第117話 ニーム沖海戦 1
リンドヴルムは帆に風を大きく孕み、白波を蹴って敵艦へと迫っていく。その後にはフェルディナント海軍の全艦が単縦陣で続き、旗艦と同じく右舷砲戦の準備を整えていた。
ラム酒のお陰で強気になったヴィルヘルミネは、抜けていた腰も大復活。今は立ち上がり、潮風を全身に受けて豊かな紅の髪を靡かせている。というか強気になった副作用で、ちょっとだけ気持ち悪くなっていた。
「うっぷ……」
そのとき、敵艦隊から雷鳴にも似た轟音が鳴り響く。次いで風切り音が響き、旗艦の前方に数本の水柱が立ち上った。どうやら敵は、砲撃を開始したらしい。
「ふん。キーエフのバカ共は、まともに射程も測れんのか………」
腰の
一方酔っ払いのヴィルヘルミネは両手を広げ、砲撃の飛沫を全身に受けて大いに喜んでいる。
「水が顔に掛かって、気持ちいのら~~~フハハハハハ」
赤毛に海水を滴らせ、紅玉の瞳を爛々と煌めかせる恐れ知らずなヴィルヘルミネの姿に、兵士達の士気はいやが上にも高まった。
「流石は戦神の姫巫女!」
「ああ! あの方が大将で提督が指揮を執るなら、間違いなく勝てる!」
水夫も兵士も口々に叫び、ヴィルヘルミネは幾度も頷いている。
「れ、あるろ!(で、あるぞ!)」
令嬢の酔いは、まだまだ醒めそうに無いのだった。
■■■■
フェルディナント軍十二隻、キーエフ軍二十隻によるニーム沖海戦は、こうしてキーエフ側の攻撃により始まった。しかし初弾は距離が遠く、かつ数の少ない艦首砲からの砲撃であった為、フェルディナント側に目立った損害は無い。
このような事実から、エリザ=ド=クルーズは敵の弱点を正確に看破した。即ち「キーエフ艦隊は、実戦経験に乏しく練度が低い」という事である。
彼我の艦隊の先頭に立つ旗艦同士が、すれ違いに入った。距離は凡そ八百メートル、十分に狙いを定められる射程距離だ。
「右舷、砲撃開始ッ!」
エリザが指揮杖を振るうと、凄まじい轟音と共にリンドヴルムの右舷砲列から無数の砲弾が放たれた。
「着弾、三!」
「敵艦、航行に支障なし!」
マストの観測員から、爆音に負けない大声の報告が届く。
エリザは無言で頷き、砲戦の経過を見守っていた。
後続の艦もリンドヴルムと同じく右舷による砲戦を行い、順次、敵艦隊とすれ違っていく。味方の命中弾は、砲撃を重ねるごとに増えた。砲撃の都度、修正を繰り返しているのだ、当然だった。
だが砲の数は敵が圧倒的に多く、そして彼等も案山子ではない。であればいかに練度が低くとも、ある程度の命中弾が出てしまうのも必然であろう。
ましてや今は両艦隊がすれ違いつつ、真横から撃ち合っている状態だ。フェルディナント艦隊も、流石に無傷という訳にはいかない。リンドヴルムにも数発の弾丸が飛来し、砲列甲板に突き刺さっていくつかの砲門が破壊されている。
そんな中で、キーエフ艦隊は停止した。
「全艦、ありったけの砲弾を敵艦隊へぶち込めッ! 奴等が十発撃つのなら、その間にこっちは百発撃てばいい! 同じ数だけ船を沈めれば敵が全滅しても、こちらは八隻も残るのだぞッ!」
キーエフ艦隊の司令官は、声を枯らして叫んでいた。当然のようにフェルディナント艦隊も足を止めて撃ち合うと、この時は信じていたのだ。問題は練度の差による命中弾の多寡であるが、これも数の差で圧倒できると司令官は考えていた。
それでも敵が旗艦だけを狙って攻撃を重ねてくれば、自分は死ぬかも知れない。それも仕方が無いと考える程度に、キーエフの艦隊司令は勇敢な男であった。
幸い、分艦隊司令も優秀な男である。万が一の場合でも、指揮権は滞りなく引き継がれることだろう。そうした指揮官層の厚さが、大国キーエフの優れた点だと司令官は信じているのだった。
このように数に勝るキーエフ艦隊の基本戦術は、足を止めてフェルディナント艦隊と真正面から撃ち合う、というものだ。
これは当時の戦術としてスタンダードなものであり、敵軍が足を止めれば受けて立つのが海軍の常識でもあった。
