第37話 ザクセン会戦 7
ハッセル伯を掌の内で転がし、六百の兵を動かしたリヒベルグは密かに決意を固めていた。それはヴィルヘルミネに勝利を齎し、旧態依然としたフェルディナントを破壊する――という決意である。
無論その結果として自らが死しても、彼に悔いるところは無い。何故ならリヒベルグという男は心に大きな虚無を抱えており、その埋め方を知らないからだ。むしろ目的を達して死ぬのなら本望であった。
もともと
当時ランスで流行りつつあった「人は皆平等である」という思想が、フェルディナントの片田舎まで流入していたのだ。
とはいえ、リヒベルグも貴族の隠し子である。平民と言っても
だからこそ時代の流れに敏感だったことは、その弊害と言えるのかも知れない。
十歳になるとリヒベルグは、ランスの幼年学校へ入った。すっかり平等思想に染まった彼は封建国家であるフェルディナントから出ようと、密かに決心したからだ。
軍人として身を立てるならば、平民であっても士官として採用してくれる国はいくらでもあった。といって共和制の国は、数える程しかなかったが。
そんなリヒベルグに転機が訪れたのは、ランスの幼年学校で過ごしていた十二歳の時であった。ある日、使者がやってきて、父を名乗る男からの手紙を彼に渡したのである。
手紙には簡潔に、こう書いてあった。「嫡子が死に、家の跡を継ぐ者がいなくなった。妾腹の子であるが、そなたを跡継ぎにする」と。
そこで初めてリヒベルグは、自身が領地持ちの貴族の子息であると知った。自分があれほど嫌っていた特権階級に、何と自らも属していたのだ。
仲間達に手紙を送り相談を試みたが、どれも見事な社交辞令を並べた返事であった。つまり彼は欲しくも無い権利を手に入れ、友を全て失ったのだ。
どうしようもなく憤慨し、父の申し出を断ろうと思った。
だが当時病床にあった母が喜んでいた為、リヒベルグはこれを受け入れてしまう。全ては今まで育ててくれた、母への恩返しのつもりであった。
そうして彼は男爵家の門を潜り、その嫡子となったのだ。
しかし母が屋敷に招かれることは、生涯なかった。というのも――リヒベルグが十四歳の時、ついに他界してしまったからだ。
さらにリヒベルグが士官学校を卒業すると、父もあっけなく世を去ってしまう。そのまま彼は男爵家を継ぎ、名実ともに貴族となった。
だが母の為に受け入れた自分の地位に、もはや意味も価値も感じない。といって
「……つまらん」
だから憂さ晴らしとして、自分に言い寄ってくる貴婦人に手を出した。むろんそれは他者の恨みを買う行為であると承知していたし、むしろ彼は恨まれることを楽しんだのだ。
逆に言えば結婚しようと思わなかったのは、こうした自らの破滅願望に起因するのだろう。
こうして煩悶としたまま体制の守護者として、リヒベルグは十三年の歳月を過ごしてきたのである。
■■■■
リヒベルグがボートガンプの行動を予測することは、実に容易であった。彼は敵に散々打ち破られた後、陣形を再編して反撃が出来るような傑物ではない。むしろ軍事的には無能に近く、であれば当然、尻尾を巻いて逃げるに決まっていた。
しかも能無しが逃げる先と言えば、真っ直ぐ後ろでしか無いだろう。そこで知恵を巡らせる余裕があるのなら、ハッセル伯程度の軍事的才能だ。
だがヴィルヘルミネ軍が、真っ直ぐ後ろへ逃げるボートガンプを見つける可能性は低い。何故なら彼の無能さが、常人の予測を遥かに超えるから。
算を乱して逃げ出す最中、その主将が真後ろに逃げるとは誰も思うまい。余りに安直過ぎる行為とは、意外な盲点になるものだ。
しかし蓋を開けてみれば、ヴィルヘルミネがボートガンプを追っていた。つまりリヒベルグの予想に反して、ヴィルヘルミネは敵を正確に測っていたということだ。
これはまさにヴィルヘルミネが敵将の性格、能力を正確に把握している証左と言えた。
むろん――リヒベルグの勘違いだが。
しかし彼はそう思ってしまったから、もう止まらない。駆ける馬上で黒髪黒目の謀将は拳を震わせ、目に涙を溜めている。
「なんという神算鬼謀! ヴィルヘルミネ様とはこれほどかッ!」
当然ながらヴィルヘルミネには、神算も鬼謀もありはしない。彼女が現在持ち合わせているものといえば、八歳にしては少し優れた算術能力と、人並外れて臆病なガラスのハートくらいのものだった。
「しかし惜しむらくは――まだ経験に乏しいッ!」
リヒベルグが馬上で歯噛みをしている。何故ならヴィルヘルミネ軍が、
特性として
一方ボートガンプを守る騎兵は、全てが重装騎兵であった。
つまり軽騎兵が重装騎兵に追いつくのは道理だが、もしもこれが近接戦闘へ発展した場合、明らかに不利となる。
