第84話 六日目の戦い 4
バルジャンは前方の敵影を眺め、固唾を飲んでいた。最初は逃げるつもりでダントリクを呼んだのに勝算を聞かされ、うっかりその気になってしまったのだが……。
しかしよく考えてみれば、これはどう考えても革命の帰趨を決する天王山。思わず飛び出た鼻水を、「ズズズッ」と啜る残念英雄なのであった。
――確かに勝てそうだが、この場面で勝ったら俺……一体どうなっちまうんだ?
敵は相変わらず背中を向けたまま、息を潜めて近づくバルジャン隊に気付いていない。それどころか果敢にフロレアル宮殿を攻め立て、勝利を確信しているかのようだ。奇襲するには、もってこいの状況である。
「なぁ、ダン坊。この戦いで勝ったら俺……どうなると思う?」
部隊と共に身を潜めて、そっと敵に近づきながらバルジャンが問うた。
「国王陛下をお救いし奉るんだから、勲功第一だべ。となると二階級特進して、准将ってとこだべか」
「……お、俺が、将軍に……!?」
「んだな。数年したら元帥――やがては国軍の総司令官だって夢じゃないべ」
「総司令官になったら、もう前線に出なくていいかな……?」
「そりゃ、前線は将軍たちに任せればいいんだから、大丈夫だと思うだが……」
「元帥になったら、嫁も来るかな?」
「そりゃ、俸給だって上がるべ。したら嫁もくるべさ」
「子供、三人出来るかな!?」
「そ、それはオラには分からねぇけんど、頑張れば出来るんでねぇか?」
「お、おお……そうか。やるぞ、ダン坊。俄然やる気が湧いてきたッ! ようし、いくぞ、いくぞ、いくぞッ!」
「ん、んだなや……」
彼我の距離は、二百メートルと迫っていた。これ以上近づけば、いくら闇の中にいて物音を徹底的に消しているとはいえ、敵に気付かれてしまう。ならばここから、一気呵成に突撃をするべきだ。その程度のことはバルジャンにも分かる。
つまり攻めるか退くかの分水嶺こそ、この地点であった。だからバルジャンは今、ダントリクに問うたのだ。この戦いに勝利すべき、自身の意義を。
もちろん今の会話で彼の気持ちは、攻める方向で固まった。
バルジャン隊は千二百の歩兵と三百の騎兵で構成されており、中央、右翼、左翼とも四百ずつの歩兵を配置している。後方に騎兵を置いたのは、突撃の際に加速する為の距離を考慮してのことであった。
「騎兵隊を突撃させろ」
「はっ」
バルジャンに命じられた部下が、ランプに火を付け立ち上がる。後方に向けてランプを持った腕を、大きく二回ほど回す。それが突撃の合図であった。
■■■■
騎兵隊長はバルジャンの命令を受け、馬に噛ませた木の板を外し、蹄に巻いた布を取り去るよう部下に命じた。粛々と為された行動の最中、部隊の誰もが心の中に一つのことを思っている。
――気付くなよ……。
うっかり英雄となり、今また薔薇色の未来を思い描くバルジャンも、この時ばかりは額に冷や汗を張り付かせ、祈るような気持で突撃を待っていた。
ここで気付かれれば、敵に決定的打撃を与えられない。攻撃が成功したとして、敵はすぐに陣形を立て直すだろう。そうなれば、周囲に散って宮殿を攻める味方を呼び戻すことも可能だ。
何しろ相手はシャップ大佐である。
彼はバルジャンが士官学校時代、教官だったこともある男であった。
――もう、七年も前になるのか。
バルジャンは当時を思い出し、思わず身震いをした。
シャップはヒョロリとした細長い体躯ながら剣も銃も良く使い、用兵においては隙が無い。奇策とはおよそ無縁であったが、だからといって搦め手が通じるような相手とも思えなかった。
「ダン坊……――相手はシャップ大佐だ。もし危なくなったら、俺のことは気にせず逃げろよな」
「なんで、そんなことを言うだか?」
