第30話 リヒベルグの苦悩


 ハッセル伯爵がツヴァイクシュタインへ戻ると、ボートガンプ侯爵は彼の体面も考えずに激怒した。結局のところ敗北したのち戻った兵が、八千のうち五千だけであったからだ。

 圧倒的な勝利を期待していた分だけ、彼の落胆は大きかった。


 一方でボートガンプは領内に一万二千もの兵を抱え込む羽目になり、彼等をどのように食わせるか――という問題にも直面している。

 なにせ既に後続の第二軍、七千の出撃準備を終えたボートガンプ侯爵には、もはや余剰な糧食や燃料が無かったのだ。


 兵を減らされた失望と、それでも五千の余剰人員を抱えた焦り。それらがない交ぜになって、ボートガンプは怒りのまま伯爵を叱責したのである。


「ハ、ハッセル伯ッ! 卿が成功するというから分進合撃を認めたというに、三千もの兵をそこね、おめおめ逃げ帰ってくるとはいかなることかッ!? 戻った兵の糧食など、どこにも無いのだぞッ!」


 侯爵の屋敷にある会議室にて、フェルディナント貴族連合の作戦会議が行われていた。そこで上座に座り、大きな腹を揺すって元軍務卿に叱責を浴びせる、盟主のボートガンプ侯爵であった。


「――……め、面目次第もこざいません」


 上質の絹で出来たハンカチで、額の汗を拭うフリをするハッセル伯爵は、横目でリヒベルグ大佐に目配せをしている。何とかしろ――ということだろう。

 しかし藍色に見える黒髪の大佐は、口元に冷笑を浮かべて窓の外に目をやった。葉も少なくなった細い枝に、小さなコマドリが止まっている。


 午前中から始まったこの会議は、昼食を挟んで太陽が西へ傾くまで続いていた。その間、ハッセル伯はずっとボートガンプ侯爵に叱られているのだから、たまったものではないのだろう。

 

 それは、分かる――と、ハッセル伯の隣に座りながら、リヒベルグは思っていた。だが分かるからと言って、助ける義理は無いのだ。

 そう思いコマドリの姿をずっと目で追っていたのだが、ふと、ハッセル伯とは反対側に座る同僚が立ち上がり、発言をした。


「ボートガンプ侯のお怒りはごもっともなれど、実際、ツヴァイクシュタインに集積してある物資だけでは兵を養うに足りぬ。今はハッセル伯を叱責なさるより、この問題に対処なさるが先決と存ずるが」


 ハッセル伯に目を掛けて貰っただけに、気の毒だと思ったらしい。一瞬だけリヒベルグに「なぜ伯爵を助けぬ」という批難めいた眼差しを送り、同僚は腰を下ろした。


 この男はグロードといい、二メートルを超える巨漢である。戦場では戦斧を振り回し、中世さながらの戦いをすることで知られた、豪勇無双を謳われる勇者だった。

 しかし一方で用兵は柔軟性に欠くところがあり、ハッセルが頼みとした三人の中では一段劣るであろう。それでも個人の武勇が凄まじい為、眉毛のほぼ無い伯爵は、彼を連隊長にしていたのである。


「まあ、グロード大佐の言われることは、尤もですなぁ」


 すっかり冷めてしまった紅茶を飲みながら、リヒベルグが頷いた。

 グロードは子爵であり三十三歳だ。となると黒髪黒目の大佐より爵位でも年齢でも上なのだが、彼は内心で巨漢の同僚を『中世の勇者』と馬鹿にしていたから、このような反応になってしまう。

 それでも一応は戦友の誼で、援護射撃を試みたのだ。それに、いい加減ハッセル伯が叱責される様を見るのも飽きていた。


「き、貴様が撤退しろなどと言うから、このようなことになったのだろうッ!」


 だが――部下の心を上官は知らず。ハッセルは貯め込んでいた怒りを、ついに部下へと向けた。しかしリヒベルグは慌てるでもなく、立ち上がって礼をする。


「さよう、命を惜しまぬ閣下に撤退を進言したこと、誠に申し訳なく。敗者の汚辱に塗れるよりは、閣下が死を選ぶこと、小官はすっかり忘れておりました。二度と差し出がましい真似は致しませぬゆえ、お許しを」


 リヒベルグはこうべを垂れることで薄笑みを隠し、ハッセルに謝罪した。

 一方ハッセル伯も、そこまで愚かではない。黒髪黒目の大佐の真意が「次は何があっても助けぬぞ、勝手に死ね」だと悟っている。だから手を挙げ左右に振ると、曖昧に頷いていた。それはそれで、とても困るからだ。


「いや、卿の助言は――まあその、的を得ていることも多い。今後とも、その……頼むぞ。そ、そうだ、糧食などであるが、何か打開策はないか、リヒベルグ大佐よ?」


 今度は本心から焦り、白いハンカチで額の汗を拭うハッセル伯。それを冷然と見下ろし、リヒベルグは答えた。


「これだけ貴族の皆様方が集まっておられるのです――糧食や燃料などは国外より買い求めれば良いでしょう。まさか勝利の為に、私財を惜しむような方は――よもやおられますまい?」


