第103話 特使ヴィルヘルミネの憂鬱
特使を称するヴィルヘルミネを軍事顧問に迎えたバルジャン師団は、一路南方を目指し進軍をしていた。目的地はトゥール州の西隣にあるドーフィネ州の港町、エタブルである。
進軍といっても全軍が固まっての移動ではない。一個師団が纏って動けば目立ち過ぎるし、速度も遅くなる。そのうえ物資の補給も膨大な量になるから、バルジャンは各小隊ごとに目的地を目指すことにした。
もっとも各小隊はエタブルの手前に広がる平原で集合し、師団規模の部隊と為す。その後にバルジャンはエタブルへ乗り込むつもりであった。
むろんバルジャンがエタブルを目指すのは、ヴィルヘルミネの意図だと思われている。なにせ令嬢の意図を察知したというアデライードが、出征前の会議でこう言ったからだ。
「エタブルにはヴァレンシュタイン軍の侵攻早々ニームから逃げ出した、ランス海軍南方艦隊が駐留しています。つまり――」
「ああ、それはつまり――……」
アデライードの言葉にピンとこない新米師団長は、ちょうどコーヒーを運んできた眼鏡の従卒をチラリと見て、片目を瞑る。「つまり――ダン坊、あれだよな?」
「ん? ああ、んだ。ヴィルヘルミネ様はエタブルの海軍を吸収して海上支援を得つつ、先にニームを奪還しようという考えだべな。ニームさ駐留する敵軍は約五千――んだばバルジャン少将の師団だけでも十分に攻略出来るって寸法だべ。
それが嫌ならヴァレンシュタイン公はアルザスから出てくるほか無いし、こちらの意図が分かれば、進んで交渉の席に着くことだって有り得るべさ」
「よ、よし、ダン坊。よーく勉強しているようで何よりだ、偉いぞ!」
バルジャンは「はは、ははは!」と笑いながら、ボサボサとしたダントリクの黒髪をガシガシと掻きまわす。「や、やめるべ、少将。そうやっていつもオラを試すのは、良くないことだべさ」
この時ヴィルヘルミネが「ふふっ」と笑っていたのは、何も「その通り」という意味ではない。バルジャンとダントリクという新たなカップルの誕生を、単に祝福しただけであった。
こうしてバルジャン師団の本隊は、師団司令部として千二百の人員で一路南下を続けている。エタブルまでは約二十日の行程であり、現在は半分程の地点なのであった。
■■■■
この行軍中ヴィルヘルミネは馬車に引き籠り、ずっと、あれやらこれやらと考えている。何せ戦わないつもりが、いつの間にかニーム奪還作戦へとすり替わっていたからだ。
確かにニームを攻撃すれば、ヴァレンシュタインを引きずり出すことが出切るかも知れない。地に落ちたランス軍の士気も一挙に回復するだろう。その方が交渉の席に着いた際、有利な条件を引き出せるということも、まあ理解できる。
だがしかし、そもそもヴィルヘルミネは全く一切ぜんぜん戦う気が無かったのだ。なのにこれでは、激しく不本意なのであった。
――どうしてこうなった!? 何故なのじゃ!?