数が同じである以上やりようによっては互角の戦いを演じられるかも知れないが、しかし思わぬ突破を許し、指揮官を危機に晒す可能性もあった。無論その指揮官の危機とは、即ちヴィルヘルミネの危機である。
そして残念ながら、この時リヒベルグの予測は当たってしまった。ボートガンプが反撃に出て乱戦となり、赤毛の令嬢の至近まで、弛んだ腹の侯爵が迫ったのだ。
だから、リヒベルグは一計を案じた。
両軍を包囲する形で六百の兵を展開させ、自身はボートガンプの傍へ身を寄せると、両軍の行動を止めるべく計ったのである。
近づいてみれば、驚くべき状況であった。
一騎打ちをしていたのは金髪の少女とボートガンプで、今にも殺されそうな少女をヴィルヘルミネが助けようとしている。
しかも金髪の少女は見たことも無い――有体に言って無名の子供だ。確かに群を抜いて美少女と言えるが、しかしそれでもヴィルヘルミネが命を懸ける程の価値があるとは、到底思えなかった。
だがリヒベルグが現れて、状況が変わる。彼は未だボートガンプ側だと思われているから、ヴィルヘルミネ陣営にしてみれば絶体絶命だ。兵達が、せめてヴィルヘルミネだけは逃がそうと、隙を探っている。
――良い兵達だ、黒髪黒目の大佐は思った。
一方ボートガンプは口を大きく開き、満面に笑みを浮かべている。あたかも自分が勝利者であるかのように振舞い、油断しきっていた。
赤毛の令嬢は、既に自分の命を諦めたのか――金髪の少女に優し気な目を向けている。八歳にして達観しているとでも言えば良いのか。ともかくリヒベルグは令嬢の器の大きさに感動をした。
まあ本当のところヴィルヘルミネは、怖すぎて表情が固まってしまっただけなのだが。
そんな赤毛の令嬢を見て、リヒベルグは完全に確信した。自分は彼女を護る為にこそ、この世に生を受けたのだ――と。
だからリヒベルグは赤毛の少女に勝利を知らせる為、ボートガンプを刺した。
この少女を護る為なら、裏切り者の汚名を着る程度は安いものだ。
むろん侯爵の兵が、すぐにも自分を殺すだろう。そして残るのは悪名だけだとしても、もはや彼に後悔は無かった。
これでヴィルヘルミネとボートガンプの形勢は、完全に逆転する。
自分が死ねば、率いてきた六百はそのままヴィルヘルミネの指揮下に入るだろう。これでフェルディナントが変わると思えば、誰に知られなくともリヒベルグは本望だった。
――だというのに、ヴィルヘルミネは言う。
「リヒベルグ、大儀ッ! そしてボートガンプの兵らよ! とくと見るがよい! お前達がリヒベルグを縊り殺せば、周りにおる六百の兵がすぐにも襲い掛かるであろうぞッ!」
これではまるで、最初からリヒベルグがヴィルヘルミネの命令で動いていたかのようだ。全て令嬢が見通し、この悪逆非道な行動をすら、指示していたかの如くに見える。
事実――金髪の少女は唇をワナワナと震わせ、言った。
「ヴィルヘルミネ様は――ここまでのことを全てを予想なさって……敵中にこの男を忍ばせておいでだったのですねッ!?
なんという……なんという神算鬼謀ッ! 億の単位で及ばぬわたしを、どうか、どうかお許し下さいッ!」
ポロポロと涙を零しヴィルヘルミネを見るゾフィーは、もはや神に祈る子羊も同様の有様だ。それが逆にリヒベルグの心を醒まし、令嬢の策に乗ろうと考える余裕を齎した。
「――お褒めにあずかり、光栄の至り。さて……全ては閣下のご指示通り、ことが運びましたな。これにて賊将は成敗。いやあ、まったくもって祝着至極にございます。
さて、ボートガンプに仕えし賊軍どもよ――随分と恨みの籠った目を私に向けているが、何か文句でもあるのかな?」
「フフン、文句が無ければ、それでよい。では兵共――今ヴィルヘルミネ様に降らば、許して下さるやも知れぬぞ。何なら私が取り計ろう。どうだ……?」
くつくつと笑うリヒベルグは、本当に楽しそうだ。
一方でボートガンプは馬上で倒れ、「き、貴様……、この……、内通者めッ!」と歯ぎしりをしている。しかしすぐに白目を剝き、意識を失った。
「諸卿、武器を捨てよ! ヴィルヘルミネ様のお慈悲に縋るがよいッ!」
とどめはゾフィーの大音声だ。
そしてボートガンプは捕らえられ、その後あっけなく死亡。これらを伝え聞いたハッセル伯は戦うことなく、降伏の道を選ぶ。
こうしてヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントはザクセン会戦の勝利者となった。実に六千の兵で一万二千を制したのである。
そして赤毛の令嬢は、ここに「軍事的天才」という名声を不動のものとした。
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