 リヒベルグの発言は尤もであった。皆も大いに頷いている。

 しかし実際のところ貴族達は私財を惜しみ、その代わり領民へ更なる重税を課して対応。加えて進軍先で徴発するという、最悪の手段を選ぶのだった。


 ■■■■


 十一月三十日付で、リヒベルグは連隊長職を解かれた。理由は先のいくさで撤退を主張したことと、領民へ重税を課すことに大きく反対したことだ。

 それで大隊長に降格となったリヒベルグは、ボートガンプ侯爵が率いる六千の本隊と共に、一路バルトラインを目指す途上にある。


 夕刻となって空が茜色に染まる頃、街道沿いに小さな集落を見つけた六千の軍勢は、ボートガンプの命令で今夜の宿をそこに定めた。 


 集落は二百人から三百人が住む、小さな村だ。ここの領主は騎士爵で、ハッセル伯爵が率いる別動隊六千の中にいるという。もとより重税によって、食料も燃料も差し出してしまった貧しい村である。


 それでもボートガンプ侯爵は「寒い」と言って村人に家屋を供出させ、自分と幹部達の宿とした。一方で本来の住民は寒空の中、馬小屋に集まり身を寄せ合って眠ることとなる。

 この程度であれば村人も我慢できたのであろうが、最悪なのは軍規の乱れであった。


 夜も更けると酒に酔った兵士達が馬小屋等で眠る住民を襲い、娘達にも乱暴を働こうとするのだ。実際に娘と言わず若い人妻も、その餌食にされている。


 ――これを見てリヒベルグは、不快感に表情を歪め吐き捨てた。


「下衆どもが……」


 もちろん彼の率いる大隊は軍規を守り、集落の外に天幕を張っている。しかし嫌な予感のしたリヒベルグは二十名ほどの兵を連れ、見回っていたのだ。

 さらに言えば彼は、領民から重税など取り立てていない。むしろ彼等の生活を守る為に私財を全て投げ売ったせいで、もはや無一文の男爵となっていた。


「おい――私達は、一体どこの国の軍隊なのだ? 誰を守る為に戦っている? その娘を放せ、そうすれば、今ならまだ見逃してやってもいいぞ」


 青銀の月に照らされ、いよいよ藍色に見えるリヒベルグの髪が、風に揺れている。漆黒の闇を思わせる彼の双眸からは、静かな怒気が立ち上っていた。


「へ、へへ……い、いいじゃねぇかよ! この程度の楽しみは! アンタだって漁色家で鳴らした男だろ! あ、そうだ――俺より先がいいんだよな! そうだよな、大佐だもんな! いいぜ、この女を好きにしなよッ!」


 言いながら、兵士が村娘の背中を蹴った。娘はたまらず前のめりに倒れ、嗚咽を漏らす。


「うぅ……お父さん……」


 リヒベルグが視線を先に向けると、仰向けに倒れた一人の男がいる。胸元から血を流し、既に息絶えているようだった。見れば二人の兵士達が銃剣バヨネットを手に、「ハハ……やってやった」と笑っている。


「こ、殺しに慣れとかないと、いざって時に出来ねぇからよ……ハハ!」

 

 もはやリヒベルグは、忠告さえしなかった。

 腰の軍刀サーベルを抜き、目の前の兵士を一閃。ストンと首が落ちた。次いで奥にいる二人の胸にも神速の突きを叩き込み、倒れた娘に手を差し伸べる。

 

「酷い世だな……しかし、あと数日だけ耐えろ。そうすれば、もう少しマシになるだろうさ」

「どういう……ことですか?」

「この国にはな、やたらと平民おまえたちが好きな赤毛の嬢ちゃんがいる。それがまた、いくさに強いのだ。もうすぐ――この腐った国をぶち壊し、変えてくれるだろうさ」

 

 リヒベルグは今の貴族社会が嫌いであった。けれどそれは永続するもので、自分はその枠組みから抜け出すことが出来ないと思い込んでいたのだ。

 しかし今、口にしてみると改めて思ったことがある。


 ――私はずっと、この国を壊したかったのだ。だというのに、それを出来る器量がなかった。それを環境のせいにして、ずっと燻っていたのだ。

 もしもヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントが僅か八歳にして、この国を壊そうというのなら、これこそまさに凡人と天才の差なのであろう。


 天空に瞬く星を見上げ、自らが敵対する赤毛の少女を思った。

 いつか彼女の前になら、心から跪けるのだろうか――。

 だが戦い敗北すれば、高級指揮官は銃殺だろう。未来の希望は、死の先にある。


「私の死が国を壊す礎となるのなら、それも悪くない――か」


 リヒベルグは整った口の端を歪めながら、その日、朝まで集落の人々を守るのだった。

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