第106話 雷光の中で……
「ま、そんなことじゃないかと思っていたよ」
エリザが「ふーっ」と大きく息を吐き、陶器の灰皿に葉巻を押し付けた。紫煙がゆっくりと天井に至り、広がっていく。
黒髪の女提督がそう言ったのは、バルジャンが「キーエフ軍をトゥール州から撤退させる」という戦略目標と共に、実現させる為の作戦を説明したからだ。
「つまり稀代の名将であるヴァレンシュタインを交渉の場へ着かせる為に、ニームを攻略したい。その為にアタシ達の力を借りたいってんだね?」
「そうだ」
「そりゃまあ、ランスにとっては重大事だが――何でそこに、フェルディナントの嬢ちゃんが関わっているんだい? こう言っちゃあ何だが、アンタの国はキーエフの内側にあるんだろ? こんなことをしていたら、話がややこしくなるんじゃあないか?」
ジロリと漆黒の瞳をヴィルヘルミネへ向けて、顎に手を当てる褐色肌の女提督。常人ならばこの凄みに耐えかねて、震えだしてもおかしくはない。
だが赤毛の令嬢は目の前の提督をワイルドな美女としか思っていないから、むしろ目が合うことで喜んでいた。口の端がクイッと上がり、ヴィルヘルミネが凶悪な笑みを見せる。
「……余は皇帝を好かぬ。余はの、真なる平和を目指しておるのじゃ。海兵を絶えず側へ侍らす卿であれば、分かるであろう? それだけの事じゃ。フハ、フハハハ……」
令嬢の言葉を意訳すれば、「今回のことは、あくまでも個人的なこと。私はただ男の子は男の子と、女の子は女の子と恋愛する世の中を目指しているだけなの。イケメン二人を侍らせ続けているアナタになら、分かるでしょう? それだけのことなのよ。ウフフ」である。
当然エリザにはヴィルヘルミネの真意など、何一つ伝わらない。
むしろ黒髪の女提督にはヴィルヘルミネがキーエフの帝位を狙っていて、「海兵を養うオマエにも似たような野心があるのだろうから、分かるだろう?」――と言っているようにしか聞こえなかった。
だが令嬢が口にした「平和」という言葉に、奇妙な引っ掛かりを覚えたのも事実である。
「平和か……真なる平和とは一体なんだ? 答えてみろ、ヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナント。それが貴様の無様な野心を覆い隠す、詭弁ではないのなら……な」
エリザが眉間に皺を寄せ、赤毛の令嬢にグイと顔を近付ける。ヴィルヘルミネの妄想が捗った。
エリザとランスの王妃マリーがイチャイチャしたら、きっと大人な百合が出来上がることだろう。そんな妄想だけで、ヴィルヘルミネはパンケーキを五枚以上食べられるはずだ。
「知れたこと、人は誰もが抑圧されておる。そして抑圧する最たるモノが、旧態依然とした権力に他ならぬのじゃ。ゆえに平和とは、これを覆し抑圧から人心を開放することに他ならぬ」
ヴィルヘルミネの性癖解放運動は、言葉にすると上からの革命を目指しているように聞こえなくもなかった。だから令嬢の言葉にゾフィーは大きく頷き、ダントリクは理解を示しつつも警戒の色を露にしている。
バルジャンは腕組みをして「うーん」と唸り、「大貴族が言っていいことじゃあないが、まあ、聞かなかったことにしておくか……」などと言っていた。
そんな中で黒髪の女提督は、目の前の少女に希望の光を見出そうとしている。元より令嬢の二面性に興味を持ち、その器量を推し量ろうとしていたからだ。
「人心を開放すれば、海賊共も心穏やかになるのか? 悪事は無くなるのか?」
このように問うエリザの中ではヴィルヘルミネに対する勘違いが、どんどん肥大化していく。
エリザはランスであれ他国であれ、海賊と一定の距離を保ち利用し合う国家の在りように嫌気が差していた。だからこそ国家が目こぼしをした海賊を牢へ送り続け、報復を受けて夫と子供を殺されたのである。つまり彼女にとって仇とは、現状の封建国家そのものだと言い換えてもいいのだ。
だからヴィルヘルミネが現状の封建国家群に敵対するのなら、仲間になるのも愉快だろうとエリザは思い始めていた。
「それは、人によろう。じゃが――……無用の抑圧が無くなれば、皆が己に希望を持つ。さすれば悪の道に染まる者も減ろうというものじゃ」
流石のヴィルヘルミネも、返答には少しだけ時間を要した。彼女にとってもこれは、非常に難しい問題だったからだ。
――海賊とかも、やっぱり男同士で恋愛するんじゃろか? まあ、するんじゃろうな!
