第126話 名将の逡巡


 アルザスにおいて伯爵家の邸を接収し、司令部としたヴァレンシュタインの下に、急報が齎されたのは十月十三日のことであった。

 

「ランスの大軍が南西の山脈を越え、ニームへ迫りつつあり! ニーム駐留部隊の司令官ベッテルハイム大佐より、ヴァレンシュタイン閣下には至急援軍をお願いしたい、とのことであります!」


 報告を聞いた時、ヴァレンシュタイン大将は娘のルイーズ、それから歳の離れた異母弟イシュトバーン少佐と昼食後のコーヒーを嗜んでいた。

 豆は新大陸の植民地から仕入れたもので、ヴァレンシュタインが特に選んで買い付けたものだ。やや酸味のある芳醇な香りが特徴的である。


「ふむ……山脈側からだけか? 敵別動隊の存在は?」


 コーヒーの香りを楽しみながら、ヴァレンシュタインは報告を齎した部下に問う。


「はっ、ベッテルハイム大佐からの伝令によれば、敵は山脈を越える大軍――という報告以外、ありませんが……」

「そうか。敵がニームに狙いを定めたとなれば、いずれ我が軍の補給路を潰す意図であろう」


 窓の外では風に揺れる梢から落ち葉が舞い散り、いよいよ秋の深まりを見せている。そちらへ視線を移し、ヴァレンシュタインは少しだけ眉根を寄せた。


 ランス軍が進発したとの報告は、彼の下まで届いている。その遠征にはヴィルヘルミネも特使として参加しているとのことだから、彼女に一定の権限があるならニームを狙うだろう可能性も考慮できた。


 しかし、その場合はヴィルヘルミネがキーエフ帝国に敵対することを意味する。それは、余りにもリスクが大きいだろう。だからこそヴァレンシュタインは彼女の参戦の可能性を除外し、戦略を立てていたのだ。


 ――恐らくランス軍は再び堂々と南下し、大兵力を持ってアルザスへ攻め寄せてくるだろう。だいたい、そうでなければヴィルヘルミネが特使である意味が無い。ランスの意図としては我等を威圧した上である程度の譲歩を見せ、ヴィルヘルミネの顔で軍を退かせる、という筋書きであろうからな。


 だがランス軍が南回りで大きく迂回し、大兵力で山脈を越えニームを目指すというのなら、話は大きく変わってくる。つまり彼等は一戦して勝利を収め、キーエフ軍の補給路の一つを潰そうというのだ。


 ならばヴァレンシュタインとしても、方針を大きく変えなければならない。どうせ補給の関係上、ランス侵攻はアルザスまでが限界であった。


 たとえば皇帝が略奪を是とするのであれば王都まで攻め上ることも可能だが、元々が帝妹マリーや諸貴族の要請により軍を動かした手前、あまり無茶な行動は出来ないのだ。したがってヴァレンシュタインも年内に何らかの条件を付けて、ランス新政府を相手に交渉へ入るべきだと考えていた。


 しかし敵が戦うとあれば、受けて立つほかに道は無い。どうせ交渉するにせよ、もう一戦して勝利を収めた方が条件も良くなるだろう。

 むろんランス軍もそのつもりであろうが、ヴァレンシュタインが負けてやる義理も義務も無いのだから。

 

 ――戦いを望んだのがヴィルヘルミネ本人であれば、大きな問題だが……。

 

 ヴァレンシュタインは暫し沈思し、瞼を閉じる。

 

 ――いや、ヴィルヘルミネが裏で糸を引いているのなら、大兵力を動かし山脈を越えるだけ、という戦略は、いささか稚拙に思える。仮にランスの将軍……バルジャンと言ったか、その男の案であるならば、なぜ彼女は反対しなかったのだ。


 現時点で赤毛の令嬢が海軍を手に入れているなどと、神ならざる身のヴァレンシュタインは知らなかった。ましてやランス海軍は弱兵と言われていたし、実際に南方艦隊は一戦することもなく逃げている。それがいまさら牙を剥くなど、現実的に考えればあり得ない。

