第23話 ヴィルヘルミネの大本営
敵将が望遠鏡を覗き込み、自分の顔を見て口をあんぐり開けているとも知らず、ヴィルヘルミネは街道を包み込むような原野を眺め、眉根を寄せていた。
街道に沿って長く伸びていた敵兵の列が、整然と陣形を整えていく。よく訓練された動きで、先ほど奇襲を仕掛けた敵よりも、はるかに手強そうだった。
令嬢は「一、二、三……」と敵が陣形を整える時間を数えつつ、左右と後ろに控えた幕僚たちを見る。
ヴィルヘルミネは戦争ごっこを通じて、兵士の練度を測ることが出来るようになっていた。瓢箪から駒とはこのことだが、ともかく赤毛の令嬢は敵を「出来る!」と判断したのである。
「戦闘隊形に展開し、前進せよ」
左手を上げ、ごく自然に言う赤毛のご令嬢。彼我の練度は互角と判断したようだ。そうであれば、こちらも陣形を整え、戦闘隊形を取らねば付け入られる結果となろう。
ヴィルヘルミネは兵隊ごっこも好きだが、チェスも好きだった。だから、その両方を合わせた用兵というものが、ゲームのように思えたのかも知れない。
また彼女の何事につけ忘れっぽい性格というのも、戦争をする上で役に立った。
例えば、つい数時間前に多くの死体を見た令嬢だが――先ほど美味しそうに干し肉を食べている。これは初陣であれば大人でも非常にキツいのだ。何しろ血と肉と臓物が飛び散る戦場を見た後では、干し肉と言えどもそれらを連想させるのだから。
だた――だからと言って、ここまでだ。
ヴィルヘルミネは戦闘後の光景を見ても冷静でいられるし、敵軍の強さを測れるとしても、所詮は八歳児に過ぎない。何しろ戦争をする目的すら、彼女にはよく分かっていないのだ。というか、なんか忘れてしまっていた。ではなぜ彼女がここにいるかといえば、軍隊にはイケメンが沢山いるから――でしかない。
しかし周りの大人は彼女の本性に気付かず、過大評価をして全幅の信頼を置く。
今もまたヴィルヘルミネが敵を測り全軍に前進を命じたから、それに拍車が掛かってしまうのだ。まったく、酷い話であった。
「摂政閣下の御命令である。歩兵は横陣を展開、しかる後に前進せよ」
令嬢の言葉を軍務大臣が言い直し、軍令として全軍に広がっていく。
ヴィルヘルミネは前方に丘を見つけた。そこに敵兵が群がり、黒光りする何かが見える。視力の良い彼女であれば、望遠鏡が無くともそれが何かを判別することが出来た。
「――砲がある。六門じゃ」
彼我の距離は、既に千五百メートルを切っていた。
通常、十二ポンド砲であれば仰角五度での射程距離が、凡そ千メートル。だとするなら小高い丘に設置されたそれは、ここまで届いてもおかしく無い。
「摂政閣下、お下がり下さい」
慌てて望遠鏡を覗き込んだニコラウスが、鬼気迫る表情で言った。
その瞬間、ヴィルヘルミネが全身をブルリと震わせる。「はっ!」と思った。
赤毛の令嬢は、このタイミングでおしっこがしたくなったのだ。食事の際、うっかり沢山の水を飲んでしまったからである。塩漬けの干し肉が、とてもしょっぱかった。
ゾフィーに、「後でトイレに行きたくなりますよ。でも、ここにはトイレなんてありませんから、どうするんですか?」と言われたのに、「いいのじゃ、夜まで我慢できるのじゃ。そんなことより、この肉はしょっぱい」などと答えてしまったせいで、「ぜんぜん我慢できませんでした」などとは口が裂けても言えない。言いたくない。
だが大砲のことを考えれば、ここも危険になるだろう。下がるべきだ。しかし下がるためには、馬に揺られて走らなければならない。その揺れは、きっと腹部を圧迫する。であれば膀胱の決壊は、まさに確実だ。
赤毛の令嬢は首を左右に振り、自軍が勝利するまでの時間を計算する。こんなところで、得意の計算能力が活きていた。
戦列歩兵の前進は分速六十メートル。敵陣までの距離を千二百メートルとして、到達までは約二十分。その後、敵を制圧するまで三十分から一時間掛かるから――……何とか……我慢できるのじゃッ!
「余は、ここにおる。敵への攻撃を急がせよ」
ヴィルヘルミネは、言い切った。
「ぎ、御意」
決意の籠った紅玉の瞳を見れば、ニコラウスはただ恭しく頭を垂れるしかない。彼はまさか赤毛の令嬢がおしっこを我慢しているなどとは思わず、陣頭に立ち目を爛々と輝かせるヴィルヘルミネに、ただただ畏敬の念を抱くのだった。
■■■■
オルトレップ大佐は小さな丘に六門の砲を据え、その周りに歩兵による方陣を敷いた。砲兵一個中隊二百を、歩兵二個中隊四百で守る構えだ。
そして丘の下に半円形の防御陣を敷いた。中央、右翼、左翼とも全て戦列歩兵で二百ずつ。その背後に本隊、後衛として四百の騎兵が控えている。合計二千の兵力であった。
一方ヴィルヘルミネ軍は、これを押し包むような形で前進。中央、右翼、左翼とも七百の戦列歩兵を配置している。本隊として六百の騎馬兵を持ち、これが予備兵力も兼ねていた。合計で二千七百の兵力だ。
残りの三百は森の中で待機させ、馬の世話などをさせている。
ドドォォォオオン! ドドォォォォォオオン!
