第127話 ルイーズの親孝行
十月十四日十八時――哨戒任務から戻ったイシュトバーンは、報告の為にヴァレンシュタインの執務室を訪れた。
書類仕事の嫌いなヴァレンシュタインは机の上に大量の紙片を置き、ペンを手に悪戦苦闘をしている。大体は補給物資の分配や捕虜を収容する施設から上がってくる苦情など、司令官が自ら処理する必要の無い仕事ばかりであった。
しかし現在のヴァレンシュタインには、ヴィルヘルミネにとってのヘルムートやトリスタンのような存在がいない。あるいは何事にも目を通しておきたい彼の性格が、余計な仕事まで抱え込ませてしまうのかも知れないが……。
イシュトバーンは苦労性な司令官を前に敬礼をし、手を後ろに組むと報告を始めた。執務机の脇で本を読むルイーズを無視しているのは、べつに嫌がらせの類ではない。
「やはり閣下の予想通り、山脈を越えてくるような大部隊はありませんでした。一万前後という部隊も、今のところは見当たりません」
「そうか。陽動の為に別動隊を動かす程度のことは、やるかと思ったが……」
「ただ、奇妙な情報を掴みました」
「奇妙な――……?」
「はい。北方から、このアルザスを目指して五万のランス軍が南下している――というものです」
「情報の出どころは?」
「我々を見て、慌てて逃げだした商人です。ランス軍による奪回作戦が迫っているから、アルザスへは行かない、と」
「ふむ……商人としては、戦火に巻き込まれるのはごめんだ、ということか」
イシュトバーンの話を聞きながらも、ヴァレンシュタインは書類を処理する手を止めはしない。全軍三万の兵を日々飢えさせず、十全な日常を送ってもらう為に必要な書類の決裁だ。手を抜くわけにはいかなかった。
また、先の戦いで捕虜にした敵の将軍、ガスパール=ド=シチリエの要望書など、目を通すべき書類も多い。ヴァレンシュタインは今、キーエフ帝国で最も多忙な陸軍大将なのである。
「最初の情報が敵の策略だったとすれば、ランス軍が南下している――という話は辻褄が合います」
手を止めないヴァレンシュタインを前に、直立不動でイシュトバーンが言葉を続けている。
「つまり敵は我が軍を南方へ誘い出し、その隙にアルザスを奪回しようと考えているのではないでしょうか」
「なるほど、確かにそれならば辻褄は合う」
「はい、閣下。それにヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントの戦術的特徴とも、これは合致します」
イシュトバーンは僅かに語気を強めて、身を乗り出した。彼は才気煥発だが、先日十五歳になったばかりの少年だ。だからこそルイーズとは違うが年齢の近いヴィルヘルミネに対し、思う所はあった。
――彼女だってまだまだ未熟だ、付け入る隙はある。
自らが少年だと自覚するイシュトバーンにとっては、やはり赤毛の令嬢も少女に過ぎないのだ。いかに軍事の天才ともてはやされていても、自分より年下なのである。
彼はルイーズと違い自らを天才とは思わないが、だからといって卑下してもいない。実際に貴族と云えども十五歳で帝国軍少佐というのは異例の出世であり、相応の矜持はあるのだった。
ヴァレンシュタインも歳の離れた弟に対し、相応の信頼を寄せている。軍才に限って言えば、自身よりも攻勢に強く突破力が高いと考えていた。
しかし実際に同数の兵を率いて戦えば前半こそ多少の優勢を許すものの、最後は経験の差で勝つのは自分であろうという分析をしている。
これは取りも直さず、イシュトバーンが既にして大陸有数の将器ということだ。
ゆえにこそヴァレンシュタインはイシュトバーンの言葉を是として、先を促してしまった。
「――と、いうと?」
「今までヴィルヘルミネは戦局において必ず有利な状況を作り出し、戦っています。そう考えれば我等に勝る大軍を擁していようとも、こちらの虚を突こうとするのではないでしょうか」
「なるほど。卿は南西の敵こそ彼女の作り上げた偽情報であり、これを陽動として敵本軍は北から来る――と、考えているのだな?」
「はい、流石は閣下。ご明察の通りにございます」
「だが、軍事の天才と名高い彼女のこと。実際に山脈を越えてくるかも知れんぞ」
「それは無いと思います」
「なぜ、そう思う?」
「先の戦で敗れたランス軍には、陽動と言えども遊兵を作る余裕など無いはず。ましてや閣下に勝とうと思えば、敵は一兵でも欲しいと考えるでしょう。ここで、兵力分散の愚は犯さぬかと」
書類から僅かに顔を上げ、朱色髪の帝国軍大将は目頭を揉む。イシュトバーンの言葉は尤もであった。
「ふむ……尤もな話だが、まだ断定はできんな。そもそもヴィルヘルミネは将ではなく、特使として向かっているという。戦う気があるのかどうかも、はなはだ疑問だ。まあともかく、ここは一つ試してみるとしようか」
「試す――と申しますと?」
「北へ向け、出撃して見せるのだ。もしも罠であれば、ヴィルヘルミネはこれを嫌うだろう。するとどうなる?」
「もう一度、偽の救援要請を出す――のでしょうか」
「そういうことだ」
会話の間も、ヴァレンシュタインの指はサラサラと書類の上にペンを走らせている。決して敵を軽んじているわけではないが、この時の彼は思考に集中力を欠いていたと言わざるを得ない。だからこそ、ダントリクの策を見抜くことが出来なかったのだ。
「ところでニームの駐留部隊には、どのような命令を下されたのです?」
「堅守せよと命じた。陸海軍が力を合わせて街を守れば、一万程度の敵が攻め寄せても十分に耐えられる。我等が到着するまで耐えてくれれば、いかようにも出来るだろう」
「なるほど、流石は兄上です。ここでもう一撃与えれば、ランスの新政府もきっと揺らぐでしょう。王政復古も近いと言えますね」
「――さて、な。細かい話は戦後のことだ。停戦なり終戦なりの交渉となれば、どうせ大臣どもがしゃしゃり出て、つまらん要求を箇条書きにするのだろうさ。私の出る幕じゃあないよ」
■■■■
父が仕事を処理する大きな机の脇に椅子を置き、今まで本に目を通していたルイーズの眉がピクリと動く。
――本当にヴィルヘルミネが、そのような策を? おかしいですわね、何かが違うのだわ! ……でもでもお父様が判断したのですもの、信じましょう!
パタンと分厚い本を閉じて、ルイーズは部屋を出る。もう間もなく夕食の時間だ。先に食堂へ行って、父が飲む葡萄酒を少しだけ水で薄めなければ。
なにしろヴァレンシュタインは出征後、随分と酒量が増えている。娘としては、少しでも父の健康に留意したいところなのであった。
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