第97話 アルザス会戦 2


 敵の攻撃を前にすれば、ランス軍とて黙ってはいない。キーエフ軍に遅ればせながらも砲撃を開始し、統一的な銃撃を段階的に行っていく。結果として激しい銃撃、砲撃の応酬となった。


 ランス兵の額に銃弾がめり込み、ガクリと膝から崩れ落ちる。すぐさま後ろから進み出た兵が、死んだ兵の穴を埋めていく。同様のことがキーエフ側でも起こり、兵が幾人も倒れていた。戦列歩兵とは、こうした消耗品なのだ。


 両軍の下士官が声を枯らして、「撃て!」と叫ぶ。それを合図にただひたすら弾を込め、撃ち、後列と交代する。そんな動作を兵達は繰り返していた。


 血と硝煙の立ち込める戦場で、ルイーズは一人顔色を青くしている。


 陣を構えて敵を見据え、前進するところまでは良かった。だが、いざ戦闘が始まってしまえば、辺りに満ちているのは死の匂い。その中にあっては自分とて例外ではなく、弾に当たれば無残に頭蓋を砕かれ絶命するしかない。ルイーズは、その事に気付いてしまったのだ。


 英雄志望のルイーズにとって、こんな場所で自分が死ぬと想像することは、ストレス以外の何物でもなかった。

 

 ましてや撃ち合いは、陣形に厚みのあるランス軍が圧倒的に有利であった。徐々にキーエフ軍は前衛を崩され、後退を余儀なくされている。ルイーズがいる本営の近くにも、敵の砲弾が落ちていた。


 ――なんですの、これは!? どうして人が、家畜のように死んでいくのです!? いいえ、いいえ、家畜ならばまだ、その死には意味がある。だけれど、これは――……!


 ルイーズの耳には、ガチガチという音が響いている。自分の奥歯が鳴らす音だ。彼女が引き攣った顔を横に向けると、父は泰然とした様子で腕を組んでいる。


「お、お父様……は、死ぬのが……怖く……無いんですの?」

「怖いさ。けれど前線にいる兵達は、きっともっと怖いだろうね。なのに指揮官が怯えた顔など浮かべていたら、兵士達は戦えないよ」

「そ、そういうものですの……?」

「ああ、そうさ。それにね、ルイーズ。君がライバルだと思うヴィルヘルミネは八歳にして馬を駆り、平然と敵軍を横切り後背を衝いたという。それがどうだい、ここは最前線からも離れているというのに――……君は、もしかして怖いのかな?」

「ま、まさかッ! わたくしたちの勝利は確実。こ、こここ、ここで敵を恐れる理由など、何一つありませんわッ!」


 必死で奥歯を噛みしめるルイーズの目には、今にも破られそうな前衛の光景が見えている。だが、これも作戦の内なのだ。

 ルイーズは大きく頭を振って、自分の中から恐怖を追い出そうと努力する。十三歳の少女は胸の内にヴィルヘルミネの像を描き、問いかけた。


 ――あ、あなたは戦場の只中にいても怖くないのですって? きっと神経が麻痺していますのね! お、お、お気の毒ですことッ!

 でもでもわたくしは、この恐怖をねじ伏せて見せますわッ! あなたなんかと違って、正常な神経をしていますからねッ!


 遠くグランヴィルの寄宿舎で、ヴィルヘルミネが「くちんッ!」とクシャミをした。


「夏なのに寒いのじゃ、病かのぅ。はっ……まさか余、死ぬのかッ!?」


 クシャミだけで死の恐怖を感じる、超過敏な赤毛の令嬢なのであった。


 ■■■■


「前進せよ! 襲歩ダブル・タイムッ!」


 ランス軍が歩調を揃え、前進を開始した。襲歩とは速歩よりも速く、毎分百二十歩以上の速度である。これは突撃と違い全軍の歩調を合わせての進撃であり、射撃戦は未だ続いていた。


「敵の攻撃を、いなしつつ後退。後退しつつ敵の転換点を見極める――砲の配置転換も急げよッ!」

 

