第130話 ダントリクの諜報戦


 ニームに駐留する守備部隊指揮官のベッテルハイム大佐は、相反する二通の命令書に頭を悩ませていた。

 十月十四日に届いた命令書には、「ニームを堅守すべし」とある。

 しかし先ほど新たに届いた命令書では、「オーダン山脈の麓へ出撃し、進出する敵を迎撃せよ。もって南下途上にある我が本軍と敵を挟撃すべし」とあるのだ。


「いずれどちらかが敵の罠であろうが、ランス軍が迫っていることだけは間違いあるまい」


 先ほど急報が齎されたらしい海軍も、慌ただしく出撃している。曰く「所属不明の艦隊が出没した」とのことであった。不確定な情報ながら規模は一個艦隊ほどで、旗艦にはフェルディナントの一角獣旗ユニコーンが翻っているという。


 最悪の事態はこの艦隊と敵の陸上兵力が呼応し、ニームを陸、海から挟撃する場合だ。これに備えるならば、軽々にニームを動くべきではない。「堅守すべし」という命令こそが本物だと思える。


 しかし一方でヴァレンシュタイン公爵ならば全てを承知で敵の罠を利用すべく、策を巡らせた――とも考えられた。


 オーダン山脈を踏破し疲労の極致に達した敵に対し南北からの挟撃を仕掛ければ、海戦の結果がどうあれ我が方の勝利だ。万が一ニーム港が再占拠されたとしても、敵の陸上兵力を屠った後に全軍をニームへ向ければ、それで事足りる。


 何より派遣された艦隊の司令官は、ヴァレンシュタイン公の盟友とも言えるウィーザー提督だ。早々に負けるとも思えなかった。であれば「オーダン山脈の麓へ出撃すべし」という命令も、本物のような気がするのだ。


「さて――……ヴァレンシュタイン公がお望みなのは、果たしてどちらであろう」


 ベッテルハイム大佐は司令部として借り上げたホテルの一室で、窓辺から海原を見つめ思案するのだった。


 ■■■■


 ベッテルハイム大佐は四十八歳。最初に戦場へ出たのは十四歳で、二等兵から始めた叩き上げの軍人だ。極端にほりの深い目元が印象的で、ガッシリした体躯は巌のようであった。実戦指揮官としては勇猛かつ冷静沈着であり、ヴァレンシュタインをして「得難い」と言わしめる程の男である。


 しかし、もともと口数が少なく上官であろうと非は正すべきだと考える厳正なベッテルハイムは、ヴァレンシュタインと出会うまで、お世辞にも上官に恵まれていたとは言い難い。


 例えば貴族の上官が酒に酔い、部下の女性兵士を強引に宿舎へ連れ込もうとしたときのこと。ベッテルハイムは女性兵士を救うため、上官を殴り倒した。その時など、危うく銃殺刑に処されそうになっている。


 それを助けたのが任官前のヴァレンシュタインであったと知ったのは、出会ってから暫くした頃のことであった。


「だから私は、君のいる小隊に志願したのさ。楽をしたかったからね」


 ヴァレンシュタインの言葉に武骨な敬礼しか返せなかったベッテルハイムだが、心は、この時に定まったといってもいいだろう。


 ――この方の為に命を捧げよう。俺に出来ることは所詮、いくさ働きくらいだが……


 今から十五年ほど前、ヴァレンシュタインが小隊指揮官になった日を、ベッテルハイムは今でも覚えている。何しろ遅刻してきた新任の少尉に対し、先任軍曹であった彼が怒声を浴びせたからだ。


 少しボンヤリとした琥珀色の両目を忙しなく瞬かせて、ヴァレンシュタインは朱色の髪を描き回していた。この頃の彼はまだ、頭髪をオールバックに固めてはいなかったのだ。


「いやぁ、ごめんね。私としたことが、夢でとても素敵な女性に出会ったものだから――……」

「それで少尉殿は、目を開けるのが惜しくなったのですか?」

「それがね、目が覚めてしまったものだから、もう一度目を瞑ったんだ」

「その素敵な女性とやらには、また出会えましたかな?」

「ダメだったよ。次に出てきたのは、頭が牛みたいな怪物だったね」

「そりゃあ、ミノタウロスですな」

「そうそう、まるで今の君みたいに目を吊り上げながら、顔を真っ赤にして怒っているのさ。ああ、今にして思えば、あれは君だったのかも知れないね! アハハハハ!」

「あははは――……って、笑いごとじゃねぇんですよ! 軍隊ってやつはね!」


 あれからベッテルハイムはヴァレンシュタインと共に、いくつもの戦場を駆け抜けた。お陰で彼は平民の最高位、大佐の職位も得たのだ。


 ――閣下の為に働ける時間は、あと十年も無いだろう。だと言うのに閣下の負担は日々増大し、俺自身の職責は変わらぬままなどと……楽をさせて頂いているのは、俺の方ではないか。


