第35話 ザクセン会戦 5
いつの間にか戦場に突撃してしまったヴィルヘルミネは、状況に気が付き目を丸くしている。周辺は人馬が作り上げた砂煙、土煙、血煙に覆われた、まさに戦場であった。
背筋がゾクゾクとして顔色も悪くなった赤毛の令嬢は、時間差で今ようやくガクブルである。もしくは風邪が悪化した。
――何でこんなところにいるの? 余、死ぬの? ううん、死んだの? ここ、地獄?
ついさっきまでニコラウス隊が不利だ、やべー逃げなきゃ! と思っていたのに、気付けば敵中にいる。そんなワケだから、ヴィルヘルミネがここを地獄と思い込むのも無理はなかった。
とはいえ死後に自分が「地獄行き」だと認識している辺り、八歳にしてなかなか荒んだ精神を持つ令嬢である。もしかしたら普段の行いは、わりと確信犯なのかも知れない……。
だがヴィルヘルミネは、すぐにここが現世であると気が付けた。いつもの通り金髪の親友が、傍に控えていたからだ。
お陰で安心した令嬢は、胸に手を当てホッと息を吐く。一先ず、死んではいないらしい。ヨカッタ。
「ヴィルヘルミネ様――我等は如何なさいますか?」
だがホッとしたのもつかの間。今はわりかしピンチらしい。指示を求めるゾフィーの顔が、緊迫したものだった。
しかしヴィルヘルミネには何のことやら、状況がさっぱり分からない。「ふむ……」と鼻水が垂れそうな鼻を抑え、考えるフリをする赤毛の令嬢である。
「ゾフィーは、状況をどう見るか?」
チラリ――紅玉の瞳を金髪の親友に向け、さも試すように言うヴィルヘルミネ。こんなことをするから「自分は狡い」と自己評価を下げ、「死んだら地獄行き」なんて思ってしまうのだ。
「敵本隊は蹴散らしましたが、右翼の主将が騎兵を率い、駆け付けてきました。ケッセルリンク大尉が二個中隊を率い迎撃に向かったとはいえ――敵は数に勝ります。状況を見かねたデッケン少尉も、大尉の加勢に向かいました。ここは味方部隊を纏め、我等も大尉の援護に向かっては如何でしょう」
ゾフィーはヴィルヘルミネの意図など知らぬまま、自分の考えまで付け加え凛として答えた。それを聞き赤毛の令嬢はビクンと馬上で尻を浮かし、眉根を寄せている。
敵本隊を蹴散らした!? いったい誰が!? と理解の追いつかない彼女だ。ここにツッコミ役がいたら、「お前だ、お前」と言って彼女の頭を叩くことだろう。
「カールおじさん……ボートガンプ侯は、一体どこじゃ?」
「残念ながら、取り逃がしたとのこと。しかしお味方の大勝利に変わりありません! ヴィルヘルミネ様の的確な戦況判断が、この結果を齎したのです!」
キラキラとした青い瞳に鮮烈な憧憬を湛えて、ヴィルヘルミネの顔を見つめる純朴なゾフィー。
「余の?」
「はい!」
何だか分からないが、ゾフィーが喜んでくれるのは嬉しいヴィルヘルミネだ。それに彼女は元来が単純でポンコツ、煽てられれば空だって飛べる程の単細胞である。大きく頷いた。
「……で、あろう!」
しかし、赤毛の令嬢はゾフィーの手に握られた
どうやらこの親友は、ヴィルヘルミネよりも先に人を
「ところで、お話を戻させて頂きますがヴィルヘルミネ様は、兵をどのように動かすおつもりでしょうか?」
「む、む……ゾフィーはトリスタンの援護に向かえというのじゃな――……しかしのぅ……」
ヴィルヘルミネは血煙渦巻く戦場へ目を向け、顎に指を当てている。トリスタンは恐らく、あそこにいるのだろう。しかし令嬢は根本的に憶病でゲス。
たとえ将来地獄へ落ちようとも、今、恐ろしい
赤毛の令嬢は首を左右に振り、「ふぅむ」と唸った。
イケメンを救うか、命大事に作戦でいくか――ここが試案のしどころだ。
暫く悩み、ついにヴィルヘルミネは決めた。紅玉の瞳をくわっと開き、ただ正面を見据えて口を真一文字に結んでいる。真紅の髪が風に流され、その背で鮮やかに波立っていた。
――逃げる!
