第104話 傷さえ無ければ
港町エタブルに入ったヴィルヘルミネは、バルジャンと共にランス海軍南方艦隊の司令官と顔を合わせることとなった。
ランス軍から見れば敵前逃亡をした指揮官であるから、場合によっては処分しなければならない。とはいえ今回は協力して貰う必要があり、その結果次第では新政府にしかるべく配慮する旨を伝える為であった。
ランス南方艦隊は海にほど近いホテルを接収し、司令部にしているという。ヴィルヘルミネとバルジャンは相手を刺激しないよう護衛に一個小隊を伴い、ここを訪れている。
もちろんこれには、ゾフィー以下ヴィルヘルミネの護衛団も伴っていた。彼等は全員が目をキラキラさせながら、紺碧の海と晴れ渡った青空を見つめている。
既に十月に入っていたから暦の上では秋なのだが、南方の風はまだ熱を孕んでいた。太陽も夏の残滓を煌めかせているから、少年少女の目にはエタブルの海が随分と眩しく映ったことだろう。
実際に海を見たことのあるヴィルヘルミネさえ、「ふぇぇ……」と間の抜けた声を出している。コバルトブルーに輝く南の海は、それ程に美しく輝いていた。
とはいえ軍務で来ているわけだから誰一人遊べるはずもなく、全員がお預けを食らった犬のように、顔だけを海へと向けていた。
そんな海と反比例するように、南方艦隊が接収したホテルは薄汚れていた。赤茶けたレンガの外壁が経年劣化によって所々風化し、崩れている。各部屋にある木窓も、場所によっては木が無くぽっかりと空いた空洞となっていた。接収したというよりも「廃墟に住み着いた」、と表現した方が良さそうな有様である。
それでも艦隊司令部の入り口には、一応ランス海軍の伝統を示す「名誉」「祖国」「勇気」「規律」の標語が看板として掲げられていた。もっとも「祖国」の文字はざっくりと削られており、これが南方艦隊のありようを端的に示しているかのようではあるのだが……。
そもそも、ランス海軍は伝統的に弱兵と言われていた。
理由としては近隣の海軍――特にウェルズ王国とリスガルド王国の海軍が精強で名を馳せており、ランスの北方艦隊が彼等に対し、常に名を成さしめていたからである。
しかも、その北方艦隊からさえ南方艦隊は蔑まれていた。何故なら彼等の主敵は敵性国家ではなく、海賊であったからだ。そのせいか南方の海兵は荒くれ者揃いで、北方艦隊へ転属しても上手くやれない者が多い。そんな経緯から南方艦隊は規律も規則も無い、無法者の集団だと思われていた。
そんなところへ、今回の敵前逃亡騒ぎである。ランス新政府も彼等の処遇をどうするべきか、判断を悩ませている所であった。
迂闊に処分を口にして、敵国へ寝返られても問題だ。といって彼等を討伐するには、兵力が足りない。だからバルジャンに一定の権限を与え、彼の裁量に任せることとしたのであった。
ちなみにヴィルヘルミネが同行しているのは、彼女が発案者であると思われているからだ。よって司令長官を見極める為、バルジャンが令嬢に同行を求めたのである。
――まったく、迷惑な話じゃ。
もちろんヴィルヘルミネは容姿基準でしか人を判断出来ないから、このようにしか思わなかった。
一方でバルジャンは艦隊司令部へ来て、思ったことがある。
「なんだよ……海賊軍なんて言われる程、規律なんぞ乱れていねぇぞ。それどころか陸軍よりも統率、とれているんじゃあないか?」
バルジャンの正しさを裏付けるように、ダントリクも「よく訓練された、良い兵士達だべ……」と感想を漏らしていた。
こうしてヴィルヘルミネとバルジャンはキビキビとした動作の海兵に案内されて、三階の指令長官室へと足を運んだのである。
■■■■
ヴィルヘルミネは部屋に入るなり、秀麗な頬をピクリと引き攣らせた。外から見て木窓の無い部屋があったが、まさにここが、その部屋だったからだ。
――なんぞ、こんな部屋が長官室じゃと!?
