第44話 宰相のトルテ 6


 ヴィルヘルミネに再就職先を斡旋して貰った翌日、ヒルデガルドは朝から弟を出迎えて、食堂の料理長に挨拶をした。


 料理長はむっつりと頷き「元気でな」と、彼女の肩を叩く。規則は規則とはいえ、真面目に働くヒルデガルドは、貴重な戦力であったのだ。


「短い間でしたけど、お世話になりました」

「こんな結果になったが――お前が良い菓子職人になることを祈っている」

「はい! ありがとうございます!」

 

 ぺこりと大きくお辞儀をして、ヒルデガルドは食堂を後にした。


 それからヒルデガルドは弟に公宮を案内すると、いくつかの気を付けなければならないことを伝え、男子寮の前で彼に別れを告げる。弟には弟で準備があるし、自分も自分で、やらなければならない事があるからだ。


 ヒルデガルドは女子寮の自室に戻ると、荷物を一纏めにしたトランクケースを横に置き、窓の手前にある机の前に腰かけた。それから一通の手紙を書き、部屋の中央にある丸いテーブルの上に乗せる。それは同室の女の子に対する、別れの手紙であった。


 それが終わると昨日買ってあったパンで昼食を済ませ、時間を見計らって宰相の執務室へと向かう。

 そこは警備も厳重であり、通常であれば一般人が立ち入ることの出来ない場所だ。しかしヘルムートが気にかけてくれていたお陰で、ヒルデガルドは通行証を貰っていた。


「何かあれば、いつでも来てください。あなたが規則を破ったのは、私の責任でもあるのですから」


 ――といってもヒルデガルドが通行証を使うのは、今日が最初で最後になるのであろうが……。


 そうしてヘルムートの執務室へやってきたのだが、彼はすごぶる忙しい。約四十分ほども待たされ、二時に近くなってから、ようやくヒルデガルドは宰相の執務室へと招かれた。


「――申し訳ありません、ランスとの国境で小競り合いが起きまして。その対策の為に、軍務卿と話し合っていたものですでから」

「あ、私の方は暇ですし、大丈夫です。それより、国の大事を私なんかに喋っても大丈夫なんですか?」

「問題ありません。かの地を統括する旅団長は、リヒベルグ准将です。軍務卿の命令書が届くころには、問題を解決していることでしょう」

「そ、そうですか。リヒベルグ准将が……あの……やっぱりシュレーダー閣下は、凄い方なんですよね。准将閣下に命令書を送るんですから。それが私なんかの為に……ごめんなさい」

「いえ――いつでも来て下さいと言ったのは、私の方です。それなのにお待たせしてしまって、こちらこそ本当に申し訳ありません」


 書類の束を机に置き丁寧に謝罪するヘルムートの姿に、思わずヒルデガルドは頬が赤くなるのを感じた。

 昨日ヴィルヘルミネがヘルムートのことを好きなのではないかと疑ったのは、彼女の方こそ彼のことが気になっていたからである。


「さ、座って下さい」


 ヘルムートは応接用のソファーへヒルデガルドを促し、秘書官に紅茶を二つ持ってくるよう指示を出した。

 ヒルデガルドは緊張に顔を強張らせつつも着席し、紅茶がテーブルに置かれるのを待ってから口を開く。


「公都の有名店で働けるよう、ヴィルヘルミネ様が計らって下さいました。それに弟もこれから食堂でお世話になります。だから私はこれで、お暇させていただきますね――宰相閣下」

「そうですか。良かった――と言えるのかは微妙だけれど、夢も仕事も失わずに済んだのは何よりです」

「はい、むしろ夢に近づきました。そのうえ弟がこちらで働かせて貰えるんですから、家族で得られるお金だって増えますし、本当にヴィルヘルミネ様には感謝しても、しきれません」

「一時はどうなることかと思いましたが、流石はヴィルヘルミネ様ですね」


 紅茶を飲み、ヘルムートが感慨深げに頷いている。しかし、その姿を見てヒルデガルドは思わず涙ぐんだ。もう彼に会えないのだと思い、感情が高ぶったのだ。


「――でも、これでもう閣下にはお会い出来ないかと思うと……私っ!」


 ヒルデガルドは自分とヘルムートを引き離そうとしているヴィルヘルミネのことを考え、声を詰まらせた。しかし、そのような事情を一切知らないヘルムートは、微笑を浮かべて彼女を慰める。


「そんなことはありませんよ、ヒルダさん。私はあなたが働くお店にお菓子を買いに行くつもりですし、あなたがお店を出したなら、それこそ真っ先にチョコレートトルテを買うつもりでいます」


 優し気なヘルムートの表情に、ヒルダはドキリとした。

 考えてみれば、ヴィルヘルミネはまだ九歳。たとえ彼女がどれほど望んでも、ヘルムートの心を射止めることは出来ないだろう。


 でも自分は?


