第98話 清廉の男、悪徳の男


「ニーム、アルザスは陥落。しかしながらシチリエ将軍は未だ健在であり、残存兵力は凡そ四万とのことです、閣下」


 ランスの王都グランヴィルにシチリエ大将の敗報が伝わったのは、八月十九日のことであった。

 とはいえ狼煙によって伝えられる情報だから、質、量ともに限りがある。従って国民議会議長のデルボアが把握出来た内容は、この程度のことであった。


「戦の勝敗は兵家の常。四万もの兵力が残っているのなら、シチリエ将軍にもまだ、敗北の汚辱を雪ぐ機会は残っているでしょう。狼狽える程のことではない」


 策を弄し権謀術数を好むデルボアだが、意外なことに信条は「人を疑わば用いず、人を用うれば疑わず」であった。特に軍事に関しては専門外であることから、その傾向が強い。

 だから今も秘書官の報告を聞き、額に青筋を浮かべたものの、トレードマークの柔和な笑みを消すことは無かった。


 とはいえ、デルボアとしてはいささか複雑な心境にある。何しろ無能者と断じて王都に配したバルジャンは予想外の優秀さを見せ、英雄の名を確固たるものにした。一方で能力を見込んだシチリエは敗北し、与えた兵の二割を失っている。


 ――私の見る目は、もう少し確かなものだと思っていたのだがな。だが、ここでヤツを更迭したところで、何の解決にもならん。それどころか敗軍の将を選んだなどと難癖を付けられたら、せっかく手に入れた地位を手放すことにもなりかねんぞ。冗談ではないッ……!


 殊勝にも喪失しかけた自信を、彼の強烈な野心が取り戻す。ここで泣いても喚いても、誰一人助けてはくれないのだ。

 むしろ権力の座は、自信なき者を極度に嫌う。だから弱みなど見せれば、たちまち引きずり降ろされてしまうのだ。


「とはいえ新聞社の連中も、すぐに敗報を嗅ぎ付けるでしょう。これには、いかが対処なさいますか?」

「なに、いくさとは、最後に勝てばそれで良い。シチリエ大将の吉報を待とうじゃあないかね。そのように、談話を発表したまえ。私はシチリエ大将を信じている、と。――それが秘書官たる、君の仕事でしょう」


 この日は分厚い面の皮に強気の仮面を張り付けて、デルボアも何とか平静を保つことが出来た。しかし、そのような虚勢も長くは続かない。日を追うごとに次々やってくる南方からの伝令が、悪化し続ける状況を事細かに告げるからだ。


 当初はシチリエ将軍が補給を要請する伝令であったが、それは彼が敗北を喫する八月十八日以前の話であった。それですら状況が逼迫していたのに、その後に届く伝令の言葉は、もはや悲鳴の響きを帯びていた。挙句の果てには近隣の村や街から、ランス軍に対する怨嗟の声までもが届いている。


 何故なら敗北を喫したランス軍にとって、喫緊の課題が食料不足であったからだ。

 これを解決するのに彼等は一度物資を放出した村々から、再び物資を徴発した。この時、抵抗する人々を武力で押さえつける結果となり、流血事件へと発展したのである。


 シチリエ大将にしてみれば、将兵を飢えさせない為には仕方のない行為であった。しかしながら成立したばかりのランス新政府にとっては、大きな痛手である。何しろ南方にいる民衆の信頼を、これで一挙に失ったのだから。


 加えて最後に齎された情報は、キーエフ方面軍の壊滅である。シチリエ大将は降伏し、二万の兵と共に捕虜となった。そして敵を撃滅したキーエフ軍は糧食を放出し、近隣住民の慰撫に務めたという。


 ここに至りデルボアの表情から笑みが消え、彼は頭髪の無い頭を茹で蛸のように赤くして叫んだという。


「これらは全てキーエフの陰謀であり、シチリエは悪の加担者であった! よって我が政府は正式に、民衆の敵たる悪の帝国、キーエフに宣戦を布告するものとするッ!」

 

 ■■■■


 グランヴィルの下町、王都の台所と言われる十二区にある一軒の居酒屋が、今やマクシミリアン=アギュロンの率いる公正党ジャスティスの根城となっていた。

 時刻は午後七時過ぎ、酒を飲まないアギュロンはコーヒーを片手に、机を挟んで目の前の男の話を聞いている。


「ラザール殿……つまり君は、デルボアに取って代わろうというのか?」

「それこそまさかだ、アギュロン殿。馬鹿なことを言わないでくれ。ただ私は、このままデルボア議長に任せていては、トゥール州が全てキーエフのものになってしまうと言っているだけだ。そうなれば人民は政府の無能を謗り、王政に戻せと騒ぎ始めるぞ。まごうこと無き、革命の後退だ」

