第27話 ベーア


 ヴィルヘルミネ軍は一日で二度戦い、その両方で完勝した。むろん一度目は奇襲であったし、二度目は数に勝った上での会戦である。

 しかし合計すれば三千の軍で四千の軍を打ち破ったわけで、ニコラウスは従軍記者に対し、よくそのことを言い含めていた。


 ともあれヴィルヘルミネ軍は勝鬨を上げ、喜びを爆発させている。それと同時に厚く垂れこめた雲から、大粒の雨が降り始めた。赤毛の令嬢もぐっと拳を握りしめ、一人陣幕の中でこの幸運に感謝する。

 それは自軍が勝利したことに対してではなく、雨がおしっこを流してくれるから。そして匂いすら、跡形もなく消し去ってくれるからだった。


 ヴィルヘルミネは厳かに陣幕から出ると、珍しく柔和な表情で皆を見る。そして頷き、喜びを共にした。

 むろん兵達と赤毛の令嬢の喜びは異なっているが、感情を共有していることに変わりはない。これでまた一段と、ヴィルヘルミネ軍の結束は固まったのである。


 特に軍務大臣となったニコラウスは、付き物が落ちたかのようにスッキリとした表情の令嬢を見て、彼女が今まで感じていた重圧を想いそっと跪く。彼は今、膝が泥で汚れることなど、まったく気にしていなかった。

 

 髪色がピンクブロンドの軍務大臣は、自身が凡庸であることを知っている。だからこそ慎重だったし、今までは息子の判断を信じ、ヴィルヘルミネに従っているだけであった。

 しかし今、兵の為に勝利を祈り、戦い終わって姿を現した令嬢の神々しさに感じ入り、こうして自らの意志でこうべを垂れたのだ。


「此度の勝利、祝着至極に存じまする」

「んむ――軍務卿も大儀であった」


 本当にスッキリして気分の良い赤毛の令嬢は、イケメンのエルウィンを重厚にしたかのようなニコラウスに、普段は見せない微笑を返す。彼女は渋みのあるイケメンこそ、本当の好みなのだ。だから彼の肩に、ぽんと手を置いた。イケメン成分補給の為の接触である。


 しかしこれこそ、ニコラウス=フォン=デッケンが篭絡された瞬間だった。目に涙を溜め震える軍務卿は、ついにヴィルヘルミネ個人への忠誠心に目覚めてしまったのだ。

 もっともそれはニコラウス自身が、自らの非才と向き合う決断をした瞬間でもあった。


 政略においては天才的とも言える働きをし、外交においては二つの国家を口先一つで翻弄するヘルムート=シュレーダー。


 そのヘルムートに乞われ、内政の一切を取り仕切る医師、ラインハルト=ハドラー。彼の処理能力は、一国に冠絶する。


 建築交通大臣としては誠実だけが取り柄と思われたヨアヒム=フォン=ロッソウは、かつての戦場伝説であった。


 近衛大隊長として奉職するトリスタン=ケッセルリンクは兵站、補給計画の全てを取り仕切り、戦場においては正確無比の用兵をする。


 そして息子のエルウィン=フォン=デッケンは言うに及ばず未完の大器であり、今日は三倍の敵が守る砲兵陣地を壊乱して見せた。


 そのような綺羅星の如きヴィルヘルミネの臣下の中で、己が何を為すべきか。抱いた忠義心ゆえにニコラウスはこの後、葛藤することになる。

 こうしてヴィルヘルミネはただ一度の過ち(おしっこ)により、一人の男の人生を狂わせたのであった。

 

 ■■■■


 後方にて待機をしていた兵達が馬を引き、資材をもって現れた。ニコラウスが戦勝の報を伝令に託し、呼び寄せたのだ。

 一日に二戦もして、兵も将も疲労している。ましてや冬の雨だ。濡れ続ければ体力を奪われ、病にもなりかねない。そのような懸念から、ニコラウスはヴィルヘルミネに進言をした。


「時刻も既に午後三時を回っており、雨も降ってまいりました。また、日に二戦もしてみなも疲労いたしております。そこで、この地に陣営を築き、一晩の休息を命じては如何でしょう」


 これには行軍に次ぐ行軍で疲れていたヴィルヘルミネも、「そうじゃの」と大いに賛成。即座にいくつもの天幕が張られ、この地で野営することが早々に決まった。

 また、降伏したオルトレップも武装解除を終えた部下達に命じ、天幕を張る。それから本人は顔の中心に湿布を張りながらも、案外とスッキリした表情でヴィルヘルミネの前に参上した。


 早速建てられた大天幕の中、赤毛の令嬢が簡易の椅子にちょこんと座っている。後ろ手に縛られたオルトレップはヴィルヘルミネの前に出ると、まず跪き、こうべを垂れて神妙に口上を述べた。


