第120話 ニーム沖海戦 4


 リンドヴルムがキーエフ艦隊旗艦に接舷したのと同時刻、他のフェルディナント艦艇は敵旗艦を北側から半包囲すべく機動展開中であった。


 この時代、旗艦を先頭にした単縦陣が艦隊運用の基本である。何故なら無線も無く信号旗に頼る通信システムでは、指揮官の命令を伝達するにも限りがあるからだ。

 その点、単従陣であれば麾下の艦艇は先頭の旗艦に付いて行くだけなので、統率に乱れも出ない。


 逆にいえば海上で敵艦を包囲するような機動は、じつに複雑であった。闇雲に動けば味方の艦艇同士が激突し、事故を起こしてしまうからだ。

 しかし、そうした困難を少しも感じさせず、エリザ=ド=クルーズはキーエフ艦隊の旗艦を半包囲するのだった。


 だからこそ彼女は後世にまで、海軍提督として不滅の名を残すのだ。けれど問題はこの時、彼女の意図を明確に察知した人物がキーエフ艦隊の中にもいたことであった。


 その人物の階級は中佐で、最初にフェルディナント艦隊を発見した分艦隊司令の部下である。


 しかし、ただの部下ではない。


 彼女の名はメアリー=ブランドン。かつてはブラッディ血まみれ・メアリーの通り名で、南海の男達を震え上がらせた伝説の女海賊なのであった。


 そんな女性がなぜキーエフ海軍に身を寄せているかと言えば、二年前エリザ=ド=クルーズに敗れた為だ。むろん敗れながらも逃げおおせた辺りに、彼女の凄さがあるのだが。


 いつもならばエリザが海賊を取り逃がすなど、あり得ないことであった。しかも彼女はエリザと一騎打ちの最中、敗色が濃厚になるや荒れ狂う海に飛び込み、一命を取り留めたのである。


「ほら、あれがエリザ=ド=クルーズの十八番おはこさね――だから言っただろう、提督。敵はハナから、砲戦なんぞ狙っていない。可能ならウチの親父を捕えて、降伏させようって魂胆だよ。だから、ああして旗艦を包囲しようとしているのさ。いやぁ~~~いつもながら、腹が立つほど見事な艦隊運用だこと。はらわたを引きずり出して、食ってやりたいねッ!」


 ダンッと甲板の床を赤い靴で踏み鳴らし、ブラッディ・メアリーが上官である代将に凄む。代将は困った顔で、年齢不詳、軍服すら着用せず赤と黒を基調としたドレス姿の元海賊を見つめている。


「だからって、俺にどうしろってんだ? 親父の艦とくっつかれちゃ、砲撃も出来ないだろうが」

「だったらアンタ、ここで親父さんが死ぬのを黙って見ているのかい? あーあ、とんだボンクラだね」

「おい! 敵は親父を捕らえようとしているんだろう!? なら最悪でも親父の身は、安全なんじゃないのかッ!?」

「はぁー――……」


 メアリーは深く長い息を吐き出し、出来の悪い生徒を諭すような口調で言う。


「いいかい、代将閣下。親父さんが敵にむざむざ捕まるようなタマかね? そうなるくらいなら、戦って死ぬんじゃあないのかい?」


 じっと見つめられて、代将は思わず照れた。


 ブラッディ・メアリーの出自はウェルズの貴族だとも言われており、暗い色彩の赤毛も白い肌も、元海賊とは思えない気品を放っている。だというのに胸の上部が露出したドレスを着ているせいで、柔らかそうな谷間から色気と言う名のモンスターが溢れ出ているのだ。


 有体に言って代将は初めて会った時から、メアリーに好意を持っていた。今では誰よりも愛している。

 もしかしたら流木に掴まり海に漂っていた彼女を助け、ウィーザー提督に懇願して海軍に引き取った時から、代将の心はメアリーに奪われていたのかも知れない。


 元海賊ということでメアリーは当初、警戒されていた。けれど彼女が海軍に入って悪さをしたことは一度も無く――喧嘩にまつわる暴行を悪さと言わなければ、だが――今や彼女は歴とした海軍将校なのである。


 ――メアリー、変わったよな。最初はすぐに手が出る凶暴な女だったが、今じゃこんなに可愛くて……。って、そんなこと考えている場合じゃないだろ、俺ッ!


 代将は顔をブルリと振って、雑念を頭から追い払う。


「確かにメアリー……、いや……中佐の言う通りだ。親父を助ける、何か手はないか?」

「あるさ――こっちも敵の旗艦に乗り込めばいい。目には目を、歯には歯を――だね。乱戦に持ち込めば、勝算はある。何より……」

「何より?」

「あの艦には、ヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントが乗っているんだろう? なら捕らえるも良し、殺すも良し――それでこっちの勝ちじゃあないか」

