第116話 ヴィルヘルミネの信条
十四時二十分。ニームの南西十五キロの海域で、キーエフ艦隊が再び反転した。艦艇数は二十隻に達しており、フェルディナント艦隊の総数を遥かに凌いでいる。
敵は旗艦を先頭にして単縦陣を敷き、臨戦態勢に入った。キーエフ艦隊のマストには国旗と共に、戦闘旗が悠然と翻っている。今度は停船命令も無く、彼等の意志は余りにも明白であった。
「キーエフ艦隊に戦闘旗を確認!」
リンドヴルムのマストにある見張り台から、敵艦隊の状況を確認した水兵の大声が響いた。
エリザは風に靡く自身の髪と波の高さ、それから太陽の位置を確認して薄く笑っている。そして命じた。
「よし、こちらも戦闘旗を掲げろ! 右舷、砲戦用意ッ!」
リンドヴルムのメインマストに、真紅の旗が翻えった。それを見て、エリザが珍しく朗らかな声を出す。
「みんな戦闘なんかで、うっかり死ぬんじゃあないよ。しょせんアタシら戦争屋は、死んだところで神の御許になんて行けるわけがない。だから戦いに勝って、ヴィルヘルミネ様の奢りで美味い酒にありつこうじゃあないか――なあ、諸君!」
「ハハハ! なら頑張らないと!」
「無礼講で頼んます、ヴィルヘルミネ様!」
フェルディナント海軍の将兵達は気負いもなく、エリザの冗談めかした訓示を聞き声を立てて笑っている。敵の数が二倍だというのに、誰も恐怖に駆られた者はいないようだ。
しかし、そんな中で一人だけ恐怖に背筋を凍えさせ、身体が固まってしまった者がいる。なんとヴィルヘルミネ本人であった。
ヴィルヘルミネは「えぇー! 敵が二倍なのに戦うの!?」「もしかして、余も死んだら天国に行けんのじゃろか!?」「奢りってなんじゃ!?」などと考えて目を白黒させたあと、椅子に座ったまま腰が抜けてしまったのだ。
一見すると二倍の敵にも動じず悠然と足を組み座っているように見える赤毛の令嬢だが、背筋は冷や汗ダラダラ、心臓はバクバクと今にも爆発しそうな勢いである。
「さて、間もなくこちらは戦場になります。ヴィルヘルミネ様は艦内へ、どうぞ……」
未だ甲板の椅子に座り微動だにしない令嬢を見て、エリザはやんわりと言った。不敵な訓示とは打って変わり、声音も表情も誠実そのものの様子である。
エリザとしてはヴィルヘルミネに、になるべく安全な場所にいて欲しかった。
そもそも南方艦隊が丸ごとフェルディナントへ移籍する為には、赤毛の令嬢こそ絶対に必要な存在なのである。彼女に万が一のことがあれば南方艦隊の未来は、崩落する洞窟の如くに閉ざされてしまうのだから。
しかしヴィルヘルミネは紅玉の瞳でジロリとエリザを睨み、口をへの字に曲げている。
まさかエリザに「腰が抜けちゃった、てへぺろ」なんて言えない赤毛の令嬢は、必死で動けない言い訳を考えていた。するとゾフィーが「フフン」とばかりに余計なことを言いだして……。
「摂政閣下の信条は――……いかなる戦場においても、必ず自らが陣頭に立つこと。部下だけを危地に立たせ、自らを安全な場所に置くことを、ヴィルヘルミネ様は決してなさりませんッ!」
「――なるほど、確かにヴィルヘルミネ様は動いて下さらん。ゾフィー=ドロテア、お前の言う通りのようだ。改めて感服したよ」
エリザは令嬢の心情を聞き、感動に胸を震わせていた。
――支配者なんてのは安全な所に籠って、他人の命を好きなように使い捨てる、ふざけた奴等ばかりだと思っていたがね。この嬢ちゃんときたら……やっぱり最高じゃあないかッ! こういう方の為になら、命の張り甲斐もあるってもんさ!
一方ヴィルヘルミネはゾフィーに対し、射貫くような憤怒の視線を向けている。しかし金髪の親友は「言ってあげましたよ、ヴィルヘルミネ様!」というドヤ顔だ。まるで間違ったおもちゃを拾ってきたくせに、人間様に褒めて欲しいワンコのようなゾフィーなのであった。
「ゾフィー……余は、余は……」
「分かっております、ヴィルヘルミネ様。わたしもずっと、お傍にいますから」
「ぷぇ……」
ゾフィーがいるなら、まあいいか――などと謎の安堵で気を抜く令嬢は、安定のポンコツだ。
それに腰が抜けて、どうせ動けない。だったら腹を決めて、ここでじっとしていようかな――という方向に思考が流れかけていた。
「ヴィルヘルミネ様がここ――特等席で観戦なさるというのなら、一つ必勝の祈願をしましょうか。
おい、お前――アタシのとっておきの酒を、ここに持ってきておくれ」
エリザは咥えた葉巻を足で踏み消し、従卒に酒を運ばせた。彼女はそのままボトルに口を付け、グイと酒を煽る。そしてヴィルヘルミネに手渡した。
「なんじゃ、これは?」
「ラム酒ですよ、閣下。かつて太陽の沈まぬ国と呼ばれたリスガルドの無敵艦隊を、散々に苦しめた海賊がいましてね。そいつが、心から愛した酒です。アタシはね、好きなんですよ。強者に歯向かう弱者ってのが、たまらなくね。
ま、ここにいると仰るなら、アタシの仲間ということで。ゲン担ぎの意味を込めて一つ、どうですか?」
「……ふむ」
ヴィルヘルミネはビンの注ぎ口をじっと眺め、それからエリザの唇に視線を移した。やや薄いが、赤みの差した柔らかそうな唇だ。右頬の傷跡こそ痛々しいものの、それ以外は目も覚める程に美しいエリザの容姿に、赤毛の令嬢は今日もキュンキュンしっぱなしであった。
――ああ、良いのう、美しいのう、エリザは。これを飲めば、余はエリザと間接キスを出来るわけじゃな……フフ、フフフフ! 飲まねば大損じゃ! しかしこれを飲んでしまえば、いまさら艦の下層へ避難するとは言えぬし……ぐぬぬぬ。
ヴィルヘルミネは煩悩と恐怖の狭間で思考を揺らし、結局は煩悩の大勝利となった。令嬢はボトルを手に取り口に付け、クイ、クイッ――と飲んでいく。
「ぷはぁーーーーッ!」
目を丸くして、赤毛の令嬢は手に持ったボトルを眺めている。アルコール度数など、知る筈もなかった。しかし喉が焼けるようで、身体が芯から熱くなる。いままで何を飲んでも、これ程の変化を味わったことは無い。だからビックリしてしまったのだ。
けれどエリザと間接キスをした充足感からか、決して不快な気分にはならなかった。
「フ、フハ、フハハ、フハハハ……!」
「いけるクチだね、ヴィルヘルミネ様は! アタシ達の勝利に乾杯だよ! ハハハハッ!」
「……れ、あるらぁ! さっさと敵を殲滅するのらぁ!」
こうして紅玉の瞳を座らせたヴィルヘルミネは、超強気になるのであった。
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