ファイナルフェアウェル
ⅩⅣ ファイナルフェアウェル
シリウスらアマノガワ銀河軍特別討伐隊がティエラアトランティスに到着した時、地球人類のマザーランド一派に因る死者は1000万人をちょうど突破した。
10時間足らずで165万人が被害に遭ったことを鑑みるに、宇宙エレベーターが最高速でルナベーヌスから地球を横断するおよそ4日間、91時間での被害としては低調な方だとローラン首相はシリウスらに所見を述べた。
見積もりよりは低調と言えど、1000万人と言えばスウェーデンやポルトガルの総人口に匹敵する数で、被害が拡大するスピードは過去二回の世界大戦を遥かに凌駕していた。
シリウスらは地球に到着するや、ローランを始めとしたティエラアトランティス政府幹部との簡単な挨拶と意見交換を済ませ、すぐに8時間の休養に入った。久しぶりに会う娘をローランは全力の労いで迎えたが、ベガの応対は素っ気ないもので、それを照れだと表現したミアプラキドスがベガに頭を拳骨で叩かれ、かしましい悲鳴をあげた。
負荷低減機能が備えられているとはいえ、時速42万㎞で移動する乗り物の内部に長時間滞在することは身体の制御を不自由にした。
8時間で地球の被害が拡大することは言わずもがなだったが、完璧な身体のパフォーマンスを発揮する方をシリウスは選択しアマノガワ銀河軍はそれに従いティエラアトランティス政府は当然のことと承認した。地球とルナベーヌスとには、大気組成と重力にも不和を催す若干の差異があった。
ティエラアトランティス政府が用意したカプセル型になった休養ベッドに横たわり、ナナユウは目を閉じて激動を振り返った。カプセルの中は特別な空気と睡眠導入剤が供給されているらしく、頭は怖いくらいにクリアで、体の形に合わせて沈み込む寝具はとても心地よかった。
コスモフレアのみんなの顔が浮かんだ。長の瞳が、流れる血と炎に濡れて輝いていた。
それはずっと悲しい輝きだと思っていた。別離と犠牲の中で悲しく輝いていると思っていた。けれど違った。
着陸する前にミアプラキドスが、「地球が見えるよ」と教えてくれた。三重舷窓からナナユウは地球を全景で眺めた。
美しく、青い星だった。深く万物が混ざり合った色模様は完璧に調和して、そこに強い誇りをナナユウは感じた。
長の瞳に似ていると思った。
「生きろ」
彼は悲愴な精神で言ったのではなかったんだと知った。誇りと美しさに燃えて言ってくれたのだとやっと理解できた。心まで食われそうなほど暗黒な宇宙の中で、美しく燃える地球がそれを教えてくれた。
どこまでも沈み込む寝具と導入剤に身を任せてナナユウは眠りに落ちた。星を越えた時差ぼけと疲労の中で、長の瞳がそばで見守ってくれている幻覚を彼女は惜しみなく受け入れた。
「対象は現在、中東の石油コンビナート施設を破壊後、西に進んでいます。攻撃対象が無差別で進撃速度が苛烈なため予測が追いつきません。西に進んだという事は、南ヨーロッパ、アメリカ、それとも下ってアフリカ、南米、はたまた人工環礁かあるいはここティエラアトランティスの存在を知ったか。曖昧過ぎる予測にはお詫びしか申し上げられません。ただし、準備は整っております。いつでも、地球のどこに向けても出撃可能です」
8時間たっぷり取った休養後の出陣前会議で、ティエラアトランティス政府の官房長官が補佐官も含めて勢ぞろいしたアマノガワ銀河軍特別討伐隊に対してそう説明した。ティエラアトランティス生え抜きの高級官僚である彼は、初めて見(まみ)えるアマノガワ銀河軍現元帥と、噂に名高い第5(ベ)梯(ガ)団長と第21(レグ)梯(ルス)団長を前に興奮と緊張を隠しきれず説明の語調が大きく上ずった。