 飛来した砲弾が巻き起こす砂塵にも微動だにせず、ヴァレンシュタインが手を翳した。それから五分ほどして、再び命令を下す。


「――ここだ、踏み止まれッ!」


 敵が速度を「襲歩」から「突撃」に変える直前、キーエフ軍の反撃が始まった。ランス軍の足が途端に鈍り、陣形も乱れていく。


「止められただとッ! アルザスの守備兵は何をやっているッ! 今こそ敵の後背を襲う、よい機会ではないかッ!」


 戦闘開始から一時間余りして、シチリエの眉間に皺が寄った。苛立っていた。自軍より数の少ない敵に、こうまで苦戦することが信じられない。それだけヴァレンシュタインの用兵が巧みであったのだが、今まで必ず勝てる戦いしか経験していない彼に、敵将の凄さが理解できる筈もなかった。


 だがここで、ついにアルザスの守備兵が動く。意図としてはキーエフ軍を背後から衝き、崩れ始めたランス軍を援護する為だ。

 分厚い城門が開かれて、中から二千余りの歩兵が飛び出した。彼等が勢いよく、キーエフ軍の背後に襲い掛かる。


 しかし、これに会心の笑みを浮かべたのはキーエフ軍の司令官であった。


「この時を、待っていたよ。両翼の騎兵隊に伝えろ。敵守備兵の側面へ回り込み、脅かしてやれ――とな」


 ヴァレンシュタインは笑みを浮かべて命令を下し、同時に本隊をくるりと反転させた。元より自らは部隊の中央にあって、前後どちらにも対応できる位置にいたのだ。

 

 こうしてアルザスの守備隊は三方から自軍の三倍を超える敵に包囲され、後退を余儀なくされた。

 その有様を見て、シチリエは半狂乱で全軍に突撃を命じている。アルザスの守備隊を救出する為に、必死なのだ。同時にチャンスだとも感じている。ヴァレンシュタインが予備兵力を全て、後方へ向けたと思ったからだ。


「行け、全軍突撃だッ! キーエフ軍を揉み潰せッ!」


 シチリエも自ら馬に乗り、前線へと駆けて行く。ここが正念場だと、理解していたからだ。だが彼の目の前で、不可思議なことが起こった。


 なんとキーエフ軍の前衛が後退しつつ陣形を変えて、六つの縦陣を作ったのだ。戦いの最中、何と見事な用兵だと、ランスの上級士官達でさえ時と場所を忘れて見惚れた程である。


 こうしてキーエフ軍は、陣形と陣形の間に幾つもの空間を作り出した。


「やつら、何の為に……」


 シチリエは絶句しつつ、前方で開かれた空間を見つめている。だが流石の彼も、この時ばかり敵の意図をすぐに察知した。

 何しろキーエフ軍が作り出した陣形の隙間から、大砲がいくつも見えている。そして角度は水平に近く――つまり突撃するランス歩兵に狙いを定めているのだから……。


「い、いかん、後退だ、後退せよ! 砲兵の支援を――……」

 

 シチリエ大将が全てを言い切る前に、キーエフ軍の大砲が火を噴いた。

 真っ直ぐに飛ぶ砲弾は、人の胴体を千切り頭部を破砕しても、なお先へと進む。着弾すると破裂して、鉄の雨を人馬に降り注ぐ散弾であった。草花が血に濡れて、朝日が赤黒い人馬の血肉を照らしている。


 未だ後方にいたシチリエ大将は戦死も負傷も免れたが、それを幸いと喜ぶことは出来なかった。暫し茫然とした後、陣形の再編をしようと軍刀サーベルを振り上げる。


 その時、突如として後方から喚声が上がった。


「第七騎兵大隊、行くぞ」


 軍刀サーベルを手に馬腹を蹴って駆けだしたのは、イシュトバーン少佐であった。彼の大隊を最前列としたキーエフの騎兵二個連隊が、一挙にランス軍司令部へと襲い掛かる。

 

 イシュトバーンは朝焼けに白刃を煌めかせ、一振りごとに人血を大地へ吸わせていった。彼が行くところ、人馬の血に彩られた道が開けていく。


 こうして大混乱に陥ったランス軍は、組織的な戦いが一時的に不可能となった。

 その間にヴァレンシュタインは撤退しようとする守備隊と共にアルザスの城門をくぐり、瞬く間に城壁を制圧してしまったのである。


 ――午前八時三十分、勝敗の帰趨は決した。むろん、キーエフ軍の鮮やかな大勝利であった。

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