 自分ならお菓子作りも得意だし、容姿だって悪くはないはずだ。

 それにヴィルヘルミネは大貴族で、自分は平民。だけどこれも、当のヘルムートが平民なのだから、自分の方が有利なのではないかとヒルデガルドは考えた。


 ――今を逃したら、ずっと言えない。それに今なら、ヴィルヘルミネ様よりも私の方が有利だ。


 そう思えたからヒルデガルドは勇気を振り絞り、声を出す。少し震えて、掠れた声だった。


「あの――シュレーダー閣下。あの、その……す、好きです。だから、たまに……、何ていうか……、会ってもらえたら、い、いい、忙しくない時でいいんですけどっ……! お、お菓子とか、関係なくですっ!」


 ■■■■


 ヘルムートはきょとんとした表情で、目の前の少女を見つめている。学生の頃は、こういうことが偶にはあったな――と思い出していた。

 むろん彼も朴念仁ではない。十代の頃に紡いだ青春のページには、女性の文字だっていくつか見つけることが出来た。


 しかしヴィルヘルミネの家庭教師となって以来、この手のことは初めてだ。それはいつも赤毛の令嬢が傍にいたからであったし、それで良しとしている自分もいた。


 では令嬢が自分の恋人になり得るかと言えば、それは否だ。

 まず年齢が違うし、身分が圧倒的に違っていた。平民と公爵令嬢では、蟻と象ほどの差があるだろう。

 それなら自分は、誰かと恋仲になっても良いのだろうか。


 ふと、ヘルムートは考えた。


 ヒルダのことは、好きか嫌いかで言えば好きだ。美しい少女だしお菓子作りも上手い。性格も上々だし、宰相の仕事にも理解を示してくれている。

 だがヘルムートの脳裏には、やはり勝ち誇った赤毛の令嬢の顔がチラついた。

 

 だから苦笑を浮かべつつ、ヘルムートはこう答える。


「ヒルダさん、あなたの気持ちは嬉しく思います。私も、あなたのことが好きだ」

「……じゃあ!」


 ヒルデガルドの表情が、大輪の花を思わせる笑顔となった。しかし次の瞬間、しょんぼりと項垂れる。ヘルムートの言葉に、続きがあったからだ。


「――でも、あなたの気持ちに応えることが、私には出来ない。たまに会うとしても、それは友人としてです。何故なら私はヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントという人に全てを捧げている。そんな男を恋人にするのは、女性にとって不幸なことだからです」


 ヒルデガルドの両目から、ポロポロと涙が落ちた。


「そんなにヴィルヘルミネ様が、お好きなんですか?」

「好きだとか嫌いだとか、そういう話ではありません。ただ、あの方の為に全力を尽くしたいと――そういうことです」


 ヒルデガルドは涙を拭い、笑顔を見せる。ヘルムートから見ても無理をしていることが明白な程に、その笑みは引き攣っていた。


「なぁーんだ! 結局シュレーダー閣下とヴィルヘルミネ様って、相思相愛なんですね!」

「相思相愛? ヒルダさん、私の話を聞いていましたか? 私はヴィルヘルミネ様の為に全力を尽くそうというだけで……」

「じゃあ、ヴィルヘルミネ様の片思いってことですか?」

「は? いや――それは、どういう意味ですか?」

「だから、ヴィルヘルミネ様は宰相閣下のことが好き――って意味です。あーあ、良いですね、年の差! 身分差! 両方超えちゃってください、応援しますからッ!」

「いや、そんな……ばかな……彼女はまだ九歳で……私は……」


 ヘルムートの手から紅茶のカップがずり落ち、ガチャリと床に当たって割れる。彼はそのまま立ち上がり、フラフラと窓辺に寄っていくのだった。

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