だからこそ各国の海軍は競って大艦を作り、大砲を多数搭載することに注力したのである。
その意味においてキーエフ海軍は、この海域に敵よりも多くの艦艇と大砲を揃えることに尽力した。つまり当時における勝利の方程式を、その通りに実地したのである。
しかし、それこそがエリザ=ド=クルーズの巧妙な罠であった。
勝利を確信させた上で、敵を砲戦に引きずり込む。というよりエリザは、これが砲戦であると敵に信じ込ませる為に戦って見せたのだ。そんな彼女が素直に足を止め、撃ち合いに応じる筈など無いのだった。
激しい弾雨の中、エリザは艦隊に応射を命じつつ、最大戦速で北上する。
「馬鹿な……まさか奴等、このままニームへ入るつもりか!? そんな非常識なことが、あってたまるかッ!」
足を止めていた敵艦隊は北へ遠ざかるフェルディナント艦隊の後ろ姿を見て、悔しさに臍を噛む思いであっただろう。少なくとも司令官は顔色を蒼白にして、暫し茫然としていた。
「数に不利な状況で撃ち合いに応じた提督は、今まで悉く戦死しているじゃあないか。それが勇将なんて褒められるもんだから、誰もがいつまでも経っても正面決戦を当然のように考えてしまうのさ。でもね、アタシに言わせりゃ、そいつら全員、愚将なんだよ」
エリザは嘲笑の笑みを顔に張り付け、後方の敵艦隊を横目に見ている。
ヴィルヘルミネは彼女の横で椅子に座り、飛沫を浴びて濡れた赤毛を、ゾフィーに拭いて貰っているのだった。
■■■■
両艦隊は完全にすれ違い、一先ず砲戦は終わりを告げた。十五時三十分のことである。
キーエフ側の損害は、大破一、中破五、小破六で、このうち大破の一隻がマストを折られており、自力航行が不能になっていた。あとの艦艇は十分航行も可能であり、継線能力も有してるのが現状だ。
一方フェルディナント艦隊は中破三、小破四で航行能力も戦闘能力も失っていない。とはいえ砲撃により傷付いた艦の中は、酷い有様であった。吹き飛んだ肉片や血が、そこかしこに飛び散っている。
足が滑らないよう同僚が流した血の上に砂を掛け、臓物や肉片を集めて麻袋に詰める。いつもは明るい南方艦隊の兵士達も、今ばかりは笑顔を封印しているかのようだ。
やはり今朝まで共に食べて飲み笑いあった仲間がバラバラになった姿というものは、何度見ても地獄しか連想させないものだった。
むろん、砲撃を受けた艦内の状況はキーエフ艦隊も変わらない。むしろ砲戦が不利であった分、フェルディナント艦隊よりも酷い有様だ。
腹に大きな穴の開いた水兵が、母の名を呼びながら絶望のうちに死んでいく。彼等に何もしてやれない軍医もまた、心に深い傷を負うのだった。
それでも、両艦隊は引き下がれないのだ。
キーエフ側にしてみれば、どれほどの損害を被ろうとも先程の戦闘で決着を付けたかった。その意味で現状は、相当に不本意なものだろう。
しかもフェルディナント艦隊が北へ――ニーム港の側へ抜けたものだから、このまま放置することは絶対に許されない。キーエフの司令官は傷付いた艦隊を急速反転させ、フェルディナント艦隊の追撃に移行した。
キーエフ艦隊司令官の、鬼気迫る命令が響き渡る。
「全艦、敵を逃すな! 急速反転、左舷砲戦用意! 次で必ず仕留めるぞッ!」
一方フェルディナント艦隊は、一部に惨状は見られるもの指導部は至って冷静であった。全ては予定通りなのだから、それも当然だ。
損害が出たといっても、海上で戦えば艦艇が無傷などあり得ない。これも想定の範囲内なのである。
「敵はアタシ達がニームを目指していると思って、さぞや慌てているだろうねぇ。けど、お生憎さ。面舵、急速反転! 左舷、戦闘用意ッ! ラメットに伝えな――
西に大きく傾いた太陽を見て、エリザ=ド=クルーズは悠然と笑っている。敵の焦りを誘い出し、逆風と逆光を味方にした彼女は、既に勝利を確信しているかのようであった。
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