砲声が戦場に鳴り響き、大気を震わせる。空には液状化したアスファルトを思わせるような灰色の雲が広がっており、そこに罅が入るのではないかと思われた。
ヴィルヘルミネは砲撃の度に唇を噛みしめ、耐えている。今にも、おしっこが漏れそうだ。
数分が経過して、三回目の砲撃が始まった。ヴィルヘルミネの膀胱はまだ決壊していないが、戦列歩兵には損害が出始めている。自分の尿ではなく、自軍の血液が流れ始めたのだ。
元よりカノン砲や
現に敵の砲弾が降ってくるたび、数名の兵士が吹き飛び、土砂と共に血と臓物をまき散らしている。その先頭に立ってトリスタン=ケッセルリンクが指揮を執っているからヴィルヘルミネとしては、そちらも気が気では無かった。
――血もおしっこも、垂れ流して良いものではない。
そう考える赤毛の令嬢は、手綱をギュッと握っている。気付けば手の平が真っ白になっていた。
漏れそう、ううん、血が漏れてる。違う、流れてる、ダメ、やっぱり撤退しよう――なんて思いながら、ヴィルヘルミネは後ろを振り返った。
ロッソウ子爵が馬上で腕を組み、ニコラウスと何事かを話している。
「軍務卿。敵はワシ等が砲を持っていないことを、知っておるのか?」
「いえ――……とはいえ、ケッセルリンク大尉の話では、この部隊を指揮する将は中々の知恵者とか。であれば、早々に気付かれるでしょうな。あるいは、気付いているからこその陣形かと」
「ふむ……」
こんな話を聞いてしまったヴィルヘルミネ。もう、これは撤退しかないと思い込む。そして彼女は言った。
「第一騎兵隊で歩兵を援護し、敵をおしっこ。ダメ漏れる……迂回して砲が、うぅ……も、無理……」
余りにもおしっこがしたくて、色々と言葉がごちゃ混ぜになってしまった赤毛の令嬢。しかし彼女が言葉を発した時、ちょうど敵の砲撃が重なった。ドドォォォォオオン!
その結果、奇跡的に翻訳された言葉が――これだ。
「復唱致します」
ニコラウスが言った。
「う、うむ?」
「第一騎兵隊で歩兵を援護し、敵を押し込めよ。第二騎兵隊は敵を迂回し、砲兵陣地を強襲、無力化せよ」
ああ、ぜんぜん復唱できてない! と思う令嬢だったが、既に鬼人ロッソウがニィ――と笑っていた。
基本的に軍人は復唱するとき、決して間違えない。だからこれが彼女の命令だと、ロッソウは勘違いしたのだ。
そして老将は、「あの砲を、黙らせれば良いのですな。騎馬兵で」と、こともなげに言う。敵の血を吸い刃の曇った彼のハルバードが、コォォォォォオオオオ――と怪しげなオーラを放っていた。ヴィルヘルミネは、これが超こわい。
「待ってください、ロッソウ少将! ヴィルヘルミネ様、ここは僕にお任せを! きっと、丘の砲兵を沈黙させてご覧に入れますッ!」
「ふむ……するとワシが歩兵の援護か。ま、構わんが、そちらの方が危険だぞ、小僧」
「大丈夫、この程度のこと、やれます! そもそも数はこっちが勝っているんだ、さっさと片付けなければッ!」
エルウィンが目を輝かせ、砲兵陣地の攻撃を志願している。
ヴィルヘルミネは逃げたいのに、戦意を拗らせたイケメンがこんなところにもいた。まったく……。
挙句の果てにはゾフィーまで、「わ、わたしも……!」と言い出す始末。
ええー!? と、思わず馬上で身を仰け反らせる、哀れなヴィルヘルミネ。そんなことより、おしっこがしたい。
とりあえず金髪の親友には怖い顔で「ダメッ」と言いつつ、エルウィンのことは父ニコラウスに任せようと思った。膀胱の尿も既に危険水域だ。戦争なんか、している場合じゃないのに……。
「卿の子が、このようなことを申しておるが――……」
「やらせてみても、良いでしょう」
「よ、良いのか? もし死ぬようなことがあれば、卿が困るであろう?」
「なに、この程度で死ぬような息子なら、惜しくはありませぬ」
ええーーー!?
ヴィルヘルミネは、スパルタなエルウィン父に慄いた。
しかし、こうまで言われてしまえば断りづらい。やむなく「うむ、行け」と許可を与え、ピンクブロンドの美しい髪を持つイケメンを戦場へ投入する。さっさとおしっこがしたいのに、断腸の思いだった。
だというのに息子を送り出したニコラウスは、その口でこんな事を言う。
「さて、ここは危険ですから、本営はもう少し後方へ移動させましょう」
もう、ヴィルヘルミネには一刻の猶予も無かった。
「ダメじゃ、ここに陣幕を張れ」
赤毛の令嬢は、ここに簡易トイレを作ろうと思ったのだ。しかし目に涙を溜め、ギュッと唇を噛むヴィルヘルミネの姿に、皆は感動した。
「ああ……ヴィルヘルミネ様は決して戦う兵士を、お見捨てにならないのだ」――と。
この後、ヴィルヘルミネは戦場で一歩も引かない、
そして一角獣旗の翻るヴィルヘルミネの
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