第2話 ヴィルヘルミネのお遣い
帝歴一七八二年の晩秋。空は鉛色で重苦しく、今にも雨が降り出しそうな日であった。
早朝、カーテンの隙間から差し込んだ仄かな明かりが、この秋六歳になったフェルディナント公爵家の令嬢を、
「ん……あ」
髪の毛と同色の赤い睫毛が上下に揺れて、やや潤んだ紅玉の瞳が露わになった。それから腕の中のぬいぐるみをギュッと握り、「えいや」とばかりに掛け布団を払う。
弾かれた羽毛の布団が宙に舞い、そこから飛び出した小柄な姿。寝ぐせのついた燃えるような赤毛を靡かせて、彼女は颯爽と隣室へ繋がる扉を蹴り開けた。
「起きよ、ヘルムート。余よりも長く眠るとは、一体何事であるか」
右手の甲で眠い目を擦りつつ、左手で熊のぬいぐるみを引きずる炎髪の公爵令嬢は、どこまでも尊大だ。
これにはたまらず未来の宰相閣下も慌てて飛び起きると、「な、何事です?」と少女の前に跪く。
彼、ヘルムート=シュレーダーはなんと、約束通りヴィルヘルミネの隣に部屋を借り受け、美しくもまだ幼い主君の家庭教師になっていた。
「朝だから、起こしにきてやったのだ」
悪びれずに答える公爵令嬢は、跪くヘルムートの寝ぐせ頭をペシペシと叩き無表情だ。冷然とした威厳をプニプニのほっぺに湛えている。
「は、これは申し訳ございません」
恐縮し、さらに低頭してヘルムートは委縮した。朝から主君に叱られては、いかなイケメンとて形無しである。
これに満足したのか、公爵令嬢は薄絹の寝衣を翻し、来た時と同様に颯爽と去って行く。その背に未来の宰相閣下は声を掛けた。
「今、準備を整えますので少々お待ちください」
「うむ、急げよ」
扉を閉めるとヘルムートは慌てて洗面を済ませ、身だしなみを整える。
――まったく、大した主君だ。
家庭教師の職を得てから一年半、ヘルムートは一日として休む事無くヴィルヘルミネに、あれやこれやと教えている。
それこそ昨日も夜遅くまで彼女には帝歴の由来、東西帝国が一つだった頃の歴史を語り聞かせていたのだ。
もちろんこの歴史は、フェルディナント公国の歴史にも深く関わっている。何せこの公爵家は、古の帝室の血を引いているのだ。となれば令嬢には興味も津々なのだろうと考え、ヘルムートも語る口調に熱を込めたものだった。
令嬢はその講義の最初から最後まで、ヘルムートの顔を熱心に見つめ聞いていた。にも関らず今日、彼女は教師であるヘルムートよりも早く目覚め、彼の惰眠を窘めるというのだから恐れ入る。
「もしかしたら彼女は、私よりも優れた才能を持っているのかも知れない」と、ヘルムートは思った。
だからこそヘルムートは、自身が学問によって身を立てるという野望を一時封印し、今は公爵令嬢の教育に全力を注いでいるのだ。
もっとも当の公爵令嬢にとって、これら全ての意味合いは異なっている。
夕べも遅くまでイケメンの顔を眺めることが出来た。
朝も、寝起きのイケメンを見ることが出来た。
ああもう、大満足! というだけのこと。
もちろん歴史の講義なんて聞いちゃいないし、その間、頭の中は半分眠っていた。そして今もヘルムートを起こすだけ起こし、再びベッドの中で二度目の惰眠を貪っている。
そう――彼女こそヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナント。後にエウロパの大地を席巻する不世出の英雄、朝の一幕であった。
■■■■
二度寝からヴィルヘルミネが目覚めたのは、プニプニほっぺの冷たさによってである。ハッとして起き上がると、枕には大きな涎の跡が残っていた。
なんじゃこりゃー! と思っても、表情にも声にも抑揚のない赤髪の公爵令嬢は、いつも通り冷然と断言した。
「ヘルムート。これはエウロパの地図である」
「はっ、流石はヴィルヘルミネ様。地理の復習にも余念がありませんな」
「うむ」
狼狽も照れも無い厳粛な態度の令嬢に、ヘルムートも納得せざるを得ない。威厳とは、かくも人の目を曇らせるものなのだ。
その後ヘルムートはヴィルヘルミネの着替えを待ち、本日の講義を開始した。
この日、ヴィルヘルミネがヘルムートから受けた講義は、語学と数学、それから神学だ。中でもヘルムートがヴィルヘルミネに非凡な才能があると感じているのは、語学と数学であった。
語学に関しては、世界のイケメンと仲良くなりたいヴィルヘルミネのこと。覚えるのは必然である。もっとも本当にイケメンと仲良くなりたければ、彼女の場合は愛らしい笑顔の一つも学んだ方が良いのだろうが。
一方数学が得意である理由は、彼女のしょうもない性格に起因していた。
ヴィルヘルミネは生粋のケチなのだ。絶対に自分は損をしたくないから、誰かと何かを分けるなら、長さはミリ単位、重さはグラム単位で測っている。