 目を閉じると、書類に埋もれて呻くヴァレンシュタインの姿が浮かんでくるようだ。


 ――もう少し、俺を頼ってくれても良いのだがな。いや……俺が平民の枠から抜け出そうとせぬから、閣下は気を使っておいでなのかも知れん。


 この戦いに勝利を収めたなら、その功績はベッテルハイムの為に将官への扉を開くであろう。

 いや、今まで幾度も彼は、その扉の前に立ってきた。開かなかったのは、彼自身に他ならない。


 ――俺が将官になってさえいれば、あの方が雑務に時間を割かれることなどなかった。そうであれば、敵に策を弄する暇さえ与えなかったものを……!


 ベッテルハイムは白くなり始めた黒髪を撫でつけ、海を見つめる瞳に力を込めた。

 

「ヴァレンシュタイン公の軍隊は、戦って勝つ軍隊――ならば行くべき道は、決まっている。誰に罠を仕掛けたのか、敵に知らしめねばならぬ」


 ■■■■


 ダントリクは十名の伝令兵から、順番に報告を聞いていた。中でも「ヴァレンシュタインが北へ向けて軍を動かし、その後の動向は不明」という報告を受けると、珍しく小躍りして喜んでいる。

 その姿が余りにも可愛かったから、彼と行動を共にした男の伝令兵達は皆、後に「俺、男でもイケるかもしれない……」と口にしたという。


「それにしてもダントリク伍長。どうやって、あのヴァレンシュタインを騙したんです?」

「ああ、それはな――……オラ、主要国の将軍と幕僚の名前と人となり、それから筆跡を覚えているだ。だからベッテルハイム大佐の筆跡を真似て、彼の性格を利用しただけなんさ」


 この話を聞き十人中八人は「へー、すげーなー、ダントリク伍長ー」くらいにしか思わなかったが、そのうちの二人が彼こそ真の天才だと気付き、従い続けることになる。

 一人は眉毛を隠すように目の上で黒髪を真っ直ぐに切り揃えた、サイドアップの少女。もう一人が栗色髪の、陽気な糸目の少年であった。

 

「それにしてもヴァレンシュタインもベッテルハイムも、命令書や援軍要請が全部偽物だなんて思わないでしょうね」


 サイドアップの少女が、年齢の割に妖艶に見える緑色の瞳でダントリクを見つめて言う。ヴィルヘルミネもびっくりの仏頂面であった。


「はは……んなことねぇだよ。恐らくヴァレンシュタイン公からはベッテルハイム大佐への命令書が、ベッテルハイム大佐からはヴァレンシュタイン公への報告書が、それぞれ行きかっているべ。んだからオラの作った書類は、彼等に混乱させる切っ掛けを与えたに過ぎないんさ」

「じゃ、じゃあ、どうして敵さん、引っ掛かってくれたんですか? セレスたんが可愛いからっすかね!?」


 糸目の少年が、ダントリクの周りをくるくると回りながら踊っている。やたらと軽い身のこなしだ。


「セレスたん!? い、いや、それこそ、ヴァレンシュタイン公爵とベッテルハイム大佐の人となりだべさ。今まで彼等は負けたことがないから、勝つ為の方程式が出来上がっているんだべ。つまりこの場合は、敵の罠を逆に利用してやろうと考える――そんな風に彼等の思考を、今回は誘導したまでのことなんだべ」


 ダントリクの眼鏡が怪しく輝き、伝令兵全員が息を飲む。


「ま、そういったことを考えたのは、全部バルジャン少将だけんども、な」


 そういうダントリクの言葉を八人までは信じたが、残る二人はそれぞれの表情で苦笑を浮かべている。

 

 翌十月十六日早朝――オーダン山脈東の山麓において、ランス軍バルジャン師団とキーエフ軍ニーム防衛部隊の会戦が始まるのだった。

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