第62話 ユセフとジーメンス 


 初夏の陽光が煌めく中、過酷な訓練を終えたイルハンとジーメンスは寄宿舎へと向かっている。早く水浴びでもして、座学の予習復習に励もうと思っていた。

 次の中間試験で相応の成績を修めねば、フェルディナントの恥となってしまう。それだけは避けたいのだ。


 が、しかし――先を急ぐ二人の耳に、「ぐぇ」とカエルが潰れたかのような悲鳴が聞こえてくる。声がした方へ顔を向けると、どうやら校舎の裏側からであった。

 

 何気なく足をそちらへと向けたイルハンの肩を、ジーメンスが掴んでいる。


「校舎裏で何が起こっていようと、関係の無いことだろう? それよりもボク等の成績によっては、ヴィルヘルミネ様のお顔に泥を塗ることとなる。それを考えれば一秒でも長く、勉強をするべきじゃあないのかね」

「関係あるか無いかは……見てから決める。それに成績に問題があるのは、ジーメンス……お前だけだ」

「はぁ~~~……言ってはいけないことを言ったね、キミは! もう勝手にしたまえ! 何があっても知らないからなッ!」


 額に手を当て、呆れたように首を振るジーメンス。


 イルハンは気にせず、足を先に進めた。整地されていない校舎裏は凸凹とした土と砂利で、建物の影だからか薄暗い。すえた匂いさえ漂っているようだ。

 側には高い壁も聳えているから真下から見ると、まるで監獄の中にいるような錯覚さえ覚えてしまう。こんなところで悲鳴が聞こえてくれば、それはもう、まともな事態であるはずが無いのだ。


 そうして目的地に辿り着いたイルハンは、「やはり、ろくな事じゃあない……」と口の中で呟いて……。


「歩兵ってのはなぁ、痛みに絶えなきゃあいけないモンだ。撃たれれば痛いし、銃剣で刺されても痛い。馬に踏みつぶされたら最悪だし、砲弾を食らえば手足だって吹き飛んじまう。

 だーかーらー、こうしてお前に、馬に踏まれる練習をさせてやってるってワケよぉぉぉお! なぁ、ダンドリクゥゥ!」


 校舎の裏ではダントリクが顔をグリグリと足で踏まれ、呻いていた。相手は十人ほどいて、明らかな多勢に無勢である。

 そのうえリーダー格のクリュール=ド=クートンは、イルハン=ユセフと同じくらい大きな少年。それではどう考えても、ダントリクに勝ち目など無かった。


 この状況でもイルハンは、ヌッと大きな身体を校舎裏へと滑り込ませていく。それからダントリクを囲む十人を順に見て、肩にのせている上着を手に持った。

 厚手の布を使うことは、祖父に教わった奴隷格闘の基本である。

 

 とはいえイルハンに現時点で戦う気は無く、これは、あくまでも備えだった。

 もっとも全ては相手の出方次第だし、弱い者虐めを彼は好んでいない。であれば対立する可能性の方が高いのだが……。


「おやぁ、誰かと思えば奴隷のユセフ君じゃあないか。君もダントリク君の歓迎式典に参加したいのかな?」

「歓迎……だと? クートン……これは、どう見ても虐めだろう?」

「まさか! これは歩兵科に編入したダントリク君に、歩兵の厳しさを教えつつ、親睦を図っているだけだよ!」

「だったら、お前も同じ目に遭ったらどうだ? クートン」

「なんだと……栄えある侯爵家の、この私に地べたを這えと? 奴隷君、君は何か勘違いをしていないか?」

「勘違い、だと?」

「ああそうさ、大いなる勘違いだ……!」

「ちょっと、何を言っているのか分からない。ご教授……願えるか?」


 クートンの頬がピクピクと動いている。不快感に顔を歪め、彼はダントリクの顔に乗せていた足をどけた。


「あのなぁ、奴隷。そもそも貴様ごときが、この私に意見などして良いと思っているのか? ヴィルヘルミネ様の奴隷だと思えばこそ見過ごしてやっていたが……もう我慢ならん、その身に身分の違いというものを、しっかりと教え込んでやるぞ!」

「そうか……そういう話なら分かりやすいな。よし、さっさと来い」


 イルハンの浅黒い顔に、不敵な笑みが浮かんだ。それと同時に、クートンの両目が憤怒の色に染まる。


「き、きき、貴様……やれ、お前ら! この奴隷を、足腰立たなくなるまで痛めつけてやれッ!」


 ■■■■


「勝手にしたまえ」と言ったものの、ジーメンスは一人で寄宿舎へ帰るのもどうかと思っていた。

 これで揉め事にイルハンが首を突っ込んでしまった場合、どうして一人で逃げたのかと、ゾフィーに怒られてしまいそうだったからだ。


 ――ゾフィー様がお怒りになるということは、ヴィルヘルミネ様も怒るに違いない。それはそれで、困るのだからね!