「我が部下達に寛大な処遇を賜りましたこと、摂政閣下のご温情には感謝に絶えませぬ」

「うむ」


 ヴィルヘルミネは頷き、白い湿布を顔に張った禿げ頭のオルトレップを見つめている。令嬢の表情が二転、三転した。彼女は椅子から立ち上がると跪くオルトレップの傍まで歩き、形の良い顎に小さな手を当てて、何事かを思い悩んでいる。


 オルトレップはツルツルの禿げ頭。それに極太の眉と黒々とした口髭が特徴的な男だ。目もギョロリとしていてイケメン点数で言えば、五十点に満たないだろう。

 普段のヴィルヘルミネなら、「失格!」とでも言って「ぱちこーん」と叩くところだ。

 

 だというのに令嬢は紅玉の瞳を輝かせて、オルトレップのキラリと光る頭部をガン見している。あまつさえ服の袖で頭をキュキュっと拭き、自分の顔を表面に映しニンマリとしていた。


「可愛い……」


 誰にも聞こえないような声で、令嬢が呟く。

 

 そう。


 赤毛の令嬢が好きなものは、イケメン、美少女――そして可愛いモノなのだ。


 オルトレップは平身低頭している為、ヴィルヘルミネの行為が分からない。ただ頭を何かで撫でられ、「ふーっ」と息を吹きかけられたような気がするだけだ。

 そんなころに全身ボロボロのロッソウが現れ、オルトレップの助命を嘆願した。


「摂政閣下にお願いの儀があり、ロッソウ、意見具申いたしまする! このオルトレップは今回の戦でも分かりますように、攻防に優れた力量を持つ見事な指揮官ッ! 勝敗は兵家の常なれば、どうか戦のことは水に流し、今後は重用なさいますよう願い奉りまする!」


 ロッソウがオルトレップの隣で膝を付く。禿頭の将は「そのような情け……」などと言いながら、目から零れる熱い涙を止めることが出来なかった。

 一方ヴィルヘルミネは、「なんか、じいが怪我をしている」と思い、形の良い眉を八の字に歪めている。

 

「じい、痛いのか?」

「なんの、これしき」

「誰か、薬をもて」

「そ、そのようなことよりも今はオルトレップの処遇を……!」

「ダメじゃ。じいが怪我をしておるもの」

 

 ヴィルヘルミネはおじいちゃんっ子だ。ロッソウが怪我をしている、一大事! と思うから、他のことなど頭に入らない。なので部下から塗り薬を貰うと、手ずから老将の頬にある傷に薬を塗り込んだ。


「こ、このような……! い、いけませぬ、ヴィルヘルミネ様……!」

「じいもな、余の事はミーネと呼ぶが良い。兵もみな、余のことをミーネと呼ぶのじゃからのぅ」

「なっ……! それも色々といけませぬッ! で、でもワ、ワシ! 呼ばせて頂きまするぅぅぅぅうう! ミーネ様ァァァアアア!」


 もはや老ロッソウ、思い残すことは無し! 元気百倍、「ふぬぉぉぉぉおお!」と大復活を遂げた。


「――して、この者を助けよと?」


 ロッソウに薬を塗り終えると、同じ薬をオルトレップの頭に塗り始めるヴィルヘルミネ。確かに彼の禿頭にも傷はあるが、何故かその範囲がやたらと大きかった。


「はい。我が軍には将が少なく、この者を味方とすれば、必ずや閣下の――いえ、ミーネ様の役に立つかと」

「……で、あるか」


 ヴィルヘルミネは薬を塗り終えるとオルトレップの禿頭を手の平で叩き、ペチペチと音を立ててニンマリと笑う。もとより彼女は、この禿頭の将を殺す気などサラサラ無かった。

 なぜならオルトレップの可愛さが、彼女の中で八十八点だったからだ。


 ヴィルヘルミネはオルトレップの頭に包帯を巻くよう兵に命じ、側頭部に二つの丸い突起を作った。その突起を耳に見立てると、ヴィルヘルミネは再び椅子に戻って宣言する。


「――卿は今日よりベーアである。ベーアとして余に仕えよ」


 オルトレップは思わず面を上げて、目の前のヴィルヘルミネを見た。

 彼女は過去を水に流すという意味で、自分に熊という名を授けたのだ。それにもとより、彼は禿熊と呼ばれていた。

 

 オルトレップの手を縛る縄をロッソウが切ると、禿頭の猛将は額を地面にこすり付け、涙を流す。そして彼は震える声で、赤毛の令嬢に忠誠を誓うのだった。


「今後は……このベーア=オルトレップ。ヴィルヘルミネ様の御為にのみ、我が命を使いまする」

「で、あるか」


 もちろんヴィルヘルミネは、縫いぐるみに名前を付ける時と同じ気持ちである。

 そしてウキウキしながら「今度ヘルムートに、ベーアを抱っこさせてみよう!」などと凶悪な計画を立てていることを、今は誰も知らないのであった。

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