第82話 六日目の戦い 2
血の一週間と呼ばれる惨劇の六日目も、終わりが近づいていた。
空は分厚い雲に覆われ、月はおろか星の一つさえ見えない闇夜のこと。グランヴィルの街は赤々と松明の灯りに照らし出される中央一区と、闇に飲まれたそれ以外の区画とに大きく二分されていた。
宮殿に至る隠し通路は、五区の兵舎と繋がっている。
闇に飲まれそうな五区には幾つかの街路があり、並んだ街灯の小さな明かりが、闇夜に僅かばかりの抵抗を見せていた。
そんな中、薄明りにボンヤリと浮かび上がるのは、昼間の暴動で破壊された家屋や打ち捨てられたままの死体など。これを野犬や野良猫が食らう様は、地獄の様相を呈していた。
ゾフィーは死体を食らう野犬を一瞥すると、血に塗れた街路を一個中隊二百名と共に駆け抜ける。
彼女の前には均整の取れたアデライードの背中があり、それがゾフィーの目には自信と勇気に満ち溢れたものに見えていた。
――いつか自分も、あんな風になれるだろうか。
そう思った時、ゾフィーは舌打ちしたい気分になった。心の片隅にあるアデライードに対する憧憬が、許せないからだ。
しかし彼女の知勇が自分よりも優れていることは、認めざるをえない。だからこそゾフィーはアデライードに勝つための努力をするし、今もその背中を追っているのだった。
■■■■
十九時四十分――マルス広場に集まった群衆とヴィルヘルミネに従った群衆が睨み合う中、生暖かい風が血の匂いを孕んでエルウィンの鼻を擽っている。
間もなくヴィルヘルミネが定めた作戦開始の時刻だというのに、不愉快な匂いを嗅いだ美貌の青年は、気を散らされてしまった。
エルウィンの眼前には闇夜に対して挑戦するかのように、多くの篝火を焚くグスターヴ軍が見える。
正確に表現すれば、それはグスターヴ軍と合流した革命派の民衆であった。
グスターヴは巧妙に自部隊を後方に下げ、前線を市民に守らせている。
一方ヴィルヘルミネ側は主力を群衆の中に混ぜ込み、作戦開始と同時に突出させ、戦端を開くのが目的であった。
もっとも敵は先程から、執拗にヴィルヘルミネ側への挑発を繰り返している。どうやら彼等としても、戦端を開きたいようだった。
「赤毛の小娘、出てこい!」
「我等の革命を邪魔をするな!」
この程度の挑発であればエルウィンも聞き流せるのだが、ときどき耳を疑うような罵詈雑言も混ざっていた。
「赤毛の小娘は、国王の愛人に成り下がったのか!」
「フェルディナントの売女め!」
このような言葉が聞こえてくると、ヴィルヘルミネを愛してやまないエルウィンの額に青筋が立ってくる。お陰で令嬢が命じた作戦開始時刻を無視してでも、眼前の敵を蹴散らしたくなるのだった。
とはいえ、そんなことをしたら作戦が台無しである。だからエルウィンは歯を食いしばり、必死で自制した。そこへ血の匂いが風に乗り流れてくるのだから、つい気が散ってしまうのも仕方がないことである。
エルウィンは、「冷静になれ」と自分に言い聞かせながら懐中時計を取り出し、二十時を確認した。
「攻撃開始ッ!」
エルウィンの号令に応じ、味方の射撃が始まった。といってもバリケードの陰に身を隠しながらの銃撃なので、敵に対して決定的なダメージは与えられない。あくまでも、威嚇の域を出ない攻撃であった。
敵も反撃してきたが、やはりそれもバリケードの内側からであり、双方共に様子見といった雰囲気である。思うように敵は突出しなかった。
これでは、エルウィンの目的は達せない。彼の任務は前線で両軍が全面衝突したかの如く、グスターヴに思わせることである。
そこでエルウィンは巧みに味方を突出させ、敵の群衆を引きずり出しては味方の群衆に叩かせた。用兵の妙というより詐術に近いやり方ではあったが、ともかくこれが両軍に変化を齎していく。
何しろ敵は俄か仕込みの民兵であり、多くが群衆だ。戦争に慣れていない。
一方エルウィンは少数とはいえ、フェルディナントの精鋭を率いていた。もちろん群衆も率いているが、前進して攻撃を仕掛けるのは、訓練を積んだ軍人の仕事である。そして彼等が後退した先には血の気の多い群衆が待ち受け、石を投げる、というやり方だ。
