第109話 ジーメンスの怒りとユセフの誤算
食事の終わったヴィルヘルミネが部屋に戻る際、エルウィン、ゾフィー、カミーユの三人に伴われていく姿を見たジーメンスは、眠る間際になっても煩悶としていた。何故ならフェルディナントからランスへ学友兼護衛としてやってきたのは自分なのに、その立場をあっさりエルウィンやカミーユへ譲る羽目になった現在が、たまらなく不愉快だったからだ。
――「身分差など気にするな」と、ヴィルヘルミネ様は言ってくれたけれど。でも、今のボクとあの方の間には、厳然たる差が横たわっている。それは、間違い無いことなのだよ……!
砲甲板の柱にぶら下げたハンモックに身を横たえたジーメンスは、巨艦が波を掻き分けて進む音を聞きながら寝返りをうつ。
――けれどヴィルヘルミネ様とボクを隔てているものは貴族としての身分差なんかじゃあ無く、軍人としての力量差なのさ。なにせボクは未だ実績を持たない力量不明の学生で、エルウィン卿は戦場で武勲も立てているのだからね。いざとなったら、どちらが信頼に値するかは悔しいけれど、考えるまでもないことさ。
でも、そう考えたらカミーユ何某――やっぱりアイツは許せないのだよッ!
「ユセフ、ユセフ。まだ起きているかね?」
「起きているが……なんだ? 明日もまた早いのだ、無駄口なら付き合わんぞ……」
ジーメンスは隣のハンモックに横たわるイルハンに、そっと声を掛けた。
「やはり納得出来ないと思わないかね、ユセフ。あのカミーユ何某は、まだ十六歳だろう? だったら士官学校を卒業したばかり、ということだ。それがヴィルヘルミネ様の護衛を務めるなど、艦隊司令の七光りというものじゃあないのかね!?」
「ふわぁぁ……だから、どうしたと言うんだ?」
欠伸交じりの返事をジーメンスに返して、イルハンは寝返りをうつ。奴隷を先祖に持つ彼にとっては、ハンモックも地上のベッドと変わらず快適な寝床なのであった。
「要するにデッケン中佐やゾフィー様、それにボク等のように実力で護衛になったワケではない――と言っているのだよ」
「なぁ、ジーメンス。士官学校を卒業したての七光りだからといって、実力の有無は分からんだろう。現にデッケン中佐――エルウィン卿も最初は、軍務卿の七光りだと思われていたんだからな。ところが蓋を開けてみれば――こう言っては何だが、その軍才は父君を遥かに凌いでいるではないか……」
イルハン=ユセフの言葉は尤もであった。
むろんジーメンスも、そんなことは分かっている。その上で彼は、どうしても納得が出来ないのだ。
「だからカミーユ何某もそうなのか、そこを確かめようと思うのだよ。ヤツに確かな実力があるのなら、それで良し。けれど無かった場合は――……」
■■■■
――ドンドンドン。
波の音しか聞こえない夜の海の只中に、激しくドアを叩く音が鳴り響く。ここは数人の士官が起居する部屋であった。
「カミーユ=ド=クルーズ少尉! クルーズ少尉は在室しているかねッ!?」
しばらくすると木製の扉が開き、黒髪のイケメンが戸口に現れた。緑色の瞳をジロリとジーメンスへ向けて、彼は不機嫌そうに口を開く。昼間ヴィルヘルミネに対する時と比べれば、随分な落差であった。
「……誰だ?」
「誰だ、だって? ボク等の顔を覚えていないのかね!?」
「ああ――ヴィルヘルミネ様の腰巾着か。私に何の用だい? 食事が足りないからと、文句でも言いに来たのかな? だったらお
「そ、そんなことを言いに来たわけじゃあ無いのだがね……!」
「じゃあ、何だい? さっさと用件を言ってくれないか。私は明日も忙しいんだ――君達だって甲板掃除があるのだから、さっさと寝ないと身体が持たないよ?」
カミーユはジーメンスの後ろに立つ、十三歳にしては体格の大きいイルハン=ユセフに微笑んだ。しかし、そこには微量ながら嘲笑の色が見て取れる。これも昼間ヴィルヘルミネに見せる「誠実そうな顔」とは、一線を画すものであった。
「カミーユ=ド=クルーズ……昼間の貴官と今の貴官、どちらが本当の姿なのだ?」
ユセフが目を細めて、じっとカミーユを見つめている。二人の瞳がぶつかり、静かな火花を散らせていた。
「何のことかな?」
肩を竦めるカミーユに、人差し指を突き出しジーメンスが言い放つ。
「とぼけないでくれたまえ、カミーユ君。まったく女性みたいな名前をして、君は随分と女性に対する下心があるようだと――そう言っているのだよ、ねぇ、我が友イルハン=ユセフ!」
「いや、そこまでは言っていない」
フルフルと首を左右に振るユセフを見て、カミーユがポリポリと頭を掻いている。
「――だ、そうだが。これは、何の茶番かな?」
