第32話 ザクセン会戦 2


 ザクセン平原は、なだらかな起伏のある平坦な大地だ。しかし、そこにはいくつもの丘がありテーレの支流があり、森もある。

 戦争時、人々は知恵を絞り、その中から自らが有利となるよう決戦の地を選定するのが常だった。


 およそ陣形において最も攻撃力が高いと言われる横陣を敷くとなれば、特に側面と背後へ敵が回ることが無いよう、地形を利用するのはいくさの常道。この時のボートガンプ軍も、それゆえに側面を川と森で防護しているのだ。


「敵が丘を取りおったが――拠点にでもするつもりか?」


 馬上で眉を顰め、青々とした髭の残る顎を撫でているのは、ボートガンプ侯爵だ。彼は中央の本営から望遠鏡で覗き、敵の動きを見続けていた。

 もともと軍事に興味のある男ではなかったが、この一戦に自らの命運が掛かっていると思えば、気が気ではないのだろう。


「いや、斜線陣ですな――あれは。おそらく敵左翼が、我が右翼に総攻撃を掛けてくるものかと」


 揉み手をしつつ、眉毛のほぼ無い伯爵がボートガンプの横に馬を並べた。常にむっつりと不愉快そうな表情の彼が、他人にへつらうのは珍しい。


 もともと彼は左翼を任されているのだが、恐らくは先日の失態があるから挽回しようと必死なのだ。今も伝令に任せればよいようなことを言う為に、わざわざ本営まで出向いていた。

 そして自身の意見を補強するように、頼みの連隊長である巨漢のグロード大佐に問う。「卿の見立てでは、どうか?」


「ハッ――自分も斜線陣であるかと見受けます」


 グロードは馬上から、リヒベルグの姿を探した。

 敵の意図については間違いないと思いつつも、彼は思考を巡らせるより身体を動かす方が向いているたちだ。いつもであれば、こういった質問をされるのはリヒベルグの仕事であるのに、奴はどこへ行ったのだろう。


 しかし、そこでグロードは思い出す。そういえば奴はボートガンプ侯の不興を買い、今は左翼の一部隊を指揮する程度の立場に甘んじているのだった――と。


「では、グロード大佐。卿ならばこれに、どう対処するか?」


 ボートガンプが、人の良さそうな笑みを浮かべてグロードに問う。しかし、その笑顔ほどに侯爵が善良ではないことを、巨漢の勇将は知っている。


「ハッ――敵の意図が知れているのであれば、先にこちらから打って出れば良いかと。さらに申せば、敵が三千で攻め寄せるなら我が方は五千を繰り出し、撃滅すればそれで勝敗も決します」

「ははッ、ふははッ! それは良い!」

「もしお許しが頂けるのなら、小官が攻撃の指揮を執りたく存じますが」

「良いぞ、良いぞ! 卿は獅子さえ素手で殴り殺すと言われるほどの勇者とか! そのような者に小娘一人の首を獲れと命じるなど申し訳なく思うが――やってみよ!」

「ハッ! 侯爵閣下のご命令とあらば、いかなるものとて否やはありませぬ」

「ようし! では、やれッ! 見事勝利を収めたならば、卿には将軍位を約束しようではないかッ!」


 こうしてヴィルヘルミネ軍左翼が攻撃を仕掛けようとした刹那、敵右翼が突出し、前進を開始。

 ボートガンプ軍右翼は中央からの増援も含めて瞬く間に五千となり、ヴィルヘルミネ軍左翼三千の出鼻を挫くことに成功する。


 ■■■■

 

 軍務大臣ニコラウスは、一世一代の正念場であった。

 丘に陣取り砲を十五門据えたまでは、まず成功といえただろう。

 そこから敵との距離を測り、およそ千百メートルと概算した。順次砲撃を開始して、歩兵には攻撃準備を命じていたのだが――。


 午後二時八分――突如として敵騎兵が突撃を開始。

 怒涛の如く殺到したこれに対処する為、ニコラウスは味方歩兵をL字型に展開、防御陣を敷く。

 