木枠だけの窓の側に、長く豊かな黒髪を風に靡かせる人物がいた。どうやら海を眺めているようだ。
彼女は長身で肩に海軍の白いサーコートを羽織り、その下に粗雑な麻の短衣だけを着ている。露出した手は赤銅色で、いかにも海軍士官といった雰囲気だ。口に極太の葉巻を薫らせ、深淵を思わせる黒い両の眼に、無残な愉悦の輝きを湛えていた。
奥の壁には無造作に曲刀が立てかけられて、どういう訳か手前の机には髑髏が三つ乗っている。ヴィルヘルミネは眩暈がして、今すぐにも回れ右をして帰りたい気持ちになっていた。
だが振り向いた人物の顔を見て、ヴィルヘルミネは「ほぉ」と感嘆の声を上げてしまう。令嬢が恐怖を克服する程の美貌を、その人物が持っていたからだ。
「――ヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナンド、それにマコーレ=ド=バルジャン。アタシがエリザ=ド=クルーズだ。
アンタら――呼んでもいないのに来たからには土産として、美味い酒か儲け話の一つくらいは持ってきたんだろうね? なければ、殺すわよ?」
女性にしては低く、ハスキーな声だった。しかし多くの者を従える威厳を、エリザは確かに備えている。
彼女は右頬から首筋にかけて、大きな傷跡が残っていた。一方で傷の無い左半面はしっかりと化粧をした、美しい容姿の女性である。
実年齢は三十代も半ばに達しているが、均整の取れた肉体と相まって十歳は若く見えた。
――こ、これは、九十一点じゃ! 右頬の傷を差し引いても、このくらいの点数はいくぞ! めっけものじゃ!
美人に目がないヴィルヘルミネは、思わずボーっと女提督を見つめている。するとエリザは口に咥えた極太の葉巻を手に持ち替えながら進み出て、令嬢に白い煙を吐きかけてきた。
「アタシはね、ジロジロ見られるのが好きじゃあないんだよ。二度は言わないから銃で風穴開けられる前に、その小さな頭の中に叩き込んでおきな」
ヴィルヘルミネは脅しにも微動だにせず視線を上に向けて、なおもエリザを睨んでいる。というか見惚れて、何にも聞いちゃあいなかった。
――なんと整った口元をしておるのか……だというのに右頬の傷……惜しい……惜しいぞッ!
そのままヴィルヘルミネは左手を伸ばし、エリザの右頬に触れた。やはり傷を隠せば、絶世とも言えるほどの褐色美女が目の前に現れる。傷さえ無ければ、百点だって夢ではないのに……。
紅玉の瞳から、大粒の涙が零れた。
「なにゆえ、このようなことに……」
震える声で、令嬢が言う。エリザの傷をゆっくりと擦り、静かに首を振っていた。
エリザは意味が分からず、後ずさる。
「な、何なんだい、アンタ……おい、バルジャン。こんな意味の分からないのが軍事の天才、戦神の姫巫女とやらなのかい!?」
「ふっ……そうですよ。その方こそまさしく、ヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナント様だ」
バルジャンは最初こそ相手の覇気に面食らったが、ヴィルヘルミネが完全にエリザを喰ったと見て取り安心した。
もしも世界におっかない女子ランキングがあるのなら、きっとエリザは上位五名に入るだろう。けれど栄光の第一位は、間違いなくヴィルヘルミネのものだ。そんな令嬢が味方だからバルジャンは今、超強気に出られるのだった。
「だ、だったら何で、コイツは泣いているんだ!? まさかアタシに同情しているとでも言うのかいッ!? アタシのことを良く知りもしない、こ、こんな小娘がッ!?」
「さあね、ヴィルヘルミネ様の御心は、小官にも分かりかねる。そんなことより、そろそろ本題に入りたい。
あなたが南方艦隊司令長官、ということで間違いないのだな? 別人に機密を話した挙句、煙に巻かれるなど冗談ではないから、まずは確認をしておきたいのだが?」
バルジャンの言葉に、エリザが唇の端を歪めている。慈母のように自分をじっと見つめる令嬢には恐怖を覚えるが、当面、自分が相手にしなければならないのはランスの英雄だと気が付いたのだ。
「ふん、南方艦隊司令長官……か。そんな役職は捨てたね。アタシらは政府の命令に背いて撤退した上、勝手にここへ駐留しているんだ。しいて言うならアタシは海賊の親玉ってところだろうね。
さ、どうする、それでもアタシに機密とやらを話すのかい? それが美味い話なら、乗ってやらんこともないが……」
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