万が一そこに不正を挟む余地があるのなら、自分が得をする為には迷わずズルをするだろう。一方で相手のズルは絶対に許せないから、彼女にとって数学はとても大事なのであった。
さて、この日も講義は午前中で全てが終わり、午後からは自由時間である。食事を終えるとヴィルヘルミネは今日もヘルムートを伴い、馬車で街へと繰り出した。
これも父である公爵に言わせれば、家庭教師を伴っての課外授業となるから、なんと勉強熱心な娘であろうか、と感心することしきりである。
ヴィルヘルミネの向かった先は、フェルディナント公国の公都バルトラインの中心街であった。今日は午後になっても未だ顔を覗かせぬ太陽のせいで、石畳の街は北風に晒され乾燥し、やけに肌寒く感じられる。
落ち葉の舞い散る街路では、コートの襟を立てた人々が早足ですれ違う。そんな中、公爵令嬢を乗せた馬車は、果物や野菜を売る屋台の前でゆっくりと止まった。
屋台の売り子は、歳の頃五つか六つ。年齢的にはヴィルヘルミネと変わらないだろう。馬車から降りた令嬢は、その少女をじっと見て一言――「今日は冷えるな」
「そうですね、ヴィルヘルミネ様」
売り子の少女は両手を口の前に翳し、「はーはー」と息を吹きかけていた。彼女は薄汚れた麻の服を着て、この寒空の下でも裸足である。にも拘らず煌めくような金髪は、どんよりと曇った鉛色の空の下で、太陽のように燦然と輝いていた。
一方ヴィルヘルミネは紫紺のドレスにビロード仕立ての外套を着ている。その格好で「冷えるな」など皮肉以外の何ものでも無い。だというのに少女が反感を示さないのには、とある理由があった。それは少女にとってヴィルヘルミネが、上客だからである。
ヴィルヘルミネはイケメンも好きだが、可愛いモノと美しいモノにも目が無いのだ。そこである日見つけた、この少女を美しいと認識した。可愛いとも認識している。何よりキラキラの金髪が最の高! と思っていた。
一度「可愛い」「綺麗」と認識してしまえば、何としても手に入れたくなるのがヴィルヘルミネという人物の特徴だ。だから近頃はこうしてヘルムートと共に午後、彼女の所へ買い物に来るのが日課となっていた。
「ここから、ここまで――全部買おう」
屋台の隅から隅へと人差し指を滑らせ、ヴィルヘルミネが言った。口元に描いた弧のせいで、何か悪だくみがあるようにしか見えないが、実際彼女の中では悪だくみがあるので仕方が無い。なにしろこれは、毎日全ての野菜や果物を買うことで、目の前の少女を自分に依存させようという遠大な作戦なのだから。
それに毎日野菜を全部買っていれば、この少女が靴くらいは買うことが出来るだろう。もっと良い服を着れば、さらに美しくなるぞ、グフフ――とも思っていた。
「いつもありがとうございます、ヴィルヘルミネ様」
頭を下げて、屋台の前に札を出す少女。そこには「ヴィルヘルミネ様からです、ご自由にお持ちください」と書かれていた。
そう――ヴィルヘルミネは少女が好きなだけで、別に野菜も果物も欲しくは無い。そして、それらを全部買ったところで十ターラー(約一万円)程度だから、月のお小遣いが五千ターラー(五百万円)にも上る彼女には、痛くも痒くも無いのだ。ましてこれは、少女の心を掴む為の投資である。それを思えば、安い買い物であった。
それにしても六歳にして人の心を金で買おうとするあたり、ヴィルヘルミネは本当にゲスである。
あと、さらに言えば、野菜などの品物を持って帰るのが面倒くさい。なのでその辺にいる貧乏人どもにあげちゃえばいい――と彼女は思っただけのこと。けっして善意からではない。
だというのに、その決断をした当初ヘルムートはむせび泣き、野菜売りの少女は感動に打ち震えていた。根がゲスのヴィルヘルミネには、何のことやらさっぱり意味が分からなかったのだが……。
ともかく野菜売りの少女は今日もヴィルヘルミネに頭を下げ、感謝の言葉を述べている。その側でヘルムートはハンカチを目に当て、またも溢れそうになる涙を堪えているのだった。
「本当に――いつもありがとうございます、ヴィルヘルミネ様」
「よい。それよりも気になるのだが――余がここへ通い始めて一月も経つ。その間、いつも野菜を買ってやっているのに、なぜ何時まで経ってもそなたの衣服は綺麗にならぬ? どうして裸足のままなのだ?」
少女の表情が曇り、
ああもう――可愛くって辛抱たまらん! と思うヴィルヘルミネは、思わず震える少女の唇を近くで見ようと、身を乗り出す。
「実は……」
訥々と語り出す少女の言葉を、やっぱりヴィルヘルミネは、全然まったく聞いちゃあいないのだった。
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