 何とか騎兵の突撃を凌ぐと、今度は明らかに味方よりも多い敵歩兵が迫ってくる。

 同三十八分――敵砲兵も前進していたようで、砲弾が陣地に着弾し始めた。


 戦闘開始から一時間と少し。

 本来ならば斜線陣の先頭として、すでに敵を撃砕していても良い時刻である。

 しかしニコラウスは一歩も前進出来ず、歯噛みをしていた。


「わ、私は――このような命令一つ、果たせぬのかッ! 凡才であることは認める! しかし神よ! ヴィルヘルミネ様には、勝利を齎して然るべきではないのかッ!」


 午後三時十三分。

 自身の非才が悔しくて、ニコラウスはサーベルを地面に打ち付けた。それから泣く泣く部隊に後退を命じたのである。

 丘に固執していたのでは、三千の兵を全滅させてしまう恐れがあった。そう感じたがゆえの、無念の後退なのである。


 ■■■■


 ロッソウは丘から後退を始めたニコラウスの部隊をチラリと見ただけで、動こうとしない。部下に、「助けに行かずとも、良いのですか?」と問われ、


「いやまあ――これもミーネ様の策であろうよ。軍務卿が凡庸な将であればこそ、ああして自然な後退をしてくれる。これには流石に敵も気付かんだろうて……ふっふ」


 ――と答えていた。


 オルトレップも同様にニコラウスの後退を見つめ、禿頭に手を当てボヤいている。


「……しかし軍務卿は、己が囮であると気付いておるのか? ああいうのは、新参者の俺がやるべきことであろうに……」


 そして言った。


「うぅ……寒いのう」


 ■■■■


 一人の凡将が悔しさに歯噛みしつつ後退をした。その一方で二人の勇将は、余裕綽々の様子。

 その三名が勝利を信じてやまない赤毛の令嬢は、顔から血の気が完全に失せていた。

 何しろ彼女の能力は凡将以下で、精神力はゴミクズ並み。だというのに評価だけは大陸一のお子様だ。したがって今は、「人生終了のお知らせ~~~」とばかりに茫然自失の体である。


 何が斜線陣だ、一気に叩くだ! それどころか味方主力の左翼が、今にも壊滅しそうな有様じゃあないか!


 ヴィルヘルミネは一人馬首を翻し、ここから逃げ去りたかった。

 でも、それが出来ないのは迷子になるからだ。地図があっても道に迷うお年頃。八歳のヴィルヘルミネに、一人で何かが出来る筈もなく。


 今にも癇癪を起しそうな令嬢と馬を並べるトリスタンは、涼しい顔で望遠鏡を覗き込んでいる。

 ヘルムートはゾフィーと何やら話し込み、「なるほど、ははは」と笑っていた。

 ただ一人エルウィンは父親が心配なのか、下唇を噛み膝の上で拳を握っている。


「エルウィン――……」

「あ、ヴィルヘルミネ様……大丈夫です。こうなることは、分かっていましたから……」


 分かっていた――などというピンクブロンドの髪をした若者を、ヴィルヘルミネはまじまじと見た。

 分かっていたとはどういうことであろう。

 この戦いに勝ち目がないことか、それとも父親がピンチになることか。


 どちらにしても、「だったら言えよな、バカヤロー!」と叫ぼうと思ったヴィルヘルミネだが、続くエルウィンの言葉で思いとどまった。


「父が凡庸だから――ヴィルヘルミネ様は、この任務をお任せになったのでしょう。いいんです――大切なことは、我が軍の意図が敵に悟られぬことですから……」


 泣き笑いのような表情を浮かべるエルウィンを見て、思わず母性本能がくすぐられる八歳の少女。抱きしめてあげたい――なんて思ったら、思わず身体が前につんのめった。

 おっとあぶない、このままじゃ、落馬しちゃうよ! というところで赤毛の令嬢は辛くも馬の鬣を掴む。


 落馬の危機を乗り越えた安心感から、ヴィルヘルミネは穏やかな微笑を浮かべた。それからエルウィンに、「敵に悟られぬって、どゆこと?」と聞こうと思い顔を向ける。 

 エルウィンは令嬢の微笑に慰められて、何故か頬を赤らめた。十六歳なのに八歳にドキッなんて、ちょっと危ない少年である。


「最初は気付きませんでした……きっとケッセルリンク大尉もでしょう。もともとヴィルヘルミネ様は、斜線陣を敵に破らせることが目的だったんですよね。そして敵の右翼が突出し、中央との間隙が出来る。そこを衝く為に僕達、近衛隊をここに待機させていた。

 だからこそ父に主力を託したんだ――本当に敵を打ち破る気があるのなら、ロッソウ少将が適任ですからね。違いますか?」


 もちろん違います。

 だがその時、ヴィルヘルミネは馬に異変を感じていた。

 令嬢の白馬は何かを嫌がってブルルンと顔を振り、嘶いて竿立ちになる。何とその足元で、小さな蛇が噛みついていた。しかもそれは前進を続ける敵右翼が、ついに本隊との間隙を作った瞬間のことである。


 ヴィルヘルミネは、必至で馬にしがみつく。「落ち着け! 馬!」と思っていた。涙目だ。

 しかし幼いヴィルヘルミネは、そこまで乗馬が得意ではない。うっかり馬腹を思い切り蹴ってしまった。


 ヒヒィィィィィン!


 ひと声嘶き、猛烈な勢いで走り出すヴィルヘルミネの白馬。その目指す先に目を向ければ、なんと突出した敵右翼と本体に出来た隙間ではないか。

 エルウィンとトリスタンが目を見開いたのも、まさにその瞬間であった。


「流石はヴィルヘルミネ様! まさに戦機を心得ておられるッ! 皆続けッ! 公国の興廃、この一戦にありッ!」


 トリスタンの号令が響き、エルウィンも軍刀サーベルを抜く。

 それよりも早くゾフィーは赤毛の令嬢に従い、駆け出していた。

 

 こうして騎乗した近衛隊六百は一丸となり、敵の間隙を縫っていく。

 まさにヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントが、反撃の口火を切った瞬間なのであった。

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