第123話 ニーム沖海戦 7


 猛然と襲い掛かってくるメアリーにヴィルヘルミネは面食らい、慌てて後ずさった。


「ファッ!?」


 令嬢に迫る銀色の刃が、夕日を反射して朱く輝いている。この世ならざる美しさから、ヴィルヘルミネは既にして自分が死後の世界へ旅立ったのではないか――などと思っていた。

 それ程にメアリーの踏み込む速度は凄まじく、とても令嬢の「なんちゃって剣技」では対抗できそうもない。


 だがヴィルヘルミネも、対抗できないなりに動き方は知っている。

 ともかくも状況の均衡を保つために、令嬢はバックステップで距離を取ろうとした。敵が前に出た分だけ自分も下がれば相対的な距離は変わらず、攻撃は当たらないのだ。


 しかしそれも敵の速度と自身の速度が同じか、それ以上であった場合にのみ有効な回避方法である。今回の場合ヴィルヘルミネの速度は、メアリーに対し大きく下回っていた。


 令嬢が二歩下がった時、メアリーは既に三歩の距離を詰めている。肩を入れて伸ばした剣先が、ヴィルヘルミネの喉元を抉ろうとした。その瞬間――!


 ぶん――と音が鳴って元女海賊の舶刀カトラスは空を斬り、令嬢は鈍い銀光を真上に見つめていた。


 ヴィルヘルミネは仰け反るようにして、舶刀カトラスを躱したのだ。胸の上を滑る銀色の刃を紅玉の瞳で見つめ、「ぷぇ?」と間の抜けた声を出している。

 自分でも「死んだのじゃ!」と思った瞬間、身体が宙に浮いていた。まさに偶然の出来事だ。


 幸いだったのは、後退するヴィルヘルミネの足元に敵兵の死体があったこと。それに左足を引っ掛け後ろに倒れてしまった令嬢は、そうして上半身を仰け反らせたのだ。メアリーの剣先が令嬢に付き出されたのは、丁度そのタイミングなのであった。


 さらに令嬢の悪運は続く。

 ヴィルヘルミネは仰け反りざま、うっかり右足を大きく跳ね上げていた。お陰で前傾姿勢になり飛び込んできたメアリーの顎に、クリーンヒット。見事なサマーソルトキックである。


 元女海賊は脳を激しく揺さぶられ、ガクリと床に膝を付いてしまった。


「ぐっ……このォ!」


 だが、それだけで崩れ落ちる程メアリーだってヤワではなく。ヨロヨロとふらつきながらも立ち上がり、思いもよらない蹴りを決めたヴィルヘルミネに迫っている。

 

 対してサマーソルトキックを見事に決めた令嬢だが、着地には大失敗。敵兵の死体に胸と顔から落ち、最悪の気分になっていた。


 とはいえ、これも悪運と呼べるのかも知れない。ヴィルヘルミネは死体の柔らかな腹部に着地したからこそ、無傷で済んだのだ。これが固い床であれば、大変なことになっていただろう。


 しかし顔を死体の腹部に埋めてしまったせいで、敵兵の致命傷であろう傷口から染み出す血が、口に入ってしまった。肉体的ダメージはなくとも、なかなかに大きな精神的ダメージである。


 令嬢は一生懸命ぺっぺっと血を吐き出して、血に塗れた頭を左右に振っていた。その間にメアリーは再び舶刀カトラスを振り上げ、ヴィルヘルミネに迫っている。


 主君が今や絶体絶命の危機だと、ゾフィーは状況を見て顔面を蒼白にした。しかし動けない。五人の敵に釘付けにされ、斬り抜けるにも時間が必要であった。


 むろん状況はエリザも同様だ。今や彼女はホラントのみならず、彼の部下を含めて七人の敵と対峙している。


 しかし逆に言えば、彼女達のような強者が敵兵を数多く引き付けているから、三倍に近い敵とも互角に戦えているのだ。

 そしてエリザの兵が三倍の敵にも怯まず互角に戦うことを知っていたからこそ、メアリーはこうしてヴィルヘルミネだけを孤立させる戦術を選んだのである。


「アンタが中々のモンだってことは分かったよ。でもね――あたしの勝ちさ。もういい、降伏する必要なんてないよ――ここで大人しく死んでおきなッ!」


 メアリーが舶刀カトラスを振り上げた。逆手にもった刃を振り下ろせば、それで令嬢の命脈は断たれるであろう。その時――


「む?」


 下を向き血を吐き出していたヴィルヘルミネは、敵兵の手に握られたままの短銃を見つけた。しかも弾丸が込められたままの―……。

 振り上げられたメアリーの舶刀カトラスと手元の短銃を交互に見つめ、赤毛の令嬢は決断を下す。


「余は、死なぬ」


 死体の手から短銃を奪い、腹ばいのままメアリーに狙いを定めて。もともと砲兵科のヴィルヘルミネだ、射撃だけは冗談ではなく得意であった。

 

