていたのだが、どうやら不可能らしい。敵の目も厳しかった。
「やれやれ。地図と実地では、こうも状況が変わる。敵もどうやら、容易く騎兵を後ろに回り込ませてはくれないようだ。仕方が無い……正面攻撃に切り替えても大丈夫か、レグザンスカ少佐」
バルジャンは幕僚達を従え、敵の陣営が一望できる高地に立っている。望遠鏡から目を離すと、右隣に控えたアデライードに視線を移し、不安げに眉を寄せていた。
「砲撃により混乱を生じさせた後、敵へ突撃するのです。後方から迫るよりも意外性こそありませんが、斜面を下る騎兵を目にすれば、敵はその圧迫感により恐慌状態に陥る事でしょう」
以前のようにナメきった態度ではなく、アデライードは直立不動でバルジャンに答えた。正直なところ彼のことは今まで、二流の野心を持った三流の指揮官――という認識でしかなかった。それが今回の作戦を聞き、全てを実行に移した手腕を見て、完全に圧倒されている。
――これ程の軍才を隠し持っていたなんて。それとも国家が危急存亡の時だから、才能に目覚めたとでもいうの……?
バルジャン的には絶世の美女に見直されて本来なら嬉しいはずだが、この功績は本来ダントリクに帰すものである。だからアデライードが翠玉のような輝きを放つ双眸にどれほど尊敬の念を込めた所で、流水の如くに受け流してしまうのだった。
「分かった。レグザンスカ少佐の力を信じ、作戦を一部変更しよう。とはいえ、なるべくなら万全を期したい。ランベール少佐。騎兵の援護にあたる砲撃だが、敵の位置は問題ないな? 手前で砲弾が落ちる――などというのでは、話にならんぞ」
バルジャンは左隣のオーギュストに視線を移し、敵を指さして言った。
美女による尊敬の眼差しにも動じず淡々と作戦を遂行するバルジャンの姿は、オーギュストにとっても理想の指揮官に見える。
「問題ありません。西から東への風です。砲弾は飛び過ぎることがあっても、手前に落ちる心配は不要です」
「ならいい。なるべく兵士を失いたくない。頼むぞ」
オーギュストの肩に手を乗せ、バルジャンは唇を引き結ぶ。実際、彼は自分でも気づかぬ間に才能を開花させていた。それが何かと言えば、正確無比の部隊運用能力だ。
確かにダントリクは作戦を考案し、細かく仕様を書いた紙をバルジャンに託した。しかし、これを実際に寸分狂わず運用してのけたのはバルジャン本人なのだ。
敵に気配を察知されず接近して、地図上の正確な位置に部隊を展開した。それも数百ではなく、一万もの軍をである。到底、万人に無し得ることではなかった。
「では閣下、小官は直接砲兵の指揮を執るため、失礼致します」
「うむ。よろしく頼む」
オーギュストは一つ敬礼をして、踵を返す。
作戦の概要を聞いた当初、オーギュストは呆れていた。しかし今はもう、全てを認めるしかない。マコーレ=ド=バルジャンは、ランス軍きっての知将である。そして何より彼の将器は、自身を遥かに上回るものであるということを。
ただ、当のバルジャンはアデライードとオーギュストの信頼を勝ち取ってしまったことも、才能が開花してしまったことも知らない。
だから「ほんとに勝てるよな? な? ダン坊。大丈夫だよな?」などと少年の耳元に口を寄せ、落ち着かぬ様子でモゾモゾと動いているのだった。
■■■■
高々と掲げたオーギュストの右手が、大きく振り下ろされる。
「砲撃を開始せよ」
オーダン山脈の東部に、雷鳴の如き砲声が轟いた。紅葉に染まる山麓がビリビリと震えている。鳥たちも一斉に飛び立った。数秒後、無数の砲弾が降り注いだキーエフ軍の陣営は朝食の談笑が一転、悲鳴と叫喚に取って代わり――
「狼狽えるなッ! 敵が来ることは分かっていた、それが早いか遅いかの違いでしかないわッ!」
朝食をとっていたベッテルハイム大佐は硬いパンを握り締めたまま、幕舎の外へと飛び出した。砲弾が降り注ぐ空を見上げると、逃げ惑う兵士を憤怒の形相で叱咤する。
敵の罠に嵌ったことは、瞬時に察知した。しかしだからと言って、無条件で敗北に身を委ねるつもりは無い。
「前進して陣形を整えろッ! 砲弾の次は騎兵が来るぞッ! 急げ、迎撃だッ!」
「しかし大佐! 敵の数が分かりませんッ! そもそもヴァレンシュタイン閣下の本軍はッ!?」
副官が身を縮めながらベッテルハイムの馬を引く。それに跨りながら、武骨な大佐は頭を振る。
「来るものかッ! たったいま、俺達は敵の罠に嵌った――いや、嵌っていることが分かった! この上は被害を最小限に抑え、撤退するしかあるまいよッ!」
「ですが大佐、それではなぜ迎撃を!?」
「仕方が無かろうッ! 万が一敵に後ろを見せたり、この場で無様な混乱を続けてみろ! それこそ一方的に蹂躙されて、壊滅の憂き目を見るぞッ! とにかく、死にたくなければ俺の命令を速やかに全軍へ伝えろッ!」
ベッテルハイムは降り注ぐ砲弾の中、一定数の損害を覚悟して兵達を前進させた。全ては陣形を整える為であり、それこそが騎兵突撃を防ぐ最善手だからである。
こうしたキーエフ軍の動きに、アデライードが細く美しい眉を僅かに顰めた。
「閣下、敵の行動が予想を上回る速さです。こちらも予定を早めて、騎兵突撃に移っては如何でしょうか」
アデライードに言われるまでも無く、バルジャンも敵の動きの速さに目を見開いていた。助言を求めて側のダントリクに視線を送るが、彼もまた戦況を食い入るように見つめている。
「ダン坊、敵の動きが気になるのか?」
「んだな……流石にヴァレンシュタイン公が一目置く部下なんさ。ベッテルハイム大佐は良将だべ」
「てことは、だ」
バルジャンの意図を察したダントリクは、コクリと小さく頷いて見せる。
これで勇気百倍、太鼓判を押された気持ちでアデライードに「よし、行け。急げッ!」と命じるバルジャンなのであった。
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