 だからヴァレンシュタインは海上から侵攻される可能性を、今のところ除外しているのだった。


 ――まあ、大軍を率いての山越えは、それだけで困難だ。成し遂げたいと考えることは、十分に軍事的ロマンチシズムを刺激するだろう。

 そんなものに陶酔しているのなら、ヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントも路傍の石と変わらんのだが、しかし――……な。


「お父様! 何をのんびり庭木なんて見ていますの!? これはもう、一大事ですわッ!」


 ■■■■


 父の深謀遠慮など知らないルイーズが、砂糖たっぷりミルク過多のコーヒー飲料入りカップを勢いよくソーサーに置き、颯爽と立ち上がる。しかし年齢の割に低い身長のせいで、椅子に座っている時と比してもあまり高低差が無かった。


「ルイーズ。一大事には違いないが、まずは報告を詳しく聞くべきだろう。何より全ては兄上――総司令官閣下の判断次第だ」


 むっつりと不機嫌そうな顔で、歳の近い姪をイシュトバーンが窘める。


「叔父様はすぐ、そうやって落ち着いたフリをして! わたくしよりもコーヒーにお砂糖を入れていることは、先刻お見通しですわよッ!」


 ダンダンダンと兎のストンピングのように床を蹴り、ルイーズが怒りを露にした。


「ルイーズ……砂糖のことは関係ないし、俺のことを叔父さんと呼ぶのはやめてくれ。そもそも二つしか歳が離れていないのだから」


 こめかみに血管の筋を走らせ、紺碧色の瞳でイシュトバーンがルイーズを睨む。ルイーズも負けじと琥珀色の瞳で年若い叔父を睨み返している。

 

 二人の間柄は叔父と姪であったが容姿的類似性は少なく、髪の色も目の色も異なっていた。とはいえ、どちらも絶世と言える程の美貌。だからいがみ合う表情さえ、絵になってしまうのだ。


 睨み合う娘と弟を放置して、ヴァレンシュタインはコーヒーの香りを嗅ぎながら報告の続きを促した。


「大軍というだけでは、具体性に欠く。実数はいかほどか?」

「はっ! 五万――とのことであります!」

「……ふむ」


 目を閉じて、朱色の髪をポリポリと掻くヴァレンシュタイン。


「五万なんて、お父様に掛かれば楽の勝ですわ! ランス軍なんてケチョンケチョンのペッペケペーにしてやりましょうッ! 善は急げと申します! さあ、早速出撃ですわ!」


 朱色のツインテールをブンブンと振り、ルイーズが拳を握り締めている。未だ伍長でしかないのに帝国軍大佐の軍服を着るルイーズは、どこまでもヴィルヘルミネに対抗意識を燃やしているのだった。


「いや……恐らくこれは、ランス軍の罠だろう。軽々に動くべきではない」


 ヴァレンシュタインは、静かに言った。


 あらゆることを総合して考えれば、そうとしか考えられない。大軍で山脈を越えるならば、その意図は奇襲である。つまりそれは、決して察知されてはならないのだ。ましてや敵には、かのヴィルヘルミネがいるという。罠と考えて当然であった。


 そして実際、これは罠である。

 ただしダントリクが考案し、バルジャンが実行する罠であったが。


「そういえば、ランス軍にはヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントも同行しているはず。であるならば、彼女の策略という可能性が高いですね」

 

 イシュトバーンも顎に手を当て、唸っている。


「とはいえ援軍要請をまるきり無視、という訳にもいかん」

「では、閣下――俺が偵察に行き、現状を確認してきましょうか?」

「ああ、イシュトバーン少佐。そうだな、恐らく敵はいないか、いるとしても一万前後であろうが――そうして貰おう。状況を確認した上で、追ってベッテルハイム大佐にも命令を伝えることとする」

「――はッ。では俺は早速、偵察に出ます」

「うむ、宜しく頼む」


 こうしてイシュトバーンは第七騎兵隊を南西へ展開し、ランス軍が接近しつつあるという情報の真偽を確かめる任務に就くのだった。

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