 ヴィルヘルミネはメアリーの眉間に狙いを定め、「ん?」と考える。「怒った顔のメアリー、可愛いのじゃ」という、どうでも良いことであった。


 ――殺すのは、勿体ないのじゃ。とすれば、狙うのは肩じゃな。


 ドォォォォン!


 舶刀カトラスを振り下ろす一瞬の隙をついて、令嬢がメアリーの肩を穿つ。まさに瞬間の攻防だ。

 肩を撃ち抜かれたメアリーは舶刀カトラスを落とし、吹き飛ばされて仰向けに倒れ……。


「メアリィィィィィッ!」


 ホラントの絶叫が轟き、ここに戦況は一変した。

 

 ■■■■


 ブラッディ血まみれ・メアリーを倒したヴィルヘルミネであったが、相変わらず敵の死体の上に腹ばいという状態は変わらなかった。しかも銃を両手で撃った為に刀剣サーベルを手放しており、武器を所持していないという、戦場にはあるまじき状態だ。ちなみに彼女は、再装填すべき銃の弾丸を持っていない。

 

 まあ仮に武器を所持していたところで令嬢の戦闘力がどれ程のものかと言われれば、限りなくゼロに近いと言わざるを得ないのだが――……

 ともあれ無防備と見た敵兵の集団が、赤毛の令嬢に殺到するのは自明のことなのであった。


「おお……余がブラッディ血まみれじゃ」


 すっとぼけたことを言うヴィルヘルミネは、今まさに危機である。自身の後ろから、一人の敵兵が迫っていた。だが令嬢は未だ、そのことに気付いてはいない。


「ヴィルヘルミネ様ッ!」


 ゾフィーの叫びが木霊した。

 マンゴーシュで左から迫る敵兵の舶刀カトラスを弾き上げ、右手に握った軍刀サーベルで反対側から迫る敵の心臓を穿つ。

 流水を思わせる滑らかな動きでゾフィーは敵兵を圧倒し、今まさに致命の一撃をうけようとしている赤毛の令嬢の下へ走った。


 だが、一歩間に合わない。


 ゾフィーが付き出した剣は敵に届かず、ヴィルヘルミネの脳天に敵の舶刀カトラスが迫っていた。

 ヴィルヘルミネは「ブラッディ、ブラッディ、おお~~ブラッディ♪」と、歌っている。戦場で血まみれになりつつも、初めて敵を打ち倒したことでテンションがおかしくなっていた。


 ガオォォン!


 もう駄目だと思い、全てがスローモーションに見えるゾフィーの目の前で、敵の頭が弾け飛ぶ。血と脳漿が花火のように飛び散って、令嬢の全身を更に激しい赤色が彩った。


「ふむ……またもや、血じゃ……」


 全身をくまなく赤で染め上げた令嬢が、嫌そうに立ち上がる。まだアルコールのお陰で、平然としているヴィルヘルミネだ。

 駆け付けたのは、短銃を腰に戻して軍刀サーベルを抜いたエルウィンであった。彼と行動を共にしていた近衛兵が、瞬く間にヴィルヘルミネを囲んでいく。


「ヴィルヘルミネ様、ご無事ですかッ!?」


 迫る敵を両断しながら、エルウィンが問うた。令嬢はゆっくりと首を縦に振り、唇の端を吊り上げ笑みを浮かべている。


「大事ない――血まみれになっただけのことじゃ、血まみれにな。フハ、フハハハ……!」


 令嬢のテンションはアルコールと混ざり、いよいよ大惨事。血を見たら笑ってしまう、という謎現象にまで至っている。


「どうやら形勢逆転のようだぞ、ホラント代将。切り札はヴィルヘルミネ様に倒され、アンタ等の旗艦は――……ほら、甲板がほとんど、こちらの兵で埋め尽くされているじゃあないか」

「黙れッ! まだ戦闘旗は掲げられている! 何よりメアリーの仇ッ、俺は必ずヴィルヘルミネを討ち取るぞッ!」


 戦いは未だ終わらず、エリザとホラントは再び激しく斬り結ぶのであった。

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