「それは確かに私にとって由々しき事態だが――仮にそうなったとしても、君は一向に構わないのではないか?」

「いやぁ、構う。そして困る。何せキーエフの要求は、亡命した貴族達の既得権益の返還だ。そんなことをされたら、私の商売が上がったりだからな。人民だって結果として困るだろう」


 男は葡萄酒を手にしているが、今まで一口も飲んでいない。とはいえ彼は下戸という訳ではなく、決して宗教上の縛りがある訳でもない。ただ、彼は公正無私なアギュロンに敬意を表しているのだ。


 男の名はポール=ラザール。立憲君主派の頭目であり、いわゆる中庸派と目されている人物だ。光の加減で緑色に見える黒髪が特徴的で、神秘的な金色の瞳に篭絡される婦女子の数は多い。今年二十九歳になる彼には妻が一人と愛人が五人程いて、それなりに人生を謳歌しているらしく、そのモットーは「万人には稼げる機会を、俺には無限の金銭を」というものであった。


 要するに彼は商会の頭目であり、無数にある工場の経営者であり政治家である。だがそれ以前に彼は欲望に塗れた、一人の人間なのだ。

 従って突き詰めるまでも無く「清廉の男」と呼ばれるマクシミリアン=アギュロンとは対極にあり、どちらかと言えばデルボア寄りの男であった。


 しかし彼は先日アギュロンが「王に助力を仰ぐべきだ」とデルボアに進言した際、同調している。その一件以来、公正党ジャスティスと彼の立憲君主党が急接近をした、という次第であった。


 むろん、これには裏がある。ラザールはヘルムートが奏でる曲に合わせ、リヒベルグが糸で操る人形でもあるのだ。だから彼の行動は一方で、フェルディナントの国益にも叶うものなのである。

 つまりそれに見合うだけの「金銭」を、ポール=ラザールはフェルディナントから引き出しているということでもあった。


「そこでだ、アギュロン殿……新たに一軍を送り一戦して勝利を収め、あわよくばヴァレンシュタインと講和してトゥール州を取り返す――という案はどうだろうか? さすれば移ろいやすい民衆の心も、我が政府に留め置けるというものではないか?」

「そうできれば理想だが……しかし不敗と評判のシチリエ大将が負けた今、一体どこにヴァレンシュタインに勝てる将がいるというのか……ましてや講和の為の対話に持ち込むなら、相応の爵位をもった貴族でなければ……しかしそんな者は、どこにも……」

「それがな、双方の条件を満たす者が一人だけ、いるのだ」

「……誰だ、それは?」

「――ヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナント」


 ラザールが身を乗り出し、声を潜めて静かに言った。燭台に置かれた蝋燭が炎が、作り出された風で揺れる。

 アギュロンが眉を開き、「確かに」と膝を打った。だがすぐに、「しかし、フェルディナント公国はキーエフ帝国の内にある国。流石に力を貸してはくれまい」と言って頭を振る。


「いやいやアギュロン殿――フェルディナント公国は国防の観点から、王国の南東部をキーエフ帝国に切り取られるを良しとしていない」

「――さりとて帝国とは、直接ことを構えたくはない。だから議長閣下の援軍要請は断った、ということか、ラザール殿」

「流石はアギュロン殿、ご明察の通り。ゆえにフェルディナントは表立つ形でなければ、必ずや力を貸してくれる」

「ふぅむ……仮にそうだとして、あなたがなぜ、そのような情報を知っている……?」

「なぁに、フェルディナントに親戚がいてね、時々手紙のやり取りをしているのさ」

「なるほど……理解した。だが表立つ形でなければ、ということは、彼女の代わりに表立って軍を率いる将は、必要なのだろう?」

「もちろん。だが、それは全く心配していない――何せ一人、おあつらえ向きの英雄がいるのだから」


 ラザールが、葡萄酒の入った杯を掲げて見せる。アギュロンが考えたのは、一瞬にも満たない時間であった。


「マコーレ=ド=バルジャン准将」

「ご名答だ、アギュロン殿」


 アギュロンはコーヒーを飲み干し、息を吐く。


「ポール=ラザール……あなたは本当に、我が国の行く末を想っているのか……?」

「ふっ、ふふふっ……何を当たり前のことを」

「あなたは自分がフェルディナントの走狗ではないと、誓って言えるのか?」

「ああ、誓うとも。だからアギュロン殿、今回は私に力を貸してくれないか」

「ふん。今は力を貸すより他に、我が革命を救う道など無かろう……」


 アギュロンは黒い瞳に力を込めて、目の前の男を睨んでいた。もしもラザールがフェルディナントの走狗なら、いつか殺さねばならないと決意して。

 けれど今の国難に立ち向かうには、悔しいけれどフェルディナントの――ヴィルヘルミネの力が必要なのであった。

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