「茶番ではないのだよ、カミーユ君。ヴィルヘルミネ様の手を握ったり腰に触れたり――……挙句の果てには食べ物まで頂こうとしてッ! ……忘れたとは言わせないし、ボクの目は誤魔化せないのだからねッ!」
「ああ、そんなことか。いいかい、私は美しい女性が好きだし、だからヴィルヘルミネ様が気に入った。それは男として当然のことで、誰かにとやかく言われる筋合いは無いね」
カミーユの言い草に、ジーメンスが端正な唇をワナワナと震わせている。
「な、な、なんということを言うのかねッ、君はッ! ヴィルヘルミネ様をそんじょそこらの町娘と同じように思っているのかい!? これはもう、とんでもない冒涜だ! ボクは断固として許さないからね!」
「ええと、腰巾着君……ではなくジーメンス君だったかな。確かに彼女は町娘ではないが、本質は同じさ。むしろ貴族らしからぬ方だと、私は思うね。もしも君がそのことに気付いていないのなら……、いや、気付ていないからこそ、こうして私に突っかかってくるのかも知れないが……」
勝ち誇った笑みを浮かべるカミーユに対し、両拳を握り締めて肩を震わせるジーメンス。
「う、うるさい、うるさいッ! 口でなら、何とでも言えるのだよ――カミーユ=ド=クルーズ! 実力も無く司令長官の七光りでヴィルヘルミネ様の護衛になった癖に、よくも知った風な口を叩けるものだねッ!」
怒りで頬を紅潮させたジーメンスが、カミーユの胸倉を掴んだ。そうしているとカミーユと同室の士官達も、ぞろぞろとハンモックから降りてくる。
「なんだ、なんだ」
「ガキンチョがよ、提督の甥御に絡んでるんだ」
「へぇ……でもまぁ、七光りってなぁ間違いねぇな」
「実力ねぇ……甲板作業は人並みってとこだったけどな」
「士官学校でも、中の下の成績だったんだと」
「なんだ、坊ちゃん――やっぱ大したことねぇんじゃねぇか」
加速度的に騒ぎが大きくなり、部屋の周囲にも多くの人が集まってきた。
「ヴィルヘルミネ様の護衛と説明役は、正式に仰せつかったことだ。それと私が艦隊司令の甥であることは、何ら関係がないッ! 百歩譲って関係があるとしても、それが私の無能を証明することには、ならんだろうッ! それとも何か私の力を測る術を、君が持っているとでも言うのかッ!?」
怒りを露にしてジーメンスの腕を払い除け、集まった人々をカミーユは睨み据えている。
「あるに決まっている。だから、ここに来たのだよ、カミーユ=ド=クルーズッ! 決闘だ! 君に決闘を申し込むッ! 護衛なのだから少なくとも、強くなければならないはずだ! それを証明して見せたまえよッ!」
ジーメンスは再び人差し指を相手に突き付けた。そんな彼に、集まった士官達が拍手喝采を送っている。
「いいねぇ、小僧! 七光りの士官様を叩きのめしちまえッ!」
「――おい、小僧! 坊ちゃんがエリザ様の胸の谷間に逃げ込む前に、ちゃんと決着を付けろよ!」
「ははははッ! 違いない! 逃げられちまったら、ビュゾー代将かラメット代将が出てくるからなッ! あの二人は鬼強ェから流石に勝てねぇぞ、小僧ッ!」
「なぁなぁ、少尉さん! 子供の決闘くらい受けてやれよ!」
「それとも怖いのかぁ!? なぁ、ボンボン少尉さんよォ!」
「にしてもなぁ……エリザ様もこんなボンボンを押し付けられて、たまらねぇよなぁ。こんなのが一人前の海兵になんぞ、なれんのかね?」
誰もが揶揄すように言い、カミーユは「ギリッ」と奥歯を噛みしめている。
「黙れ、貴様等。いいだろう……この決闘、受けてやるッ!」
ジーメンスは大きく頷いた。
「――ようし、成立だ。我が友イルハン=ユセフッ、待たせたね! ついに君の出番さ! さあ、存分にカミーユ=ド=クルーズを懲らしめてやりたまえッ!」
イルハン=ユセフは、思い切り眉を顰めている。
「付いてくるんじゃ無かった……」
周囲の海軍士官達も、一気にジーメンスを応援する気持ちを失った。
「おまえ……あんだけ言っといて、自分は戦かわねぇのかよ」
「愚か者め! このボクが、いつ自分で戦うと言ったかね!? こんな揺れる船の上で戦うなんて、エリートのボクには到底出来ないことなのだよッ!」
「ヒデェ……じゃあ、戦わされる方は何だってんだ?」
「そりゃあまあ、雑草さッ!」
「なぁ、黒い方のガキ。悪いこたぁ言わねぇから……友達は選べよ……な?」
そんな中、カミーユ=ド=クルーズは怒りに顔を歪め、甲板へと向かう。イルハン=ユセフは「やれやれ」と呟きながら、彼の後に付いて行き……。
図らずも甲板で、イルハン=ユセフとカミーユ=ド=クルーズの決闘が始まるのだった。
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