「昔な、シャップ大佐は俺の教官だったんだ。で――あるとき模擬戦の教練でシャップ大佐が学年主席の相手をしたんだが、いとも簡単に蹴散らしていた。ちなみに俺は学年主席に手も足も出ず、あっさりと負けている……」
「模擬戦なんて、関係ないべ」
「ダン坊、模擬戦を馬鹿にしちゃ、いけないぞ……!」
バルジャンが珍しく、厳しい顔で言った。だがダントリクは指揮官と違い、口元に笑みを浮かべている。彼は敵がこちらに気付かないであろうことを、確信していたからだ。当然、そこから繋がる勝利も――である。
「大丈夫なんさ。風向き、天候、地形の状況、敵の状況、自軍の状況、双方の指揮官の資質、士気――これらを総合的に考えれば、これは勝つべくして勝つ
単身痩躯の少年は軽く眼鏡を持ち上げ、緊張した面持ちのバルジャンに言った。それを証明するかのように、後方から味方の騎兵が陣と陣の間をすり抜け、敵の後背へと突進していく。
「突撃ッ!」
「「「おおおおおおおおッ!」」」
騎兵隊長の声が響き、部下達が雄叫びを上げる。今まで隠れ、抑えていた戦意を爆発させたのだ。瞬間、馬蹄の轟きが大地を揺さぶった。
バルジャン隊の騎兵はサーベルを振りかざし、敵の背後へ猛然と襲い掛かる。
ダントリクが予想した通り風の流れが人馬の匂いを敵に近づけず、敵の凶暴性は欲望となり前方へ意識を集中させて、後方への警戒心を曇らせていた。
それに加えてバルジャン隊は体中に泥を塗るなどして闇に身体を溶け込ませていたし、敵は自ら焚く篝火に目が慣れていたせいで、背後から近づくバルジャン隊を完全に見落としたのである。
だからこそ突如として湧いた馬蹄の轟きと鬨の声にシャップ隊は慌て、混乱したのだ。
「――こんなところに敵がいる筈が無い」
当初、指揮官であるシャップすらそう思った。であれば並みの指揮官や一般兵に思考の空白が生じるのは、むしろ当然である。
「おい――なんなんだ?」
シャップ隊の最後尾にいた兵が不安を覚え、そう口にした瞬間――彼は迫りくる騎馬に踏み抜かれ、骨を砕かれ圧死した。隣にいた同僚は首を刎ね飛ばされて、血を噴水のように噴き上げている。
バルジャンの騎兵部隊が思うさまシャップの本隊を蹂躙すると、前進を開始していた戦列歩兵の射撃が始まった。シャップ隊は陣形の再編もままならず、混乱の内にある。
「まずは陣形を再編、立て直せッ! それから各大隊に伝令、集合させろ! 敵の数は千五百程度、味方が到着すれば、数の劣勢も覆るぞッ! 怯むなッ!」
流石にグスターヴが別動隊を任せるだけのことはあり、シャップは混乱の最中にあっても状況をすぐさま把握した。彼の下したこの命令が正確に実行されたなら、バルジャン隊は苦戦したかもしれない。
しかしシャップが陣形を再編しようと奮闘する最中、彼の側頭部に一発の銃弾が当たってしまう。流れ弾だ。即死であった。
お陰でシャップ隊は混乱を立て直すことが出来ず、バルジャンはこれを散々に蹂躙した。
「ようし、掃討戦に移るぞ」
などとバルジャンは言わず、ダントリクの立てた作戦計画通り、その後は各部隊を時計回りに潰していく。そのお陰で彼は後々の世まで名将と呼ばれ、称えられることになるのだ。
ちなみに「バルジャンの掃討戦」と呼ばれるこの戦いは後世の創作によって、残忍なシャップをバルジャンが一騎打ちで打ち破った――ということになっている。
そのことを本人が知ったら、「いや、その――まあ、そうだがな……ちょっと大変だった」とでも言って照れ臭そうに笑いつつ、それでも否定はしないであろう。
世に言うランス三英雄の一人マコーレ=ド=バルジャンとは、そういう男なのであった。
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