「ヒューストンじゃないか?敵の最終目的は、たぶん俺たちだ。シャウラが子供の一人を討ち取ったからな。素晴らしい功績だ。承知の通り、奴らはルナベーヌスの存在も知っている。恨みを晴らそうと星を越えるはずだ。いつだって、大きな争いの原動はちっぽけな感情だな。自前でも渡航は可能だが少しでも利用できるものは利用しよう、そう考えると思う。だからロケットと技術力が最も盛んなヒューストンだ。スペインにはもう現れたんだっけ?」
「スペイン?いえ、まだです」
具体的な推測と的確な所見を淡々と述べるシリウスの質問に、マザーランドの次の出現地はアメリカ合衆国テキサス州ヒューストンで決定だと確信した官房長官は少し面食らったがすぐに答えた。マザーランドの被害にあった国と地域はすべて頭の中に入っていた。
「ならばバルセロナに立ち寄るな。時間的余裕はありそうだ。待ってるのも違うよな。そうだな、アゾレス諸島、できればコルヴォ島がいいな、ここにしよう。迎撃だが奇襲だ。決まりだな。行くぞ、出陣だ」
シリウスがそう発するとベガ、レグルス、ミアプラキドス、8名の補佐官の順に、そしてナナユウもそれに遅れることなく立ち上がり、アマノガワ銀河軍特別討伐隊は揃って会議室を後にした。
変わらないシリウスの決断の早さと先導までの迅速で洗練された行動に、ローラン首相はすっかり地球の命運を預け、官房長官を始めとしたティエラアトランティスのエリート閣僚らは皆ことごとく憧れて、その後ろ姿を見送った。
アゾレス諸島への移動には大型の飛行船「グランペリカン」号をシリウスは選定した。
小隊での出軍であり、装備も各梯団長とナナユウが専用武器を携帯するのみなので軍備は極少でよかったが、逃走用の小型飛行船と照明弾を積むためと展望デッキを備えていることから、ティエラアトランティスが保有する最大級の飛行船が選ばれた。今回使用するグランペリカン、シャウラ隊が最初に使用したペリカン、ゲイ殺しに使用しマザーランドに叩き潰されたチコペリカンはいずれも量産の汎用機で官房長官は3種の型すべてを用意していた。
「わあ。少し空気が違うね。空の青も薄いみたい」
「ルナベーヌスより大気層が薄いっすからね。太陽光の反射量が違うっす。ていうか、良い天気ー!」
屋外となる展望デッキに出たナナユウとミアプラキドスはそう景色と気候に感嘆し、デッキの船首の柵に手をかけて北大西洋の大空と大海原を見晴らし眺めた。
空には銀浴に光る雲がまばらに浮かんでいて、大海原は波の飛沫を絶え間なく煌めかせ、波の音が海を渡るカモメの鳴き声に合わせてあららかな歌を歌っていた。
「ミアは来たことあるの?地球」
「あるっすよー、一回だけ。入団してすぐの研修で来たっす」
「あんまり、変わらないね」
「そりゃそうっすよ、一応ティエラはルナの親都市だから。あとは海と空しか見てないし。でも、ルナベーヌスよりだいぶ大きいっすよ、地球は。そのぶん、色んな生き物がいて、色んな考えがあるっす。ルナベーヌスじゃ考えられないけど、常にどこかで戦争が起こってる。こんなにきれいな星なのに」
短波長である青色の光を可視化させる、目には見えない大気中の塵を見るような眼をしてミアプラキドスは言った。太陽の光は大気中の塵に当たって屈折しその姿を現すが、大気層が薄いぶん塵の量が少ない地球の方が光の出現率が低く、空はルナベーヌスよりも薄い青色を呈していた。
「いまも?」
「きっと、いまも。さすがにドンパチはないと思うっすけどね。ルナベーヌスで今まで戦争がなかったのはね、地球を反面教師にしてきた成果でもあるんす。戦争が起こる体制とかイデオロギーとかをデータ解析して。だから一概に悪とは言えないの。むしろルナベーヌスにとっては良い実験材料っす。言い方悪いけどね。でも今回の事件で、たぶん露呈するっす。ルナベーヌスの存在もミアたちの存在も。元々、実験場として扱うために地球に姿を隠してたんだから良い機会っすよ。ルナベーヌスの平和もついに脅かされたんだから。なにより・・」
