第112話 覚醒した気がするヴィルヘルミネ
ヴィルヘルミネは眠い眼を擦りながら、平伏したユセフとカミーユを見下ろしている。ユセフはゾフィーに、カミーユはエルウィンに押さえつけられたままの状態だ。
エリザは騒動の謝罪をヴィルヘルミネに済ませると、その隣に並んだ。
謝罪は形式的なものに過ぎなかったし、そもそもエリザの人格は不敵、不逞、不遜と三拍子揃っているので、赤毛の令嬢は謝罪されたことにすら気付いていなかった。
今もエリザの口に咥えた葉巻から、ユラユラと紫煙が立ち上っている。
「さて、デッケン中佐、ゾフィー=ドロテア嬢。そろそろ、そいつらを放してやりなよ。今更こいつ等だって、暴れやしないだろうさ」
エリザの言葉に頷いて、エルウィンとゾフィーが立ち上がる。瞬間、カミーユとユセフは同時に顔を顰めていた。先程まで固められていた肩口が、解放された瞬間に痛んだからだ。
「ところでヴィルヘルミネ様、今回の処分はどうします? アタシとしては一日ばかり営倉にでも閉じ込めておけば、それで十分かと思いますがね。ま、甘いとお考えなら、もう一つ二つ罰を追加しても良いでしょうが――……」
ジロリ、ジロリと跪く二人を睨み据え、エリザが令嬢に自らの考えを述べた。けれど眠さマックスのヴィルヘルミネには、彼女の言葉が届かない。
「眠たい」「許さん」「何で余が起こされねばならぬのじゃ」――などなど、自分本位な怒りがヴィルヘルミネの心に渦巻き、それが彼女の右手を高々と掲げる原動力となっていく。
――ぱちこーん! ぱちこーん!
ヴィルヘルミネが右手を振るい、二人の軍規違反者を打ち据えた。少なくとも周囲の者は、そう思っている。しかし当の令嬢は、こんな風に思っているだけだ。
――ぐぬぬ! 余の眠気を返すのじゃ! せっかくゾフィーと寝ておったのに!
そう。赤毛の令嬢は直前まで、ゾフィーと同じベッドで休んでいた。しかし物音をいち早く聞きつけた金髪の親友が起き出したせいで、令嬢も軍服に着替えさせられてしまったのだ。
「ヴィルヘルミネ様――……どうやら甲板でユセフとクルーズ少尉が戦っているようです。止めませんと」
「で、あるかぁ?」
半目のヴィルヘルミネを嬉々として脱がし、ゾフィーは令嬢を軍服に着替えさせた。瞬く間に凛とした風貌(そう見えるだけ)の令嬢が完成し、金髪の親友は彼女と共に部屋を出たのである。
半ば夢の中にある令嬢の顔は、瞼が紅玉の瞳を半分ほども覆い隠していた。しかしそれが、あたかも怒りを表しているようで、彼女を見る者は皆が戦慄したのである。
実際ヴィルヘルミネは、まったくもって不本意であった。だから沸々と、ホットプレートのように怒りが後から沸き上がってきたのだ。そして今、ついにそれが頂点へと達したのであった。
■■■■
イケメン二人は令嬢の怒りに触れ、どちらも驚愕に目を見開いている。瞬時には何が起きたか分からなかった。それ程、今の出来事が衝撃的だったのだ。
頬を強かに打たれ、ユセフの黒髪がファサリと揺れた。
罰は覚悟していたが、まさかヴィルヘルミネが自ら手を上げるとは思ってもいない。彼の胸中には贖罪の念が広がって、後悔が滂沱の涙を流させる。
「も、申し訳ありません、ヴィルヘルミネ様……! お、俺の、俺の軽率な行動が、あなたに手を痛めさせてしまった……あ、あってはならぬことなのに……! くぅぅ……!」
イルハン=ユセフの黒く長い睫毛が涙で濡れて、イケメンぶりが上昇した。令嬢の心に「テッテレー!」と謎の効果音が鳴り響く。怒りがちょっとだけ薄れた。
――ファッ……何このユセフ! 八十九点になったんじゃもん! イケメン度が上がったのじゃ! もしかして余の右手には、イケメン度を上昇させる力があるのやも!?
