第28話 敗者たち


 眉毛がほぼ無く痩身のゲオルグ=フォン=ハッセル伯爵は、逃亡の途中で将軍衣を脱ぎ棄て、副官である大尉の軍服に着替えていた。

 では衣服を奪われた大尉はどうしたかと言えば、むろんハッセル伯の為に囮となって一人、別方向へと逃走したのだが……。


 しかし彼は馬を走らせているうち、このように恩知らずな上官に仕えているのがバカバカしくなった。

 下級貴族の生まれであった大尉は貴族としての恩恵など、ほとんど受けていないのだ。今の立場となったのも、戦場での武勲によるものだった。


 だから大尉は馬首を翻す。


「もういい、やってられるか! 一矢報いて死んでやる!」


 彼は後にした戦場へ舞い戻り、勝てないまでも敵に一矢報いようと考えたのだ。


 しかし部隊の下へ戻ると敵軍の姿は既になく、茫然自失の体で二百名ほどの兵がいた。さらに百名ほどは森の中で忙しなく動き、仲間達の遺体を埋葬しているではないか。


 大尉は遺体を埋葬している一人の下士官に問うた。


「これは、どういう状況だ?」

いくさに――負けたんでしょうよ」

「そんなことは、見ればわかる。私が言いたいのは、なぜこれ程までに兵が減っているのか、ということだ」

「大将が逃げたんだ。そりゃ兵だって逃げるでしょうよ。もともと、戦いたくなんてねぇんだから」

「……それもそうか。では、お前達はなぜ残っている?」

「俺ァね、仲間の死体を放っておける程、腐っちゃいねぇってだけですわ。それに、この辺には俺の住んでた集落だってあるんだ」


 下士官は作業をする手を一切止めず、事務的に淡々と答えた。言葉通り弔いの意味もあるだろうが、死体を放置すれば疫病が蔓延する可能性があることを、彼は経験則として知っているのだ。

 もっとも、逃げ散った兵が野盗になる可能性もある。ひとたび統制を外れた兵は、いつの時代も厄介なものなのだ。


「大尉も、さっさと逃げたとばっかり思ってましたがね」


 大きなスコップで穴を掘る手を止めて、下士官が袖で汗を拭う。やや好意的な目を、舞い戻った大尉の顔に向けていた。


「まあ――馬鹿のお守りはいい加減、飽きたんでな。せいぜい華麗に戦って、討ち死にでもしようと思ったのだが……」

「そりゃ残念。生き永らえましたなァ」

「ま――そういうことだ」

「だったら大尉、みんなで降伏しませんか?」

「なに?」

「ほら、ヴィルヘルミネ様は平民を宰相にするお方ですよ。だったら大尉、アンタだってボートガンプ様に付いているより、全然良いんじゃないですかね」

「そうだな……ただその前に、逃げた兵に暴れられては迷惑だ。野盗になりそうな奴等に、帰順でも呼び掛けておくか。お前だって、故郷の集落を荒らされたくはなかろう?」

「は、は……手土産だって多い方がいいでしょうしね。じゃ、やりますか」


 こうしてヴィルヘルミネは帰路、四百の兵を吸収することになるのだった。


 ■■■■


 北へ向かったハッセル伯爵が友軍との合流を果たしたのは、翌早朝のことである。森深い山中で馬を走らせ急いだせいで、枝葉によって衣服が破れ、ボロボロの状態であった。


 北の街道を南東へ進みザクセン平原を目指す予定の将はリヒベルグという男で、この年二十九歳である。男爵位を持つ彼はニコラウス=フォン=デッケンと同格であり、軍にあっても同じく大佐の階級を持つ連隊長であった。

 

 彼はハッセルが信任する三人のうちの一人だが、高い能力ゆえに危険な男だとも噂されている。


 リヒベルグは藍色に見える黒髪を丁寧に整えた、典型的な美男子であった。瞳の色は闇を溶かしたように黒く、白い肌の中にあって非常に神秘的な双眸である。

 黙っていれば黒薔薇を連想させる彼は、外見だけなら軍人よりも芸術家のように見えるであろう。


 しかしながら彼は自らの美貌を自覚しており、漁色家として名を馳せていた。ゆえにニコラウス=フォン=デッケンとは違い妻を娶らず、未だ独身で子もいない。

 そんなリヒベルグは独身主義者とも云われ、幾度かあった縁談の話も丁重に断っていた。


 一方で軍務における功績は、オルトレップにも劣らない。特に彼は情報戦を得意としており、今回のいくさもヴィルヘルミネ軍の戦力比率に基づき、ハッセル伯爵の分進合撃案に反対していたのだった。



