第118話 ニーム沖海戦 2
ニームへ派遣されたキーエフ海軍の司令官ウィーザー中将は、この年四十歳。浅黒く日に焼けた、見事な口髭が特徴的な偉丈夫である。
伝統的にキーエフ帝国は陸軍国だから、大貴族の子弟で海軍へ入隊する者は少ない。その例に漏れず、ウィーザーも下級貴族の出自であった。
だからこそ彼は宮廷に出仕するよりも現場の勤務を好む性質であり、それが為にヴァレンシュタインの海上支援要請を受けて、今回の任務に志願したのである。
とはいえ近年のキーエフ海軍は西のリスガルド王国と同盟を結んでいる関係上、訓練以外の軍事行動が極端に減っていた。
だからこそウィーザーも、四十歳でありながら実践の回数は極端に少ない。むしろ陸戦の経験の方が海戦を上回る程であった。
そんなウィーザーは、だから今回の任務も訓練の延長だと考えていたのだ。誤算であった。
「まったく――兵をこれほど死なせると分かっていれば、志願などしなかったものを……」
「コホ、コホ……ですがヴァレンシュタイン公爵は、敵の攻撃は無いだろうと考えておられました。この一事をもってしても、親父の責任じゃあないでしょう……コホ、コホ……」
「ああ、そうだな、参謀長。ヴァレンシュタインですら見通せなかった出来事が、今ここで起きている。これが何を意味するのかを考えれば、俺に取れる責任なんぞより、事態は遥かに深刻なのかも知れん」
「それは、敗北した場合のことでしょう……コホ」
「うむ。だから決して、負ける訳にはいかんのだ。たとえ兵が何人死んだとしても――……俺自身が死んだとしてもッ!」
甲板に立って拳を握り締めるウィーザーは、艦隊の部下達から「親父」と慕われている。そういう人物であったから兵士を死なせながら戦うことに対し、忸怩たる思いを抱いているのだった。
■■■■
「親父――……敵はいったい、何を狙っているんでしょうか? あのまま北上して、ニームへ入ってしまえばいいのに……コホ、コホ……いや、こちらとしては望むところですが……コホ、コホ」
十五時四十五分。急速反転して南下し、再びキーエフ艦隊へと迫るフェルディナント艦隊を見て、艦隊参謀長が司令官ウィーザーに言った。
「さあな。連中の意図など知らんよ。ただ、俺達の任務はニーム港を守ることにある。ならば敵を撃滅し、陛下に対し奉り、勝利を献上するまでのこと」
「それはそうですが……またすれ違い様に砲撃の応酬をするだけじゃあ、敵に大した損害を与えられないんじゃないですかね? それどころか、こちらが壊滅的な被害を受けかねません……コホ。そうなれば海上からの補給が滞り、ヴァレンシュタイン公爵が窮地に立たされる可能性も……コホ、コホ」
「だから、敵にも壊滅的打撃を与えねばならんのだ。たとえ我等が壊滅しようとも、な」
「コホ、コホ……それで良ければ、一つ手があります……コホ、コホ」
「ふむ、言ってみろ」
顎に手を当て、司令官が鋭い眼光を参謀長に向ける。彼はウィーザーと対照的で、色の白い細身の男であった。しかも時折せき込んで、いかにも不健康そうである。
「コホ……なに、大した手じゃありません。敵の旗艦とすれ違う直前で、艦隊運動を止めるんです。そうすれば先程よりも長時間、敵に攻撃を加えられるでしょう」
「なるほど。敵をこっちのペースで砲戦に引きずり込もうってわけか」
こうしてウィーザーは、フェルディナント艦隊の接近に合わせて艦隊運動を止めることにした。結果的にはエリザの意図した通り、彼等は砲戦に固執したのである。
■■■■
「砲撃開始!」
ウィーザーの号令と共に、キーエフ艦隊旗艦の大砲が火を噴いた。しかし水柱が上がっているのは、どう考えてもリンドヴルムの手前である。
それどころかリンドヴルムの艦影が、逆光でウィーザーの目にはよく見えない。望遠鏡で見ようものなら太陽もレンズに捉えてしまうから、目が焼けてしまうような有様であった。
それだけではなく、西から東へと強く吹く風が、砲の射程を著しく短くしている。これを計算に入れて仰角の調整をしている間に、敵の砲撃を幾つ受けるか分からなかった。
「しまった……コホ、コホ。敵が西に占位し続けたのは、この為かッ! コホ、ゴホッ!」
興奮したせいか、参謀長の咳が激しくなる。口元に当てたハンカチに、鮮やかな血が滲んでいた。
「いや、参謀長。どうも、それだけではないようだ」
ウィーザーは参謀長の背中を擦りつつ、フェルディナント艦隊の旗艦を睨んでいる。目を細めているのは、逆光で見えにくいからだ。
リンドヴルムはキーエフ艦隊が砲撃を始めた途端、突如として方向を変えた。南へ取っていたはずの進路を東へ――つまりキーエフ艦隊を目指して西からの風に乗り、突っ込んできたのだ。
「ま、まさか敵の狙いは、白兵戦ッ! 親父、申し訳ありません――……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ!」
「構わんさ。まさか敵が海賊じみた戦法に出るとは、俺も思わなかったからな。だが――……これは天祐というもの。砲撃戦には後れをとったが、白兵戦となれば俺の領分だ。俺の首、獲れるモンなら獲ってみやがれッ!」
白い歯を見せ、ウィーザーが笑みを見せる。その間にもリンドヴルムからは鉤爪の付いたロープが何本も投げられ、梯子が掛けられていた。
次々に乗り移って来る敵兵を見て浅黒い肌のキーエフ艦隊司令官は、腰の
「参謀長、お前は下がっていろ。どうも病の具合が、随分と悪いようだからな」
「コホ……いや、今回のことは俺の作戦ミスだ。最悪の場合でも、親父の盾くらいにはなれます。どうせ死ぬ身なら――……せめて最後くらいは親父の役に立たせて下さいよ……コホッ」
「……ダメだ。俺は部下を盾にする趣味なんぞねぇよ」
言うなりウィーザーは参謀長に当て身を入れて、副官に担がせ医務室へと運ばせた。こんな人物だからこそ「親父の為なら死んでもいい」という男たちが、この艦隊には多いのであった。
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