地球の風に靡(なび)く髪をかき上げながら、ミアプラキドスは一息置いてナナユウの方を向いて言葉を繋げた。
「平和(それ)を取り戻すために、ミアたちがいるっす」
目を燦燦(さんさん)とさせて鼻息を荒くし、「どうだ」と言わんばかりの表情で言うミアプラキドスに、ナナユウは面白みを感じ彼女の剥き出しの肩に手を置いて声に出して笑った。思わず笑ってしまったけれど、素敵な意志だと思った。
とても星の命運を懸けた決戦前とは思えない透明で無邪気な笑い声が、地球の海原と大空の間に溶けていった。
「おい、あの二人、できあがってねえか?」
「なにバカ言ってんのよ。いいから、早く連れて来なさいよ。加速始まったら、寒くて凍えちゃうわよ」
それを見ていたレグルスは半分本気で軽口を叩き、ベガが二人の召集を促した。
加速を始める前のゆったりとした飛行船の展望デッキには、大西洋から蒸発する水分を含んだ暖かな風が、彼ら異星人を歓迎するかのように柔らかく吹いていた。
「コルヴォ島周辺の上空で迎え撃とう。デッキからの狼煙(のろし)が開戦の号砲だ。予想通り奴らはバルセロナで停滞している。この速度なら間に合うな」
燃料を液体水素、酸化剤に液体酸素を用いたジェット噴射の推進力で加速するグランペリカン号の、高速で移動している割に静かな船内にシリウスの声が響いた。
時速666㎞で航行するグランペリカン号は目的地であるアゾレス諸島までおよそ90分で到着する予定で、マザーランドらはシリウスの予想通り、自分たちが模倣したサグラダファミリアを鑑賞するべくバルセロナでしばし滞留していた。
ポルトガル領アゾレス諸島は9つの島から成り、コルヴォ島はそのなかでも最小の人口400人の火山島で、シリウスは単純にその人口の少なさからその島を決戦地に選んだ。
シリウスの決定から即座に、ティエラアトランティスはポルトガル政府に向けて避難勧告を発信したが、すぐそこまで迫っている厄災と報せの急にポルトガル政府は為す術がなかった。
「ただし、コルヴォ島上空を通るかは分からない。だからイーシャの火で誘き寄せる。狼煙もイーシャの火だ。俺が合図する。その後ナナユウ、どれだけ遠くてもいい、姿が見えたら目がけて放て。星を越えて求めたエネルギーだ。当たらずとも、釣れるだろ」
船内に響くシリウスの言葉に、ナナユウはビルシャナの杖を握り締め強く頷いた。地球への出発前に、フォーマルハウトにより適性が認められたナナユウの前で、瓶詰めされたエリクサーが室内照明の光に鈍い青色で光っていた。
バルセロナからヒューストンへの直線経路上にアゾレス諸島は広域に見れば確かに入っていたが、そもそもマザーランドが次にヒューストンを目指すかも、目指したとしても直線経路を選ぶかもなにも確証も無かったが、シリウスの予測と指示命令に異議を唱える者は誰一人いなかった。
異議を不用にする実績と信頼に裏打ちされたシリウスの声は、決戦を迎え適度に張り詰めたグランペリカン号の船内に不思議な安心感をもたらし、得体の知れない充足感にナナユウは少し身震いをした。
「誘き出せたら空中戦を交えつつ地上に降りよう。パイロットが優秀だ、うまく着陸してくれるさ。地上に降りたらレグルス、ナナユウを守護しつつ、マグマを使う局面があるかもしれない。ベガ、迫撃がどこまで通用するか限界まで見極めてくれ。意地の一発が最後には戦局を分けるぞ。ミア、ナナユウのそばを離れるな。お前が一番の大役だ。頼んだぞ。ナナユウ、切り札だが使い惜しみはするな。最高の一発をお見舞いしてやれ」