 昨日とは打って変わり良く晴れた朝焼けの中で、這う這うの体といえる上官をリヒベルグは自らの幕舎へと迎え入れた。見事に築かれた陣営は、たとえ奇襲を受けたとして難なく敵を弾き返すであろう。

 これに安心したのか、ハッセル伯は優雅に一礼して見せる部下に、早速の怒声を浴びせ掛けた。


「リヒベルグッ! 貴様このようなところで、一体何をしておるのかッ!」

「これはこれは、どこの貴人が参られたかと思えば、ハッセル将軍ではありませんか」

「――……ではありませんか、ではないッ!」

「と、申しますと?」


 上官に椅子を勧め、従卒には紅茶を入れるよう指示を出す。それから首を傾げ、「身を清める湯は必要ですかな?」などと問うリヒベルグは、口元に冷笑を浮かべていた。

 私の言うことを聞かぬから、このような目に遭う――内心では、こう思っているのだ。リヒベルグは愚か者の怒声になど、動じる男ではなかった。


「なぜ、私の指示通り、ザクセン平原を目指しておらぬのだ」

「目指しておらぬからこそ、閣下とこの地で合流出来たのですぞ」

「なに……?」

「敵が騎兵を用いて各個撃破に出てくる可能性を考慮すれば、二千の兵は少なすぎると申し上げたでしょう。とはいえ、閣下がこれほど見事な負けっぷりを見せてくれるとは、まったく驚嘆の至り……」

「では貴様、私の敗北を予測していたというのか」

「ええ、まあ……」

「き、ききき、貴様ッ!」


 ハッセルは従卒が運んできた紅茶に口を付けることなく、リヒベルグへと投げつけた。藍色に見える黒髪の大佐は、ひらりと半身になってそれを躱す。ガシャンと音を立てて、カップが割れた。


「やれやれ……負けたのは全て閣下の責任でありましょう。カップに八つ当たりなどと、酷いお方だ。私の胃も軋むというものです。ああ……病気休暇を賜りたい……」

「貴様に病気休暇などくれてやれば、どこぞの貴夫人に手を出し、その夫に決闘など申し込まれるだけであろうがッ!」

「ん――ああ、その件は私が悪いわけではなく――もともと侯爵閣下が浮気をしていたのです。それで寂しがる奥方様を慰めているうちに、まあ、その――何となくですな」

「愚か者めッ! その時、救ってやった恩を忘れたかッ! 少し軍務で役に立つからと、調子に乗りおって! 早々に兵を進めよ! 南から進撃してくるグロードとザクセン平原で合流すれば、こちらは四千。それにオルトレップが背後から敵を衝けば、挟み撃ちに出来るのだぞッ!」


 リヒベルグは肩を竦め「ふぅ」とため息を吐く。


「閣下はなぜご自分が、無事にここへ辿り着けたのか理解出来ておりますかな?」

「なに?」

「敵は閣下の軍を打ち破った後、残敵を掃討していないのです。だから閣下は、追われなかった」

「だから、何だというのだ?」

「残敵を掃討しないで敵は、一体どこへ消えたとお思いか?」

「もう、公都へ戻ったというのか?」


 冷たい笑みを浮かべ、リヒベルグがくつくつと笑う。


「まさか――どのように運用したのか知りませんが、敵は三千の竜騎兵ドラグーンとお思い下さい。しかも閣下を容易く打ち破る用兵巧者が率いているのです」

「では……すでに、オルトレップも敗れたと申すか? しかし、あやつは二刀と呼ばれる程の男なのだぞッ!」

「まあ、間もなく偵察兵が戻ってまいります。結果をとくと御覧じませ。オルトレップ大佐が勝利を収めていれば、朗報となりましょう」


 それから三十分ほどで、一人の兵が報告の為に天幕を訪れた。それによると、既にオルトレップは降伏、残存兵力の全てがヴィルヘルミネの指揮下に入ったという。


「こ、こうなれば、ザクセンの野にて決戦を……!」


 への字に曲げた口をワナワナと震わせて、ハッセル伯が歯噛みする。しかしリヒベルグは何事も無かったかのように紅茶を飲み、つまらなそうに言った。


「おやめなさい、この上は全軍に撤退を命じられよ。今、ザクセン平原にて合流などすれば、数の上でも不利になりかねません。

 ましてや一日で二つの連隊を破った敵軍の士気は、さぞや上がっていることでしょう。今度こそ閣下は、お命までも失いますぞ」


 冷たい眼差しで、リヒベルグが言った。その眼光の奥には、何一つ見えない闇が広がっている。

 むろんハッセルも、この部下が忠誠心から発言しているのでは無い、ということまでは分かった。しかし嘘を言ってるようにも見えない。


 自分の命が惜しいハッセルとしては、ボートガンプの叱責を覚悟で捲土重来を期し、全軍に撤退を命じるのだった。

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