 なのでジーメンスはこっそり校舎の裏へ向かい、そっと顔だけを出して大乱闘を見つめていた。


 ――ああ、なんてことだろう。やっぱりユセフのやつ、問題事に首を突っ込んでしまったよ! しかもズッポリとね!


 とはいえ、イルハン=ユセフの強さはジーメンスもよく知るところ。横たわっている少年がダントリクであることを確認し、彼が一切戦力にならないことも分かったが、それでもユセフが負けるとは思えない。


 ――ユセフなら大丈夫だろう! まあ、せいぜい頑張りたまえよ!

 

 そんな訳でジーメンスは、暫く事の成り行きを見守ることにした。


 ■■■■


 イルハン=ユセフは最初に飛び掛かってきた二人の顔を右手と左手で掴み、鉢合わせて打ち倒した。

 次の相手は多少腕に覚えがあるのか、右に左にと身体を揺すり、拳闘の構えを見せている。

 だが敵が拳を突き出してきた瞬間、自らの腕に絡めていた上着を相手の腕にも絡め、そのまま投げ飛ばしてしまった。


「――三人」


 ジロリとクートン達を睨みながら、イルハンは敵の腕に絡んだ上着を捥ぎ取った。


「か、囲め! それから人を呼べ!」


 クートンが慌てて命令を発し、手下の一人が駆けていく。残った五人はイルハンを囲み、じりじりと輪を狭めていった。

 そのうちの一人が腰から拳銃を出した瞬間――ドウッとその少年が地面へと倒れ込む。


「け、喧嘩に拳銃はイカンよ、キミィ!」

「……ジーメンス、やはりいたか」


 軽く口を開き、そのあとほほ笑むイルハン=ユセフ。

 彼の後ろで拳銃を構えようとしていた少年を、見事な上段回し蹴りでジーメンスが倒したのだ。


「ああ、もうッ! ああ、くそッ! ユセフ――ダントリクを助けるつもりなら、なぜ彼を抱えてさっさと逃げなかったのかねッ! キミが時間を掛けているから、こうしてボクまで巻き込まれてしまったじゃあないかッ!」

「……しかし」

「しかしもお菓子も無いのだよ、ユセフ! すぐにもっと多くの人数が集まる! であるならば、ここは戦略的撤退の一択しかないのだよッ!」

「ふぅ……またか、ジーメンス。お前といると、いつも逃げてばっかりだ……」

「それは全部、キミのせいだろう! いつもいつも勝てない人数を相手に挑んで! いい加減、ボクの身にもなってくれたまえよッ!」


 ボソボソと何かを言いかけたイルハンだったが、確かにこれ以上の人数と戦うなどゴメンだ。気絶してしまったダントリクを肩に担ぐと、彼等はさっさと逃げだしていく。


 それは丁度クートンが更に仲間を集めたところであり、三人の後を三十人にも膨れ上がった歩兵科の面々が追いかけてきた。


「……ジーメンス、何か策は?」

「策なんてある訳がなかろう!」

「じゃあ、ヴィルヘルミネ様にご助力頂くか?」

「そんなの、ダメに決まっている! どうして護衛で従者のボク達が、あの方にご迷惑を掛けられるというのだね!?」

「まあ、それもそうか……じゃ、戦うのは厳しいな」

「そういうことだよ、やっと分かったかね!?」


 言い合いをしながら逃げている最中、イルハンの肩でぐったりとしていたダントリクが目を覚ます。


「あ、あの……オラのせいで申し訳ねぇ……。でも二人なら、あいつ等と戦えるんでねぇか?」

「無茶を言わないでくれたまえ、ダントリク! 相手は三十人以上いるのだよ!?」

「んだども、場所を変えれば有利に戦えると思うだが?」

「場所?」

「んだ……オラ、殆ど意識は無かったけんど、二人の強さ、チラっとみたさ。んだば一対一で戦えば、絶対負けねぇべ? 銃も、人目がある場所じゃあ流石に使わねぇと思うんさ」

「うん、まあ一対一ならイルハンは負けないが、奴等と一対一で戦える場所など、どこにあるというんだね!?」

「いや、ジーメンス君も戦わねば、流石に厳しいべ……」

「それはマジかね!? ああ、嫌だ嫌だ……とはいえ状況が状況、仕方がない……で、ダントリク、それはどこなのだね?」

「うん。いくつか候補があるだども、ここから一番近いのは――……」


 そうしてダントリクが提案をすると、ユセフとジーメンスは顔を見合わせ頷くのだった。


「ジーメンス……まあ、こんなところで逃げるだけ、という方がゾフィー様には叱られると思うぞ」

「はぁ……分かった。一つ貸しだ、いつか返したまえよ!」

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