第45話 宰相のトルテ 7

 

 ヘルムートは額に手を当て、掛かる前髪を軽く払う。外は生憎の雨であった。窓にはいくつもの雨粒がぶつかり、雫となって落ちていく。


 黒髪紫眼の宰相は、現在二十二歳。一方ヴィルヘルミネは九歳で、その差は十三歳だ。現時点での年齢差を考えれば恋人になるなど、あり得ることでは無い。


 しかし彼女の気持ちがあと四、五年持続するならば、話も変わってくる。

 何しろ十三、四歳で嫁ぐ貴族の令嬢は数多いるし、その相手の年齢を考えたとき、十三歳差というのは、よくあることだった。


 そして四、五年も経てば否応なくヴィルヘルミネにも縁談の話が舞い込んでくるだろう。当然彼女のこと、政略的な意図を抜きにして結婚は語れない。

 だが現在も未来もヴィルヘルミネはフェルディナントの絶対者だ。となれば彼女は夫を迎えざるを得ないだろう。


 その時、彼女以上の地位にある者は望ましくないのだ。となれば平民であっても公国宰相であるヘルムートは、彼女の夫足り得る資格が十分にあると言えた。


 不意にヘルムートは、自分の腰に抱き付くヴィルヘルミネの柔らかな香りを思い出す。

 彼女は入浴時、いつも薔薇の花びらを大量に浮かべていた。そのせいか、赤毛の令嬢からは常に薔薇の香りが漂っているのだ。


 ――ヴィルヘルミネ様が私の妻に? そんな馬鹿な、まだ子供じゃないか。


 窓の外の雨粒を眺めながら、ヘルムートは否定の言葉を口の中で並べた。しかし同時に、ヴィルヘルミネが誰かの妻になる姿を想像するのも苦しい。彼は頭を振って自らの思考をもう一度、一から構築することにした。


 ――私は平民であり、あの方とは釣り合いが取れない。しかし当のヴィルヘルミネ様が、私のことを好きだと仰るのならば……あるいは……。

 だが、それもずっと私が家庭教師として支えてきたから、色々な感情が混ざっているだけではないのか?

 

 考えが纏まらない。

 ヘルムートは頭を抱え込みたかった。

 

 まだ九歳のヴィルヘルミネに対し、恋心を抱いているわけではない。

 冷静に考えれば、彼女をどこの馬の骨ともわからぬ輩に渡したくない――という父親のような心情とも言えた。


 ともあれヘルムートは心の葛藤を押し戻し、再びヒルデガルドに向き直る。


「冗談を、言うものではありません。思わず動揺してしまいました」 

「冗談じゃありません。根拠だってありますよ」


 そういってヒルデガルドは、ヴィルヘルミネが食堂へ来た時から昨日の事までを事細かに話し、彼女が自分をヘルムートから遠ざけようとしているのだとしたら、それで辻褄が合う――との説明をした。


 ■■■■


 ヘルムートとしては俄かに信じがたいことだが、ヒルデガルドの話で辻褄が合うことは認めざるを得ない。それに思えばヴィルヘルミネが腰に抱き付くのは、基本的にヘルムート一人だった。

 もちろんこれにはヴィルヘルミネなりの理由があるのだが、そんなことをヘルムートは知る由もないのだから。


 まずトリスタンは以前に抱き付いたら、鼻が曲がる程臭かった。なのでそれがトラウマになり、今となっては抱き付けないでいる。


 エルウィンはピンクブロンドの髪がパリピっぽいので、何となく抱き付きたくない。それに彼のヴィルヘルミネを見る目は異常だ。なので赤毛の令嬢は幼心に、恐怖心を覚えていた。

 それはエルウィンがヴィルヘルミネに恋心を抱いているので仕方が無いのだが、令嬢は自分が好かれるなど思いもよらないこと。なので「狩られる!」という不安が先に立つのであった。


 ハドラーの場合、後ろからよじ登るのが好きなので、正面から抱き付くことは無かった。というか大体ヴィルヘルミネが父を見舞う場合、ハドラーにおんぶして貰っていることが殆どだ。

 ハドラーも令嬢をおんぶするのが嫌いではないので、彼女がよじ登ってくることを、特に止めることは無い。


 ニコラウスは「妻がいる」とのことで、一応だが遠慮している。「不倫はいけない」と幼心に固く自分を戒める、律儀なヴィルヘルミネであった。


 ロッソウは抱き付こうとすると、凄まじい反射神経で先に頭を撫でられてしまう。なのでどうにもこうにも、抱き付くことが出来ないのだ。


 最後にリヒベルグだが、彼の反射神経も中々のものだった。抱き付こうとすると、華麗に躱されてしまう。いつか抱き着いてやろうと狙っているが、中々隙の無い男なのであった。


 なので消去法によりヴィルヘルミネにとっては、ヘルムートが一番抱き付きやすい――という次第なのである。


 だがしかし、ヘルムートはヒルデガルドの話から、ヴィルヘルミネの気持ちを完全に誤解してしまう。まさか令嬢がハドラーと自分をくっつける為に二人の仲を引き裂こうとしたなどと、夢にも思わなかったからだ。


 ■■■■


 こうしてヒルデガルドは巨大な爆弾をヘルムートへ落とし、公宮を去った。

 その数年後、彼女は念願の店を出し、バルトライン一と呼ばれる菓子職人となる。


 その店には毎週、宰相閣下がチョコレートトルテを買い求めに来たという。そのことから後にチョコレートトルテはフェルディナントにおいて、「宰相のトルテ」と呼ばれるようになった。




 ヒルデガルドが公宮を去って暫くすると、どこからか、ヴィルヘルミネは宰相ヘルムートに恋をしている――との噂が立ち上った。

 それはバルトラインのお菓子屋さんに端を発し、噂好きの女性たちによって、瞬く間にフェルディナント中に広まったのだが……。


 もちろん当時のヴィルヘルミネは、まだまだやんちゃ盛りの九歳である。その噂がスキャンダルになるようなことは無かった。

 しかしヴィルヘルミネはこれを必死で否定し、愕然として「なんでじゃーー! どうしてじゃーー!」と騒いだという。


 特に赤毛の令嬢はハドラーに対し、弁解じみた言動を繰り返した。このことから一時は、「もしかしてラインハルト=ハドラーが本命か?」との噂も広まるなど、公宮に一人ヴィルヘルミネによる恋の花が咲く。

 

 だがしかし、令嬢の意図は推しカプの仲を引き裂く魔女を遠ざけること。だというのにこれでは、ミイラ取りがミイラになるようなものである。なので彼女は半狂乱になり、部屋に閉じこもってしまうのだった。

 

「うう……なぜ余が、こんな目に遭うのじゃ……」


 毛布を頭からかぶり、背中を丸めて呻く赤毛の令嬢である。これこそまさに因果応報――悪事を働けば、相応の罰が天から下されるというものだった。

 しかし周囲の大人たちはこれを照れ隠しと受け取り、暖かい目で彼女のことを見るだけだ。


「九歳ともなれば、周りの大人に憧れの一つも抱こうというものよ」などと言って。

 

 もっとも、これがきっかけでヘルムートは日々成長を続けるヴィルヘルミネを、女性として意識するようになってしまう。

 そうして彼女が十六歳になる頃には、完全にポンコツ令嬢の虜になる黒髪紫眼の宰相閣下なのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る