第100話 ヴィルヘルミネの仮病
昨日から幼年学校が始まり、夏休みという名の公然とだらけることの出来る期間が終了した赤毛の令嬢は、死んだ魚のような目でベッドに突っ伏している。
「気分が優れぬ」
朝、迎えに来たゾフィーにヴィルヘルミネは、こう言った。もちろん仮病である。そしてまんまと学校をサボった彼女は、午前中を自堕落に過ごしたのだった。
とはいえ正午も過ぎると、流石にもうやることが無い。非常に暇だ。結果として現在ヴィルヘルミネはベッドの上でうつぶせに寝たまま、泳ぐ真似をして時間を潰していた。
「水の中にいる気分になれば、きっと少しは涼しくなるじゃろう」
もちろん、ならなかった。それどころか無駄に動いたせいで、令嬢の体温は上昇の一途を辿っている。
「ぷぇ……暑いのじゃ。何故なのか……」
という訳で活動限界を迎えた赤毛の令嬢は、ふかふかなベッドの上で枕に顔を埋め、茫然とした表情でマッチ棒のように横たわっているのだった。
――コンコン。
扉がノックされたので首だけを強引に動かし、令嬢が三白眼を戸口へと向ける。紅玉の瞳に秘めた怒気は、ただの八つ当たりであった。
「開いておる、なんじゃ?」
「し、失礼致します。デッケン中佐がお越しになられました。ホールでお待ちです」
珍妙な恰好をしたヴィルヘルミネにいきなり睨まれ、扉を開けた侍女は平伏した。何も悪いことなどしておらず、それどころかエルウィンに頼まれて令嬢を呼びに来たのに、とんだ災難である。
侍女はそそくさと部屋を辞し、自身が居るべき場所へと下がっていった。
――むむ、エルウィンのやつ、なぜ余が寄宿舎にいることを知っているのじゃ? まあいいか。
ヴィルヘルミネが白いふんわりとした寝間着のまま階下へ降りると、エルウィンが駆け寄ってきた。
「ミーネ様、ご病気と伺っておりましたが火急の事にて、まかりこした次第にございます」
「――よい、して、何事であるか?」
自身が病気という設定を忘れていた令嬢は、一瞬だけポカンとした。それからホールの隅にあるソファーを指さし、エルウィンに座るよう促している。
「はっ」
エルウィンはヴィルヘルミネの表情を見て、愕然とした。令嬢の顔は赤く、明らかに熱がありそうだ。今も一瞬だけポカンとして、反応がいつもより鈍い。
――まさか、意識が混濁しているのではあるまいか?
そう考えたエルウィンは、ひどく焦った。
古来より数多の戦場で不敗を誇った英雄が、謎の熱病に侵され不幸な死を遂げる前例は多い。特に若くして名を馳せた者ほど、周囲に惜しまれつつもあっけなく旅立っていくのだ。
――神よ、ミーネ様は現世にこそ必要なお方! まだ御許には、お連れ召さるなッ!
思わずヴィルヘルミネの額に手を当て、自分の額にも反対の手を当てて熱を測るエルウィン。しかしピンクブロンドの髪色をした青年は気が動転して、自分が白手袋を嵌めていることを忘れていた。
――ええい、熱が測れんッ!
当たり前である。
だが気が動転しているエルウィンは、何としても令嬢の熱を測りたい。だから、ここで「おでこ」と「おでこ」をくっつけて熱を測る作戦を敢行した。
瞬間、イケメン過ぎる部下の顔がヴィルヘルミネの間近に迫る。
――なんぞ、これ!?
令嬢の顔が真っ赤に染まり、耳から湯気が出んばかりの勢いで脳が茹っていく。だからなのか体感では、四十度にも達するような想像高熱に陥るヴィルヘルミネなのであった。
ちなみに真実は、つい先程まで部屋で「エア水泳ゲーム」なる一人遊びをやっていた令嬢が、ただ単に動き過ぎて身体を火照らせていただけである。なのでヴィルヘルミネの体調には、まったく問題など無い。
しかしゾフィーからはヴィルヘルミネが体調不良で幼年学校を休んだと聞いていたから、エルウィンは最初から気が気では無かった。そこで顔を火照らせた令嬢を見てしまい、心配し過ぎて今に至ったのである。
「失礼」
ついにエルウィンの額が、令嬢の額に触れた。
どーん。ヴィルヘルミネ、大爆発。
髪の毛の先から足の先まで真っ赤になったヴィルヘルミネが身体を揺らし、口をパクパクと動かしていた。ぐらりと揺れた彼女の身体を、エルウィンがしっかと抱き留める。
「こ、これはいけないッ!」
いけないも何も、元凶はエルウィンであった。
だというのに真実を知らない彼は、ヴィルヘルミネをお姫様抱っこ。ここに至り「おでこぴと」「抱きしめ」「お姫様抱っこ」というトリプルコンボをキメられた令嬢は、もはや瀕死の重傷だ。このままでは死因が「イケメン死」になってしまう。
「う、うう……だ、大丈夫じゃから、余を下ろせ」
息も絶え絶えに言う令嬢を抱っこしたまま、エルウィンは彼女を部屋へと運び込む。
もうこうなるとヴィルヘルミネは何も言えず、「あ、う、あ、う」とうわ言を繰り返すばかり。いよいよ危ないと、ついに医者を呼ばれてしまう令嬢なのであった。
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