立ち並ぶ面々にシリウスはそう言葉を掛け、エリクサーの瓶を手に取り一息で飲み干した。血分けの儀式の様に、それに倣ってベガ、レグルス、ミアプラキドスも一息に飲み干し、初めて口にするナナユウも臆することなくぐいっと一気に飲み干した。
「おー、男前だねえ」
「いける口じゃない」
「結構、美味しいでしょ?ナナユウ」
初めてのエリクサーは思ったより滋味に富んだ甘い味がして、胃臓に達するとすぐに自分の中のあらゆる細胞が燃えてくるのを感じた。
エリクサーは心にも作用して、心に灯った大いなる火をナナユウは眼を閉じてしばし抱き締めた。
§
サウジアラビアのアブカイク、クウェートのブルガン、イラクのルマイラといった中東の石油施設を破壊したマザーランドは、ある程度地球人類に畏怖と絶望を植え付けたられたと判断し、ヒライスの提言通りヒューストンを占拠(ジャック)すべく北アメリカへと針路を取った。
石油施設を攻撃した理由は、生身ではせいぜい時速36㎞程度でしか移動できない人間の、資源エネルギーを利用した加速に簡単にストップをかけられることを知らしめるためだった。
中東上空を通過する時マザーランドは、地図上では直線で引かれた国境を中東の大地に思い描いた。
強国が引いたあまりにも不自然な直線は、列強や帝国といった人間の集合体が地球に付けた傷跡だとマザーランドは思った。同時に、地球の肌に残る生々しい傷跡を消すことができるのは、自分たちだけだという自負を感じた。
マザーランドが作付けした恐怖の花は世界中の至る所で開花して、その行為に有効な意味などないのに人々は、超常的な化物に姿を見られることを恐れて建物の中にみなすがら引きこもった。日光を受けない恐怖の花は、けれど翻って植物の原理を忘れ、日陰で鮮やかに咲き狂った。
いまだかつてないほど急激に伝染した恐怖は、世界中に張り巡らされた通信ネットワークに次々と投下される無数の鮮明な生映像が煽り拡大させ、かつての世界大戦までは有効だった情報統制の手綱を握れた国家は皆無で、勇断をしたはずの第48代アメリカ合衆国大統領までもが恐怖の花を見事に咲かせた。
「母上、この針路ならばちょうどカタルーニャを通過する。アントニオ・ガウディに会おう」
ヒライスの提案でマザーランドらはヒューストンへの途上、バルセロナに降り立った。
143年の月日をかけて完成された家族(サグラ)の(ダ)ため(ファ)の(ミ)教会(リア)が、無機物だから当然ではあるが、マザーランド一家を人間と化物とを分け隔てることなく厳かに、そして堂々と迎えた。
「美しいですね。なぜ、これほど美しいものを創造できるのに、なぜ、これほどに醜くもなれるのでしょう」
栄光のファサードの前に立ち、マザーランドはそう嘆いた。破壊を繰り返しながらも食事を続けていた彼女の体躯は、栄光のファサードとほぼ同じサイズを誇っていた。
「創造と朽死だけで生きられたら、どんなに素晴らしいのに」
マザーランドはもう一度、そう嘆いた。
破壊行為はマザーランドの心を空虚にした。
ゲイを殺された恨みの炎が消えることは決してなかったが、破壊行為がもたらす空虚は炎を揺らめかせた。破壊行為はゲイへの想いまで破壊するのではと不安に思った。
「中に入りましょう」
マザーランドの提案に、母親よりは大きくならないよう身体サイズを調節していた子供らも人間サイズに一時分化して、マザーランドを先頭にサグラダファミリアの内部へと入場した。
「記憶にはやはり限界があるな。本物は随分と細やかだ」
フランス人学者の知識を基に南極で再現した聖堂より、幾重にも精緻で重厚な内部構造を見てヒライスが言った。
