第121話 ニーム沖海戦 5
リンドヴルムの艦上では、敵味方ともに凄まじい雄叫びを上げて斬り合っている。短銃で至近から撃ち合う轟音が響き、ついにヴィルヘルミネは目を覚ましてしまった。
「んあ? ヘルムート、静かにせよ。ハドラーは浮気などせぬ……む……そりゃあトリスタンもエルウィンがおらんから寂しかろうが、浮気を疑うなど男の甲斐性というものがじゃな……む、む?」
ヴィルヘルミネは長い睫毛をゆっくりと持ち上げ、紅玉の瞳で夕焼けに染まるリンドヴルムの甲板を見た。何やら、周囲が恐ろしいほど騒がしくなっている。
「――ふむ、夢であったか。残念じゃの」
夢の余韻で口元に三日月を浮かべたまま、ゆっくり首を巡らせてみれば、親友が金髪を後頭部で纏め、二刀を巧みに操り数人の敵兵と対峙していた。
目が覚めたら、そこは戦場でした――など、何と運の無い赤毛の令嬢であろうか。もしかしたら、まだ夢の中なのかもしれない。もう一度寝よう。「ぐぅ……」
「ヴィルヘルミネ様、わたしの側へ! そこは危険ですッ!」
一刀ごとに血の花を割かせつつ、ゾフィーが叫んでいた。どうやらここは、本当に危険な戦場になってしまったらしい。ヴィルヘルミネの記憶では、味方が敵艦に乗り込んでいた気がするのだが――どこでどう間違ったのか、全くの謎である。
「ゾフィー……」
とりあえず親友を呼ぼうとして、ヴィルヘルミネは紺色の軍服に包まれた手を伸ばす。すると、頬の横数センチを銃弾が掠めていった。ボンッと何かが弾けたような音がする。
未だ寝惚けたままの令嬢は、目を細めて弾丸が飛んできた方角を横目で見た。
「なんじゃ、卿は?」
意外と驚かないヴィルヘルミネはゆっくりと立ち上がり、場違いな赤いドレスを身に纏う女を睨み据える。なかなかの美女だ。九十点か九十一点といったところだろう。
寝覚めに美女を見るのは眼福というものだが、相手は銃身から煙を立ち上らせた銃をこちらへ向けている。だとすれば――いや、だとしなくても先程の銃撃は眼前の美女によるものであった。
流石のヴィルヘルミネも耳元を通り過ぎた弾丸の音を聞けば、今が緊急事態であることは分かる。それでも慌てないのは、未だ体内に残留するアルコールのせいであった。どうやら赤毛の令嬢は、酔うと気が特大になるタイプらしい。
「ごきげんよう――……ヴィルヘルミネ様。あたしの名はメアリー=ブランドン。キーエフ海軍の中佐ですわ」
短銃を手にしたままスカートの端をチョコンと持ち上げ、メアリーが軽く頭を下げている。
「ふん。で、キーエフの海軍中佐が、余に一体何の用じゃ?」
幸福な夢から最悪の現実へ引き戻されたヴィルヘルミネは、すごぶる不機嫌になった。しかし体内には、まだアルコールが残っている。だから明らかに戦場と化した旗艦の甲板上でも、変わらず超強気なのであった。
そんな訳でメアリーは口の端を僅かに持ち上げ、「流石に軍事の天才と言われるだけのことはある。大した胆力じゃあないか」と、早くも勘違いをした。
「むろん、降伏をして頂きたく。そうすれば戦闘を即座に停止し、皆様の安全を保障致しますわ、閣下。なぁに、もともとは同じ軍旗を仰ぐ仲、大した問題でもないでしょう?」
「――……嫌じゃと申せば?」
「そうですねぇ。嫌だと仰せなら仕方がありません。鉛玉を――……」
「鉛玉を?」
「アンタの綺麗な顔にブチ込んで、艦隊まるごと路頭に迷わせてやるまでさッ!」
メアリーは短銃を指先に引っ掛け、くるくると回している。弾丸を再装填しないところを見れば、冗談か脅しの類なのであろう。
ヴィルヘルミネは眉根を寄せて、じっと目の前の元女海賊を見つめていた。一度下降線を辿った機嫌の波も、目の前の人物が美女とくれば話は別だ。グングンと上昇し、赤毛の令嬢は場も弁えずに楽しくなってきた。会話など、完全に上の空だ。「器用な女じゃなぁ」と思いつつ、まったく別のことを考えている。
――それにしても赤毛に赤い瞳って、余とまる被りじゃの。……はッ! もしや幼い頃に生き別れた、姉上なのではッ!?
赤毛の令嬢は妄想が得意であった。だから緊急事態である今も、脳内で不思議な仮説を勝手に立てて、証拠も無しに検証を試みている。
「ときに女。卿は幾つじゃ?」
「……は? 二十九だよ。それが何だってんだい?」
――父上は三十代半ばッ! これでは到底、計算が合わぬのじゃッ!
「……ちっ、話にならぬ」
生き別れの姉という設定が使えないから、ヴィルヘルミネは舌打ちをした。しかしメアリーには意味がまったく分からないから、いきなり興醒めモードの令嬢に謎の不安を覚えてしまう。
「な、なんなんだい、この小娘はッ! 自分を守る部下がいない状況で、あたしを前にして怯まないなんて。ま、まさかコイツ、武技も達人級なんじゃ。
そうか! だからあたしの年齢を聞いて、二十九歳程度で到達できる武技じゃ、話にならないって……畜生、舐めてくれるじゃあないかッ!」
思わずブツブツと声に出し、メアリーはジリ――一歩、後ずさりをした。
こうしたメアリーの迷いが、ヴィルヘルミネに時間を稼がせた。結果として、彼女の天敵とも言えるエリザの介入を許してしまったのである。
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