内心で頭を抱え込む赤毛の令嬢は、腕組みをして眉根を寄せている。不機嫌そうな顔であった。
馬車に同乗するゾフィー、ユセフ、ジーメンスの三人も、今回の作戦に関しては口を揃えて「流石です!」と言うばかりで役立たない。それどころか、まだ見ぬ海に皆が胸をときめかせている有様なのであった。
「海というのは遥か西の大陸とも繋がっているのだよ、ユセフ!」
「知っている、学校で習ったからな……。な、なあ、ジーメンス。海というのは、お、泳げるのかな……?」
「そりゃあ泳げるが、しかしユセフ。川と違って海には、波というものがあるのだよ! 波がァァァッ!」
「波?」
「ああ、波さ。高い場合は五メートルにも十メートルにもなるという、恐ろしいものだ! 泳ぐなら、十分に気を付け給えよ!」
「お、おお……ユセフ……お、俺は……泳ぐべきなのか……?」
「少し黙れ、二人とも。……それにしてもヴィルヘルミネ様、海は潮の香りがすると申します……楽しみですね」
珍しくゾフィーが静かな微笑を湛えて、ヴィルヘルミネを見つめていた。けれど令嬢は冷然とした無表情で、やや細めた赤い瞳を金髪の親友に向けている。
「ゾフィー……これはの、遊びに行くのではないぞ。もしも、もしもじゃ……我等がニームを攻略する前にヴァレンシュタイン公が戻ってきたら、何とする」
「それも、狙いの内なのでありましょう?」
「そ、そうじゃが、しかしヴァレンシュタイン公が交渉に応じなければ、戦うほか無いのじゃぞ? そうなったら、一万対二万五千の戦いになってしまうじゃろが」
「それでもヴィルヘルミネ様の采配があれば、敗北などあり得ません」
「む、む……じゃが、じゃがの、万が一ということもあるじゃろ?」
「その時はわたしが命に代えてもヴィルヘルミネ様を、お護り致します。その点に関してはジーメンスもユセフも同じ気持ちですから、ご安心を」
「「もちろんです!」」
「……で、あるか」
赤毛の令嬢としては、そんなことを言われても……である。眉間に指を当て、自分の責任について必死で考えてみた。
第一に、祖国の為にランスの南部をキーエフに与えてはならない。その為には何としても、ヴァレンシュタインを撤退させる必要がある。
第二に、ゾフィーやイルハン=ユセフ、そしてジーメンスを死なせてはならない。自分の我儘でランスまで連れてきて今また出征を強いているのだから、その程度の責任を持つことは当然と思われた。
この二つの責任を果たす為には、一敗たりとも出来ないだろう。そう思うとヴィルヘルミネの足りない脳みそは、今にも爆発しそうになるのであった。
――そもそも、兵力が足りないのじゃ。
足りないからこそ、それを補う為にヴィルヘルミネが軍事顧問になっている。そういう判断をランス政府はしているのだが、当の本人は「特使じゃぞ!」としか思っていなかった。だから兵力の不足をどうにか埋め合わせようと、馬車の中で必死に知恵を絞っているのだ。
しかし足りない兵力を補って埋める知恵など、カラカラと音が鳴りそうな令嬢の頭から出てくるはずがなかった。
――ああ、そうじゃ。兵が足りなければ、持ってくればいいのじゃろ。
そうした結果、ヴィルヘルミネは何やら名案を思い付いたようだ。パッと表情が明るくなり、パンと手を打ち鳴らした。
その夜、野営の最中に二通の手紙を書いた令嬢は天幕にエルウィンを呼び、それを渡した。
ピンクブロンドの髪色をした青年は手紙の宛先を見てギョッとしたが、ヴィルヘルミネが「極秘じゃ」と言うので何も言えず、押し黙っている。
「必ず届けよ」
「は……しかし」
「何も言うな。極秘じゃし、保険じゃから」
エルウィンは宛先を見て令嬢が何をしようとしているのか、大方の想像が付いた。場合によっては帝国すら敵に回しかねない悪手だと思えるのだが……。
しかしヴィルヘルミネの冷然とした紅玉の瞳に、この時は不思議な光が宿っていた。それは図らずも生まれてしまった、令嬢の貴族らしい責任感と覚悟である。奇妙な迫力があり、エルウィンは気圧されていた。
もっとも令嬢はそれを口に出さないから、エルウィンには何だか分からない。ただ切れ長の瞳でじっと見られて、彼はついに折れた。
ましてやヴィルヘルミネは、軍事の天才と呼ばれる少女だ。一見悪手と思えるようなことにも、何か別の意味があるのかも知れない。ならば自分が口出しをするなど、おこがましい事だとエルウィンは考えた。
「御意」
こうしてエルウィンはヴィルヘルミネを信じて二通の手紙を受け取り、部下へ託す。
二手に分かれたエルウィンの部下は、昼夜を問わずに馬を走らせるのだった。
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