立ったまま石化した木々のような、朽ちた巨人の骸骨躯(むくろ)のような柱群の伸びる先を見上げて、神に相応しい住処だと彼は思った。
ヒライスが見上げた先の天窓から、ステンドグラスを通過する太陽の光が花のように地面に落ちていた。マザーランドはそこに進み、花の光を浴びた。
あちこちに配置された流麗な彫刻群と同じように、意識をもって造形されたマザーランドの髪と顔肌に色とりどりの光の花が溢れ、その美しさはあまりに神聖で、もしガウディが生きて目にすればサグラダファミリアの設計図は更に神に近付いただろうとヒライスは思った。
サグラダファミリア内部はひとつの大きな楽器だった。複雑な構造と組み合わせが風や生物が放つ音を反響し増幅させ、石がそれを吸収し共鳴した。
太陽から咲く花の光を浴びる美しい母には音楽が必要だと思ったヒライスは、リジムゲ、ジジムゲ、ケルビムに動作と目配せで指示をした。
「ハープとファゴットは宗教音楽を」
「シターとバイオリンは古典音楽を」
「ドゥルサイナとタンバリンは民族音楽を」
生誕の門に設置された天使像が持つ楽器を模型して、リジムゲとジジムゲとケルビムが身体から楽器を生成し演奏を始めた。生誕の門の天使像は日本人彫刻家の手によるものだという知識まで有していた彼らの生成した楽器は、名工と比較しても遜色のない出来栄えと音色だった。
自分は現代音楽を奏でるため、ヒライスは鍵盤楽器を生成し演奏した。ピアノとパイプオルガンの合いの子のような鍵盤楽器だった。
思いがけない子供らのプレゼントに、マザーランドは仰ぎ目のままに微笑んで、演奏に合わせて歌を歌った。生まれて初めて歌った歌を。
サイレントナイト、ホーリーナイト、星は光り、救いの御子は。
ゲイへの鎮魂歌(レクイエム)のつもりで歌った。
長い間透明であった旋風のようなマザーランドの歌声に、ステンドグラスを通過した光の花が水面のように朧に揺らいだ。太陽が涙を流して潤んでいるようにヒライスには見えた。
御母の胸に、眠りたもう。
太陽の光がステンドグラスを通過する昼間だったけれど、神の夜を祝福する歌は空間にとても良く似合い、化物とは思えない澄明なマザーランドの歌声は石と完璧に共鳴し、サグラダファミリアのすみずみまで響き渡った。
ゲイへと同じように、晩年のすべての生活をこの教会の中で過ごしたアントニオ・ガウディの霊魂にも、この歌声はきっと届くだろうとヒライスは思った。
演奏と歌唱はおよそ26分間続けられ、結局、マザーランドらはバルセロナに117分間滞在し、その間にグランペリカン号はアゾレス諸島上空に到着した。
§
アゾレス諸島に到着したグランペリカン号は、コルヴォ島とフローレス島の中間の空に待機した。
マザーランドがこの空域から視認できるルートを通るかどうかは分からなかったため、コルヴォとフローレスを除く残り7つの島にティエラアトランティス軍の尉官を2名ずつ配置させ、対象を目撃次第すぐにグランペリカンに連絡を入れるよう計らっていた。
果たして、グランペリカン号が待機を初めて39分後、サンタクルース・ダ・グラシオーザのワイン畑上空を通過するマザーランドらの姿が、グラシオーザ島に配置された空軍中尉に目撃された。
「ナナユウ、南東の方角だ。狼煙を」
空軍中尉から連絡を受けたシリウスは、展望デッキから南東の方角を指さしてナナユウに指示をした。ベガとレグルスの表情に力が入り、ミアプラキドスが大きく頷いてナナユウの背中を押した。
ナナユウは大きく息を吸い込んだ。
晴れ渡る空は太陽光線の青色をどこまでも澄み渡って表現していた。風が全身を駆け抜けて、その優しさにナナユウはつい嬉しくて微笑んだ。
