第91話 マカロンと覚悟


 夕暮れ時の赤茶けた街並みに、甲高い槌音が響いている。家々の煙突からは炊事の煙が立ち上り、王都グランヴィルは逞しく、革命による被害から復興する兆しを見せていた。


 そうした光景が、グランヴィル二区のフェルディナント公使館からは良く見える。特に公使の執務室がある三階の窓からは、行き交う人々の希望に満ちた喧騒までが聞こえてくるかのようであった。


 四十絡みの公使は手を後ろで組み、窓辺に立って外を見つめている。彼は夕闇に染まりつつある大国の首都を眺めながら、年若い駐在武官の報告を聞いていた。


「キーエフ帝国軍三万が南東よりランスの国境を越え、侵攻中とのこと。指揮官はヴァレンシュタイン中将です」

「それは、確かな情報なのですね――デッケン中佐」


 ため息交じりの声を発し、公使が言った。


「はい。リヒベルグ少将からもキーエフ軍の進軍を確認したとの情報があり、またランス軍の情報筋からも確認した結果であります」


 ピンクブロンドの髪を後頭部で纏めた、長身の青年士官が公使の問いに淀みなく答える。西日が彼の横顔に落ちて、反対側に濃い影を作っていた。


 彼の名はエルウィン=フォン=デッケン。先の革命騒ぎにおいて少数の兵を巧みに操り、グスターヴ師団を陽動した功績を認められ、中佐へと昇進を果たしている。

 実際、彼が巧みに敵を陽動した結果、奇襲部隊が敵将に到達出来たのだ。勲功という意味では、敵将を討ち取ったゾフィーにも比肩するだろう。


 だがエルウィンは、自らの功績を誇ることは無かった。ただ中佐の辞令を受け取り、粛然と現行の任務継続を志願しただけである。

 中佐ともなれば副連隊長の職位を与えられるはずであったが、つまり彼はそれを蹴ってまで、ヴィルヘルミネの側にいることを望んだのだ。


 公使は街並みへ向けていた双眸を、若者が持つ夜空色の瞳に向けた。


「しかし問題は、帝国がランスへ軍を向けるに当たり、我が国へ打診をしなかったことですね。本来であれば他国・・への侵攻ですから、我が国にも兵を出せと要求してきそうなものですが……」

「小官も公使閣下に同感です。このような点からキーエフの軍事行動には、我が国に対する牽制の意図も含まれているのでは、と」

「ほう……あえて我が国を侵攻軍から外すことで、圧力を与えようということですか?」

「はい。とは言えキーエフは現在、ランス王国に宣戦布告をしておりません。ですから、その意図は――……」

「ふむ――侵攻ではないと。ならば少なくとも軍を動かした名目は他にあり、かつ我が国とランスを牽制する意図があると見る他ありませんね」

「……ご賢察の通りかと存じます」

 

 エルウィンは恭しく頭を垂れ、上官の明晰な頭脳に敬意を表す。彼が本国へ報告書を書くのであれば、心配はいらないだろう。

 

「報告は、以上であります」


 公使が頷くと、エルウィンは敬礼の後に踵を返して退出した。それから公使館を出て、急ぎ高級菓子店へと向かう。近頃の彼には、王都のお菓子を持ってヴィルヘルミネの寄宿舎へ参上する、という任務が付け加えられたからであった。


 ■■■■


 ランス陸軍幼年学校の門前で衛兵に来訪の用件を告げ、エルウィンは馬を進めていく。

 とはいえヴィルヘルミネは女子用の寄宿舎にいるから、居室までは行けない。彼は玄関ホールで寄宿舎の管理人に声を掛け、令嬢を呼んでもらうよう、いつもの通りに頼んでいる。


 夕日の差し込む玄関ホールの隅で暫く待っていると、瞼を手の甲で擦りながら赤毛の令嬢が階段を下りてきた。何やら眠そうだ。

 エルウィンはヴィルヘルミネに駆け寄ると、お菓子の箱を小脇に抱えたままで敬礼をする。


 彼にとっては、武官として公使館に齎された様々な情報を主君に報告する、というのも任務の一つ。その際にお菓子を携えて行くのは、ささやかながら令嬢の関心を買うためであった。せっかくの機会だし、最大限ヴィルヘルミネの好感を得ておきたいと、青年は考えているのだ。


「おはよう、エルウィン」

「おはよう!? 夕方ですが!?」


 エルウィンは目を瞬いて、赤毛の主君を見つめている。けれどヴィルヘルミネは気にした素振りも見せず、「今日も暑いの」などとうそぶいていた。

 つい先程まで寝ていた令嬢は、時間の感覚がおかしくなっている。だがそれと悟られたら沽券に関わるので、先程の台詞を無かった事にしようと思ったのだ。でも誤魔化せない。


「ああ、もしやヴィルヘルミネ様は、仮眠をとっておいででしたか?」

「ふむ――……余は忙しいのでな。眠れる時に眠っておかねば」


 嘘である。昨夜は一人ボーイズラブ的な詩作に耽り、令嬢は寝不足だった。なのに朝、普通に起こされたから、昼食を食べたら眠くなってしまったのだ。結果、午睡ひるねをした。

 しかも午睡ひるねの最中に見た夢は、エルウィンとオーギュストによるボーイズラブな展開。超気まずくて、ヴィルヘルミネは目の前の青年と目を合わせることさえ出来なかった。


「なるほど……流石はヴィルヘルミネ様。公国の行く末を考え、片時も身の休まる暇がない――という訳ですね。これは邪魔をしてしまったようで、申し訳ございません」


 ぜんぜん違うが、エルウィンは丁重に頭を下げている。

 令嬢は重々しく頷き、目敏くエルウィンが抱える箱に着目した。細い眉を片方だけ上げ、愛らしい鼻をヒクヒクと動かしている。お菓子が気になるのだ。ちょうど小腹も空いていた。


「――構わぬ、卿も余の臣民だからして、して。で、今日は何であるか?」

「はっ、実はキーエフ帝国に不穏の動きがありまして、それが確たる情報であると確認が出来ました」

「む、む!?」


 令嬢は、くるりと背を向け頬を膨らませている。聞きたい話は、そんなことでは無かった。「今日は何のお菓子を持ってきたのか?」と聞きたかったのに。なので少しだけ臍を曲げてしまう。


 ――余にキーエフの動向など伝えて、どうするというのじゃ。そのようなこと、ヘルムートに全部任せておるわ!


