第105話 エリザ=ド=クルーズ
護衛としてヴィルヘルミネの後ろに控えたゾフィーは、油断なく周囲の観察をしている。兵を潜ませている気配は感じられず、罠を思わせるような雰囲気も無かった。
しかし、ここまで案内を務めた二人の士官は、かなりの手練れだと感じている。彼等はさり気なくエリザ=ド=クルーズの背後に回り、こちらを油断なく見つめていた。
ジーメンスとユセフの二人が隣室で止められた今、この部屋で不測の事態が生じた場合、ゾフィーは自分一人で対処しなければならない。何しろバルジャンが伴って来たのはダントリクだけで、護衛としての役目は期待出来ないからだ。
――それよりも問題は、エリザ=ド=クルーズの方だな。
ゾフィーがそう考えてしまう程に、彼女は強者の匂いを放っていた。ヴィルヘルミネの顔に煙草の煙を吹きかけた時、ゾフィーが「無礼者!」と言わなかったのは、その為だ。
それどころかエリザは一瞬だけ金髪の少女に漆黒の双眸を向けて、「腹が立つだろう? さあ、剣を抜けるものなら抜いてみろ、即座に殺してやるぞ」と彼女だけに分かるよう、挑発すらしている。
戦って、負けるとまでは思わない。だが護衛の二人も併せて三対一で戦えば、命懸けでヴィルヘルミネを守るのが精いっぱいであろう。だからゾフィーは自重して何も言わず、剣に手を掛けることも無かったのだ。
「――戦いに来たのではない」
自分にそう言い聞かせて、ゾフィーはエリザを見返した。以前の彼女なら激発したであろう状況であったが、六月革命の経験を経て金髪の少女は彼女なりに成長していたのだ。
お陰でエリザはヴィルヘルミネに頬を触られ、奇妙な感触を味わうこととなった。毅然とした紅玉の瞳から涙を溢れさせた令嬢の暖かな手が、彼女に寄る辺なき身の切なさを思い起こさせたのである。
■■■■
エリザ=ド=クルーズにはかつて、夫と娘がいた。けれど自分共々海賊に攫われ――
エリザが生き残ったのは、単に海賊の趣味に過ぎない。楽しむ為に、長く生かされていたのだ。彼女の身体に付けられた傷も、その時のものだった。
あと少しで殺されるというところで、助けが来た。だからエリザは好機と見て、夫と娘を嬲り殺した海賊の目を抉り、腸を引き裂いて殺したのだ。
海賊共のアジトの最深部、頭目たちの部屋を訪れた味方は、そこで全身に返り血を浴び、海賊共の死体を踏みつけ血涙を流すエリザの姿を見つけたという。
そのとき頭目だった三人の成れの果てこそ、机に乗った三つの頭蓋骨であった。
以来、エリザ=ド=クルーズは敵に一切の容赦をしていない。そして危険を顧みず自分を助けに危地へと踏み込んだ南方艦隊を、第二の家族と考えるようになったのである。
そうして彼女は、あの日の深い悲しみと絶望を心の奥底に沈めて生きてきた。
だというのに生きていれば娘と同じくらいの年齢であろうヴィルヘルミネが、涙と共に手を差し伸べたのだ。動揺するなという方が、無理なこと。エリザは目の前で殺される夫や娘を思い出し、臓腑が締め付けられるような恐怖を思い出していた。
――アタシのせいで、あの子は――……あの時、腕が捥げても鎖を引き千切り、助けてやれば良かったんだ……
しかしエリザの内心を知らないゾフィーは、だからといって油断も安心も出来はしない。
あの女は「二刀・ベーア=オルトレップ少将」とも互角に渡り合う、それくらい強い。万が一の時は、そう考えて行動することにしよう――と、考えた。
ゾフィーは冷静に、護衛として自らの役割を考えたのだ。結果として万が一の際は我が身を盾に、ヴィルヘルミネ
けれど不思議なことにバルジャンが舌戦とは言え、そのエリザと互角にやり合っている。彼を英雄とは名ばかりの小物だと思っていたゾフィーにとっては、これも驚くべきことなのであった。
「酒は無いが十分に美味い話だと、小官には思えるがね――クルーズ提督」
「ほう……なら、大人しく聞いてやろうじゃあないか。まあ、座れ」
古ぼけた応接用のソファーに向き合い、ヴィルヘルミネとバルジャンが座る。その向かいにエリザは腰を下ろし、長い足を組んでいた。彼女の背後には令嬢達の案内を務めた士官が二名、直立不動で並んでいる。
護衛の一人がニヤリと笑い、腰の曲刀に手を掛けようとした。刹那、ゾフィーがそれを上回る反応で剣を抜く。
「やはりこうなるか」
ゾフィーは冷静にエリザを睨んだが――……彼女に動く気配は無い。
その間に、もう一人の護衛が金髪の少女のこめかみに短銃を突き付けた。
ダントリクは何もできず、「ヒェェ」と尻餅を付いている。
ゾフィーはチラリと赤毛の令嬢を見た。
ヴィルヘルミネの残念な頭脳は、激変した状況に追いつけない。ただ「ゾフィーが銃を突きつけられている」という、網膜に映る端的な情報のみが彼女の内面を沸騰させ、怒気としてこれを発散させていく。
赤毛の令嬢にとってゾフィーは、何より大事な親友である。そのゾフィーを傷付けようというのなら、ヴィルヘルミネは訳も分からず本当に怒ってしまうのだ。
「何の真似じゃ、貴様等……!」
空洞の窓から強い風が吹き込んで、真紅の髪が逆立って見える。紅玉の瞳に灯した怒りの炎が、この場を焼き尽くさんとしていた。
エリザはヴィルヘルミネの見せた先程の優しさ――彼女はそう思っている――と、今見せた怒気、この二面性こそ天才の推し量れぬ器量ではないかと勘違いをしたらしく。
「止めんか、もういいッ! アタシはね、この嬢ちゃんに興味が湧いたよ――ランスの英雄が何を言うのかはともかく、この
護衛が銃を下ろすと、ゾフィーも剣を鞘に納めて再び後ろへと下がる。
ヴィルヘルミネは何が何だか分からなかったが、「余も卿とは仲良くやりたいと思うておる。とってもじゃッ!」などと言い、何度も何度も頷くのだった。
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