これならば味方の群衆に被害は出ないし、敵に一方的な出血を強いることが出来る。こうして二十時二十分には双方の損耗率の差が顕著に表れ、敵の中に焦りが目立ってきた。
そもそもグスターヴと合流した群衆の願いは、革命によって職やパンを得ることである。その為に戦うと言ったところで、「じゃあ今死ねるか」と問われたら、戸惑って当然なのだ。生きる為に革命に参加したのに、それが死を招くとあってはたまらない。
ましてや銃撃音は人間の心に、根源的な恐怖を植え付ける。轟音と悲鳴が一つのセットになり死を招くのだから、それも当然であろう。
こうした恐怖に打ち勝つ為に精神を鍛え、軍人は銃を手にして戦うのだ。だからこそ、そうではない民衆が怖れ慄き、混乱するのは自明の理なのだった。
エルウィンはこうした敵の動揺を見て取り、すかさず声を上げる。
「お前達は
暫くすると敵からの銃撃が収まり、返答があった。
「……ほ、本当か!? 武器を捨てれば、許してくれるのかッ!?」
「本当だ! 武器を捨てて投降するなら、これ以上の危害は加えないッ!」
ヴィルヘルミネを愚弄されたことは心底不快だが、敵を説得出来るなら、その方がいい。そうなればグスターヴも慌てて予備兵力を投入してくるだろう。
敵の本営にいる兵力が減れば必然的に背後から迫るアデライード達が楽になるのだから、エルウィンとしては何とか説得したいところであった。
しかし何時まで経っても敵が投降してくる気配は無く、代わりに銃声が響き渡る。それと同時に苛烈な敵指揮官の命令が轟き、エルウィンは眉を顰めるのだった。
「敵に降ろうなどと考える輩は革命の敵だ! 武器を捨ててみろ、その時点で俺が殺してやるぞッ! さあ進め! お前達には前進しかないのだからなッ!」
エルウィンの眼前に、恐怖で顔を歪めた敵が飛び出してくる。味方に殺されるよりは敵に殺される方がマシだと、覚悟を決めたのだろう。
ピンクブロンドの髪色をした青年は額に手を当て顔を左右に振ったが、呆れている時間は無い。
「迎撃せよッ! 迎撃しつつ後退! 第二防衛線まで退き、敵をクロスファイアポイントまで引きずり込むッ!」
正直なところエルウィンは相手が群衆と言うこともあり、こうした戦術を駆使したくはなかった。そしていかに戦術を駆使したところで、こうなってしまえばただの殺し合いに成り下がる。
所詮この場にいる軍人は少数で、大半は民衆なのだ。指揮官の命令が届かなくなるのは、時間の問題であった。
むろんこれを計算に入れて、ヴィルヘルミネ軍は作戦計画を立てている。
グスターヴの目を前線に引き付ける為には群衆を参戦させ、互角の戦いを演じるしか方法がなく、為にエルウィンはあえて最初に少数で攻撃をしたのだ。まずは敵を引きずり出し、味方には勝利を齎し血に酔わせる。そうすれば、自ずと群衆同士の全面衝突になるのだから。
エルウィンには、このような戦法に忸怩たる思いがあった。だからこそ群衆同士の激突を避けつつ、グスターヴ軍にこちらの攻撃が本気であると認識させる為の手を打ったのだ。
しかしそれを敵の指揮官が、台無しにした。ピンクブロンドの髪色をした青年は不快感に表情を歪めたが、こうなっては致し方ない。当初の作戦計画通り、ことを運ぶのみである。
なおヴィルヘルミネは現時点で、「群衆同士が激突していれば例えアデライードが作戦に失敗して戻ってきても、どさくさに紛れて逃げられるのじゃ」――という風にしか考えていない。
群衆同士が激突した場合、どれほどの流血があるのか理解していなかったのだ。要するに想像力が希薄な、お子様だったのである。
とはいえ国王派となった群衆は、過激なグスターヴに付いた群衆に対して最初から敵意を抱いていた。だから結局のところ、遠からず双方は激突していただろう。従ってエルウィンはタイミングを調整しただけだと、言えなくもない話ではあったのだ。
しかしこの激突こそ「血の一週間」のフィナーレを飾るに相応しい、鮮血で彩られることとなる。これを革命の通過儀礼とするには、余りにも多すぎる血が流れるのだった。
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