結局ヴィルヘルミネは、そのように思った。
「……そうか」
エリザは瞼を閉じて腕を組み、煤けた天井を見つめている。他の者には誰にも見えないが、彼女にだけは夫と娘の姿が見えていた。
――この娘がもっと早く生まれていたら、アンタ達は死ななくて済んだのかねぇ……。
ついにエリザは、酷い勘違いをしてしまったようである。
■■■■
窓から見える空が、灰色の雲に覆われていた。晴天から曇天へ変わる程の時間を、エリザは無言で天井を見つめていた。
「ここまで話した以上、協力しないというのはナシにして頂きたいのだが……」
余りにも長いエリザの沈黙に痺れを切らし、バルジャンが言った。彼としては彼女の協力が得られなければ独力でニームを奪還しなければならないし、その場合は敵海軍の攻撃を受ける可能性もあるから、気が気では無いのだ。
「――ナシだって言ったら、どうなるんだい?」
現実に引き戻されたエリザが、不機嫌そうな眼をバルジャンへと向ける。
「お互いにとって良くないことが起こる、そういうことだ」
「そりゃあ脅しってわけかい? けどね、アタシにしてみればアンタを殺して全てを無かったことにする――なんて手もあるだろう? キーエフに寝返るのも悪くは無いねェ?」
「それは、利口なやり方じゃあないな。なにせエタブルは今、我が師団の包囲下にある。我々が六時間以内に戻らない、もしくは我々が戻らないまま艦隊が出航するような動きを見せたら総攻撃を掛けるよう、部下に命じてあるんでね」
こうした保険はダントリクが提案し、エルウィンが「是非にも」と言ったものだ。実働部隊の指揮はオーギュストとアデライードが担っている。間違ってもヴィルヘルミネやバルジャンが考えた案では無かった。
「ふん。つまりアタシ達には選択肢が無いと――バルジャン少将閣下は暗に、そう言っているわけだね?」
「――そこまでは言っていない。キーエフに寝返るのでなければ、勝手にすりゃあいいさ。要は俺が本営に戻れば、総攻撃はやらないって話なんだから」
「へぇ……でもそれじゃあ、アンタは困るんだろう?」
「そうなれば、アンタも困るさ。何せ敵前逃亡の罪を、消すことが出来ないんだからな」
バルジャンの言葉に、一同が沈黙をしている。サーッという雨音が聞こえてきた。
「ま、確かにね。敵前逃亡なら本来、銃殺でもおかしくはないだろう。それが今回の作戦に協力すりゃあ恩赦でお咎め無しってんなら、美味い話さ。でもね――……」
「分かってるよ――……あんたが敵前逃亡をした理由くらい。街の被害を抑える為にやったんだろ? それにあんたが死んで艦隊が壊滅したら、南方にいる海賊は誰が抑える?
そういうことを考えりゃ、あんたの決断は正しかったんだ。その程度のことは、俺にだって分かる。分かるからこそあんたには、素直に協力して貰いたいんだ。あんたを罪人になんぞ、したくはないッ!」
言い切ったバルジャンは両拳を膝の上で握りしめ、奥歯をギリリと鳴らしている。
軍人は多くの敵を殺し、階級を上げる。だが一方で多くの味方を救っても、英雄になれるはずだ。その意味ではエリザの選択も、間違ったものではなかった。
ただこれを政府が逃亡と断じた時点で、彼女の行為は不名誉なものに成り下がってしまっただけ……。
かつてのバルジャンであれば、そこに疑問を差し挟むことなど無かったであろう。だがヴィルヘルミネと関わるうち、枠組みの中でしか動けない軍人という存在に息苦しさを感じるようになっていた。だからこそ彼は今、一人の人間としてエリザ=ド=クルーズと向き合うことが出来たのだ。
「――頼む、クルーズ提督。不愉快かも知れんが、今回ばかりは力を貸して欲しい」
ゆっくりと頭を下げて、バルジャンが言う。彼の真摯な姿に、何故かダントリクが胸を熱くしていた。彼は床に膝を付き、バルジャンと共に頭を下げている。
「オ、オラからも頼むべ。バルジャン少将に力を貸してやってくれねぇがか……」
エリザは葉巻を持ち上げて、護衛の一人に火を付けさせた。褐色肌で金髪の男だ。先程ゾフィーに短銃を突き付けた人物であった。
なお当然ながらヴィルヘルミネは、バルジャンとエリザの会話を殆ど聞いていない。だから今も、全く別のことを考えていた。
――ふむ、護衛も中々イケメンじゃの。金髪が八十三点で、黒髪が八十四点であるぞ! エリザめ、どうやら男の趣味も良いようじゃ。ふむふむ、この二人はカップルであろうの。フフ、フハハ、受けは金髪の方がいいのじゃ! ヒャッホウ!
脳内で見事な花畑を耕し、大輪の花を咲かせたヴィルヘルミネ。そして彼女はこう言った。
「エリザ=ド=クルーズ、部下共もろとも余のモノになれ」
瞬間、雷鳴が轟き大気が揺らぐ。室内に走った白い光が、ヴィルヘルミネを悪魔のように見せていた。
黒髪の女提督は、茫然と紅玉の瞳を見つめている。煙草の灰がポトリ――床へと落ちるのだった。
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