「確かに……成功すれば大金星だ」

「な、ホラント代将閣下。これでアンタの出世も、見えてくるだろう? それで中将になったらさ、おかであたしに美味いメシでも食わせておくれよ」


 少し俯き、メアリーはボソボソと言った。

 もしも彼女が変わったのだとすれば二年前ホラントに助けられた、あの日からだろう。不器用ながらもメアリーなりに、ホラントの力になりたいと毎日を懸命に生きてきたのだ。


「――そう、だな」

「じゃ、決まりだね。さっさと敵の旗艦に斬り込もうじゃあないか」


 メアリーは精一杯の微笑みを浮かべて、ホラント代将を見上げている。

 ホラントもまた、メアリーをじっと見つめていた。


「メアリー……それでだ、その、俺が親父を救い出すことが出来て、中将になったら……、あれだ……その……美味いメシなんかじゃなくて、だな、その」

「な、なんだい、ハッキリお言いよ?」

「――……結婚……してくれないか」

「は――……?」

「俺はな、敵艦に斬り込むのなんて初めてなんだよ。でもな、腕には自信がある、必ず勝つ――だから何て言うか……」

「ふ、ふん……軍人ってのは生ッ白いねぇ。いいかい、ホラント代将閣下。あたしは元海賊で、今まで大勢の人間を殺してきた。意味も無く――だ。なんでそんなことが出来たか、分かるかい?」

「分からない」


 ホラントは頭を振って、真剣にメアリーを見つめている。


「あたしはね、最初っから死んでいるのさ。だから、いまさら命なんざ惜しまないし、生き残ったらラッキーってなモンだ。でもアンタは生きたいと願うから、そんなことを言う。あたし達は、根本的に人種が違うんだよ」

「……結婚、してくれないのか?」


 困ったように眉根を寄せるホラントを見て、メアリーがガリガリと頭を掻いた。


「アンタ、あたしなんかと結婚して、後悔しないのかい? 本当にいいのかい? ……元海賊なんだよ?」

「後悔なんて、するわけが無い! 少なくとも今のお前は、海賊なんかじゃあないッ! だからッ! 結婚してくれッ!」

「わ、分かったよ、そんなに喚かないでおくれ――……アンタが中将になったら、結婚でもなんでもしてやるよ。だから、さっさと命令を下しな。親父さんを助けるんだろ?」

「お、おうッ! ――帆を上げろ! 全速前進! 敵旗艦に斬り込むぞッ!」


 ブラッディ・メアリーの頬が、体内に流れる熱い血で赤く染まる。彼女にとってそれは生まれて初めての、幸福な高揚なのであった。


 ■■■■


 敵の戦列艦二隻に接舷された時、リンドヴルムに残った兵士は四百人弱であった。それも大半が砲兵や武器を持っただけの水夫だから、斬り込み隊ほど戦士としての質は高くない。


 旗艦の残存部隊を指揮するのは、参謀長のビュゾーだ。彼は続々と旗艦に乗り込む敵兵を横目に見つつ、冷静な口調で総司令官たるエリザに問うていた。


「斬り込み隊を戻しますか? 既に敵艦の舵輪は破壊してありますから、後は味方の艦艇に任せても問題は無いかと思いますが」

「いや、兵を戻す必要はない。万が一にも敵将に逃げられたら、せっかく斬り込んだ意味が無かろう。しかし――……」


 エリザは椅子に座ったまま頬杖を付き目を瞑るヴィルヘルミネを見て、暫し考えた。令嬢だけでも、別の艦艇に避難させるべきだろうか、と。


 そもそも彼女に万が一のことがあれば、ランス軍の敗北と言うより南方艦隊の敗北である。だが悠然としたヴィルヘルミネの姿を見ていると、退艦を促すこと自体が無礼であるような気がするのだった。


 もっとも今のヴィルヘルミネは、鼻提灯が出ていないだけで眠っている。だから緊迫する事態など気にせず、超然としているのだ。

 酒が抜けて事態を知れば、椅子の上で間違いなく飛び上がるだろう。それが令嬢本来のスタイルなのだが、今はまだ、誰もそのことに気付いていないのだった。


「ゾフィー=ドロテア。少しの間だが、約三倍の敵を我々だけで防がねばならん。ヴィルヘルミネ様を守り切れる自信は、あるか?」

「当然ッ!」


 まだまだ小さな胸を張り、金髪の親友が腰の剣を抜く。それから左手にマンゴーシュを握り、即席の二刀流を披露した。彼女は舶刀カトラスに馴染むより、使い慣れた軍刀サーベルとマンゴーシュの組み合わせを選んだのである。


「ヴィルヘルミネ様も、宜しいですね?」


 黒髪の女提督は自らも舶刀カトラスを抜きつつ、赤毛の令嬢に問う。ヴィルヘルミネは眠ったまま船を漕ぎ、それがまるで頷いているかのようであった。


「流石はヴィルヘルミネ様、敵など恐れておらぬと見える」

「当然ですよ、クルーズ提督。ヴィルヘルミネ様の辞書に、撤退や敗北の文字なんて無いのですからッ!」


 不敵に笑う金髪と黒髪の女性。その二人に挟まれて、椅子の上で尚もコクコクと揺れながら眠り続ける赤毛の令嬢は、摩訶不思議な覇気に満ちている。


 ともあれリンドヴルムは千二百人の敵を、四百人の味方で迎え撃つことになるのであった。

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