むろん、そんな力は無い。だが赤毛の令嬢は調子に乗り、口の端を吊り上げている。
「んむ――余の神聖なる右手により、卿は生まれ変わるのじゃ」
令嬢はある意味で中二病だ。左手で右手を抑え、「フゥー、余の眠れる力が、ついに解放されたのじゃからして、して」などとブツブツ言っていた。実際年齢も来年十四歳だから、そんなお年頃なのである。
けれどユセフは感動のあまり平伏しているから、ヴィルヘルミネの珍妙な行動は目にしていない。深々と頭を垂れて、更なる忠誠を誓う始末であった。
「はっ! 以前にも増してヴィルヘルミネ様の御為に、奮励努力いたします!」
一方、生まれて初めて女性に顔を打たれたカミーユは、翠眼を潤ませ震えながら令嬢を見つめている。
――い、痛い……。
打たれた左頬に手を添えると、ジンジンとした。痛みと共に温かさがある。これが「神聖なる右手の効果なのか……」とカミーユは下唇を噛んでいた。
――痛いが、何て気持ちいいのだろう……。
高まる心臓の鼓動に、カミーユの精神は徐々に崩壊していった。
「ヴィルヘルミネ様――……私も……私も生まれ変われるでしょうか? あなたの御手に打たれ続ければ……」
陶然とした翠眼でヴィルヘルミネを見つめ、膝立ちで令嬢に迫るカミーユ。そして彼は、こう言った。
「もっと、もっと私を打って下さいッ!」
「ぷぇ?」
ヴィルヘルミネは細眉を寄せて、事態を全力で訝しんだ。言ってることが超怖い。令嬢は少しだけ後ずさった。
しかし恍惚とした表情で自分を見つめるカミーユも、何だかイケメン度が上がっているような気がする。
――うーん……試しにもっと打ってみるか? いやしかし、打てと言われて打つのも気が引けるのじゃ……。
「今回のことは、私の罪であります! 年長者である私がしっかりしていれば、このような事態にはなりませんでしたッ! で、ですから私がイルハン=ユセフと同罪の一打のみでは、筋が通りませぬ! どうかもう一撃頂戴し、それをもって我が罰と致したく存じますッ!」
話の筋は通っているが、何やら「ハァハァ」と荒い息遣いのカミーユが、令嬢は怖くて仕方がない。いくら叩けばイケメン度が上がるとはいえ、彼の開けてはいけない扉を開けてしまったような気がするのだ。
「も、もう一発叩けば良いのじゃな?」
「は、はい。い、一発と言わず、二発でも三発でも……何なら踏んで頂いても私は一向に構いません……! そ、それが私の罪ですからッ!」
「踏めとなッ!?」
驚きの余り令嬢は、白目を剝きそうになった。しかしそこでイルハン=ユセフがカミーユの肩を掴み……。
「お待ちください、ヴィルヘルミネ様! 今回のことは、こちらが決闘を挑んだ結果です! 罪ありとするならば俺も同罪! どうか打ち据えるなら、俺も共にッ!」
「ええい、イルハン=ユセフ! 打ち据えられるのは、私一人で十分だ! お前に罪はないッ! 私は踏まれたいのだッ!」
「馬鹿な、カミーユ! お前こそ被害者ではないかッ! 踏まれるならば、俺も共にッ!」
ヴィルヘルミネは余りのことに半分白目だが……傍から見れば現状は「相手の罪を我が身に」と願う、熱い少年たちの友情物語となっていた。そのせいか周囲の将兵達も「ヴィルヘルミネ様! どうか二人に寛大なご処置を!」などと騒ぎ始めている。
エリザも当然、そう思う一人だ。二人のやり取りを見て煙草を消すと、ヴィルヘルミネに向き直ってこう言った。
「……流石はヴィルヘルミネ様ですな。災いを転じて、彼等の間に絆をお作りになられた。中々どうして、出来る事ではありません。あとは懲罰の仕上げですが、アタシからも寛大な処置を願うものであります。なに――……そうすれば閣下の海軍における名声は、不動のものになりましょう」
「で、あるか……」
「まさか閣下は、最初からこうなることを見越しておられたのでは……」
「フ、フハハ、ファーハハハ……」
ヴィルヘルミネは脳が事態に追いつかず、ちょっと壊れた。
ビュゾーとラメットの二人もカミーユの成長を喜び、拳を突き合わせ、笑みを浮かべている。
「どうやらカミーユにも、対等な仲間が出来そうだ」
「それだけじゃねぇぞ、ラメット。坊ちゃんをよぉく見てみな――ありゃあ完全に、惚れちまった目だぜ」
「……だな。ま、それも良いんじゃないか? 初恋の相手がご主君ってのも、ロマンがあるだろうよ」
そんな中、当惑している少年が一人。
「なんだい、これは? エリートのボクが、完全に取り残されているじゃあないかねッ!?」
もちろん彼は事の発端となった張本人、ヴァルダー=フォン=ジーメンスなのであった。
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