 しかし今のヴィルヘルミネは、退屈を持て余していた。なにせ負傷したゾフィーは入院中だし、男子生徒であるイルハンとジーメンスは女子用の寄宿舎に入る権利さえ無いのだ。


 だったら自分から外へ出ればよいだけなのだが、元来が怠惰で怠慢な令嬢は絶賛引き籠り中。そうなると一日一回訪ねてくれるエルウィンは、いっそ救世主である。ましてや大好きなお菓子を持参してくれるとなれば、「狩られる」心配を考慮してもなお、尊い存在なのだった。


 という訳でヴィルヘルミネは侍女に紅茶を二つ所望して、玄関ホールにあるソファーにエルウィンと向かい合って座り、一日の報告を聞くことにした。

 だって話を聞かなければ、お菓子にありつけない。「ど畜生! このくそイケメン!」などと内心で憤慨する令嬢である。


「まあよい、聞こうか」


 エルウィンは侍女に菓子の入った箱を渡し、「マカロンだから、ミルクティーで頼むよ。君も一つ食べるといい」などと微笑みの爆弾を落としている。

 年若い茶髪の侍女が頬を紅色に染めて、厨房へと下がっていく。その最中、ヴィルヘルミネの双眸が煌めいて。


 ――今日はマカロンじゃな! よしッ!


 こうしてエルウィンは軍事の天才と称される令嬢に、キーエフの動向や公使の判断を伝えることとなった。


「……ふぅん、で、そのヴァレンシュタインとかいう将軍は、優秀なのか?」


 桃色で半球形をした美味しそうなマカロンを掴み、口へ運びながらヴィルヘルミネが問う。


「優秀どころの騒ぎではありません、ヴィルヘルミネ様。キーエフ軍随一の将軍であります」


 夜空色の真剣な瞳が、マカロンのおいしさに輝く紅玉の瞳と合う。ヴィルヘルミネは、そんなに見つめられると、マカロン食べにくいのじゃ……と眉を顰めていた。


「――で、あるか」


 所詮は茶飲み話としか思っていないヴィルヘルミネは、優雅に足を組み替え薄っすらと笑みを浮かべた。よく冷えたミルクティーは、ぱさつくマカロンに、ほんと合うの――などと舌鼓まで打っている。

 だがエルウィンは令嬢の反応を見て、これを戦意の高揚と受け取った。


「しまった! ヴィルヘルミネ様は軍事の天才。優秀な将軍と聞けば、戦いたくなって当然だ!」なんて思うから、エルウィンの背筋に冷たい汗が伝う。 


「ところでエルウィン、余はの、いつか聞いてみたいと思うておったのじゃが――卿の夢は何なのじゃ?」


 瞬間、ヴィルヘルミネの表情が変わった。彼女は茶飲み話に紛れて、今こそエルウィンの本心を聞こうと思ったのだ。かつて令嬢は、エルウィンは野心家なのだと聞かされていた。


 だが、ここ最近のエルウィンは、毎日お菓子を持ってきてくれる。令嬢の中で、「イイヤツ」判定がなされようとしていた。


 ――果たして野心家が、足繁くお菓子屋さんに行くものであろうか?


 令嬢は「甘い物大好きヘルムート」に全幅の信頼を置いているから、エルウィンが彼と同じなら安心できると考えた。とはいえ万が一違っていた場合、やっぱり狩られるから怖いのだ。


 ヴィルヘルミネは目を細め、声を潜めてもう一度問う。つまりエルウィンが何と答えるかで、今後の信頼の度合いを決めようというのである。


「――野心と置き換えても良い。卿はよくやっておる。だからの、その働きに報いるものを余が卿に与え得るかどうか、知りたくての。じゃがもしも答えられぬというのなら、余は――……」


 続く言葉は「超怖い」であったが、それを口にするのが「超怖い」ヴィルヘルミネは、じっとエルウィンを見つめている。

 ピンクブロンドの髪色をした青年は周囲を見回し、人の気配が無いことを確認してから口を開いた。


「僕は――……僕の夢は……」

「うむ?」

 

 エルウィンの頬に汗が伝ってしまうのは、夏の暑さのせいだけではなく。

 乾いた唾を嚥下して、ヴィルヘルミネが求める正解を、エルウィンは心の内へ探しにいく。


 己が野心であれば必然に、「王になる」と答えればいい。なんとなればエルウィンは、令嬢の望みを知っていた。彼女は間違いなく、「大陸制覇」を志向しているのだから(勘違い)。


 だから――エルウィンは思ったのだ。

 ヴィルヘルミネが大陸を制覇した時、そこには巨大な帝国が一つ出来上がる。ならば自分の王国が、中にあっても良いだろう、と。

 だったらまずは、大帝国の建設だ。これを夢と答えれば、最愛の主君と同じ道を歩めるはず。


 冷えた紅茶を一息に飲み干し、エルウィンは気合を入れる。そして彼は、ようやく言葉を紡ぎ出すのだった。

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