これが彼女の決断だ。
ヴィルヘルミネはイケメンが大好きだが、自分の命はもっと好きだ。
いやむしろ自分の命より大切なものが、この世にあるか? ある訳がない。
イケメンはお金で買えるが、自分の命はお金じゃ買えないのだ。トリスタン、ゴメン――死んで! と思った。これが令嬢の偽らざる本音であった。
だが、血濡れの
トリスタンを助けろと言う愛らしいゾフィーの助言を聞き入れなければ、あれでブスリ――なんて事も考えられる。ヴィルヘルミネはいかに偶然を装い、この場から逃れるかを考えた。それはもう無い知恵を振り絞って、「ふぅぬぅぅ!」と知恵熱が出そうな程に……。
そして思い付いた。
何かを攻撃するフリをして、間違えて自軍の陣地へ帰っちゃった! てへ! 作戦だ!
だからいかにも目的があるように剣を振り上げ、振り下ろそう。
いざ行かん、自軍の陣地へ! 安全な場所から戦争を高みの見物としゃれこむのだ。
大丈夫、ゾフィーは味方が勝ってると言っていた。でも負けるようなら、さっさと撤退だ! ようし、冴えてる、余!
という本人作戦計画に基づき、ヴィルヘルミネは威厳を保つ。そして徐に振り上げた剣をブンと振り、「前進」と厳かに命じた。
四十騎の近衛兵は
「のう、ゾフィー……なんか、兵の数が少ないのじゃが……?」
「はい。ここはヴィルヘルミネ様の護衛として、近衛兵一個小隊四十名でお守りしております。あっ……わたしを入れたら四十一名ですけれど。ところで、どちらへ向かっておいでなのでしょう……?」
ゾフィーの言葉に、ドキンとヴィルヘルミネの心臓が跳ねた。
えええええーー! バカなの何なの! 何で四十人しか護衛がいないの!? ていうかゾフィー、「どちらへ向かっておいでなのでしょう」って、気付いちゃったー! 気付いちゃったー!?
……という内心の動揺はともかく、ヴィルヘルミネの表情は変わらない。吊り気味の目でむっつりと自分を囲む小隊員四十名を睨め回し、それから再び前方を見た。
「付いてくれば分かる」
どうせ逃げるんだから、人数なんか関係ない――と思うヴィルヘルミネだ。それにゾフィーだって、死にたくないに決まっている。安全な場所に辿り着けば、むしろ感謝するだろう。
そう思い、ヴィルヘルミネは馬腹を蹴って走り出す。もはや全速力だ。脱兎のごとくトリスタンを見捨て、逃げる赤毛の令嬢なのであった。
惜しい男を亡くしたの――……などと勝手に思い落涙しかけたところで、ゾフィーの声が高らかに上がる。
「あれは! ボートガンプ侯の軍勢ッ! そうか! ヴィルヘルミネ様はヤツの逃れる方向が、分かっておいでだったのですねッ!」
「はへ!?」
見れば前方に、騎馬が巻き上げた砂塵が舞っている。その中に恰幅の良い人物を見つけると、流石にヴィルヘルミネも悟らざるを得なかった。
何とヴィルヘルミネは、この期に及んで逃げる方向を間違えていた。しかも全力で馬を走らせた為、ボートガンプに追いついてしまったのだ。一生の不覚――流石はポンコツである。
「待てッ、ボートガンプッ! ヴィルヘルミネ様に背きしこと、その命を以て償うがよいッ!」
ゾフィーの叫びが大気を震わせ、太っちょ侯爵の耳に届く。
「なんだと……追いつかれたというのか!?」
「おおおッ!」
馬腹を蹴って敵に突進するのは、今日初めて人を切り殺したゾフィーである。その勢いのまま彼女は
追われる侯爵は後ろを振り返り、金髪を振り乱して迫りくる少女に眉を顰め、馬に鞭を入れている。
「ハァッ!」
だが、ゾフィーの後ろで困り顔を浮かべつつ馬を走らせる赤毛の少女を見て、弛んだ腹の侯爵は笑みを見せた。
「……あれは、ヴィルヘルミネではないか。私の運も、まだまだ尽きてはいないらしい。あの小娘さえ殺せば、全てを手に入れられるのだからな」
ヴィルヘルミネは、「どうしてこうなった……!?」と思わずにはいられないのであった。
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