ビルシャナの杖にはめ込んだイーシャの火のクリスタルに、薬瓶から赤い液体を一滴打ちかけると、クリスタルが反応して活動を始めた。微笑みながら自分の血を振りかけるナナユウの様子は狂気などをいとも容易く通り越え、舞い踊るように杖を操る姿は蒼穹の空に美しく映えた。
祈り子の舞いと同じように操るビルシャナの杖から、イーシャの火のエネルギーの迸(ほとばし)りが尾を引いて大西洋の空にオレンジ色の残影を描いた。まるで小さな太陽みたいだった。
(まっすぐ飛びなさい)
ナナユウはそう想いを込めてビルシャナの杖を振るった。
指向性を与えられたエネルギーは南東の方角の風を切り裂いて、モロッコの空を伐り、キリマンジャロの突端を掠め、インド洋の上昇気流に乗っかって宇宙の彼方に飛んで行った。
「さあ、釣れるかな」
あっという間に見えなくなったエネルギーを振り仰いでレグルスが言うや、ナナユウがエネルギーを放った方角の更に東の空に数体の飛行物体の影がちらついた。
「おでましよ」
ベガがそう戦闘態勢を促すと、飛行物体はみるみるその姿をくっきりとさせ、純白に象(かたど)った翼が日の光りに雲よりも白く煌めいた。
「ずいぶんと天使にでも憧れたみたいだな。ナナユウ、あの真ん中の一際でかいのが親玉だ。狙い撃て」
翼を生やしたマザーランドらをそう揶揄して、シリウスはナナユウに誘導弾の発射を指示した。
地上での最大火力のために薬瓶の中の血液は取っておこうと思ったナナユウは、小刀で自身の指先の肉を裂き、流れ出る血をクリスタルに打ち掛けた。4発のエネルギー弾がマザーランド目がけて飛んでいき、その内の2発がマザーランドを守護したジジムゲとケルビムの身体の一部を目に見えて抉った。
「何してんすか、ナナユウ!痛いでしょ!?」
打ち合わせに無かったナナユウの自傷行為に、ミアプラキドスは驚いて流血する指を取り上げた。
「これくらい、平気よ」
気丈にそう答えてミアプラキドスの手を払ったナナユウは、もう一度ビルシャナの杖を振るった。ガードで受けた被害が予想外だったのか、マザーランドらは今度はそれを受けずに躱(かわ)した。
「十分だ、ナナユウ。ミア、手当てを」
更に連発しようとするナナユウをシリウスが制止し、ミアプラキドスに止血を命じた。
「効き目は抜群だが、いかんな、もう再生してやがる」
「畳みかけなきゃダメね。望むところ」
イーシャの火に抉られた身体をすぐに元通りにしたジジムゲとケルビムをオペラグラスで確認したレグルスとベガが、イーシャの火の効果をそう評価した。
「なんとかなりそうだな。すごいぞ、ナナユウ。けどな、自分を傷つけるのは愚かな行為だ。もうするな」
緊張と興奮で息を切らせ上下するナナユウの肩に手を置いて、シリウスは自傷行為を叱責した。
「そうっすよ、ばかナナユウ」
悪態を吐きながら、ミアプラキドスが流血するナナユウの指にガーゼを巻いた。
怒られたのに感じる言葉と手当の優しさに、ナナユウはごめんなさいと素直に謝り、彼方の空に浮かぶ標的をじっと睨みつけた。謝罪の言葉とは裏腹に、あれらを退治できるのならばこの身などどうなっても構うものかと心で念じた。
居並ぶ人間たちの中で段違いに脆弱に見える生物が放つ攻撃を警戒したマザーランドらは、しばらく様子見のためその場に留まり距離を取り、グランペリカン号はその間に、分の悪い空中戦を交えることなくコルヴォ島の大地に着陸した。
§
弔いに及んで、質や量に十分も何も無かったが、26分間ゲイに向けて歌を歌ったマザーランドは、その後サグラダファミリアを支える石化した木々の群れと落ちる光の花の中で静かに目を閉じて瞑想した。
「あなたがいなくてこんなにも悲しい」という子を喪った親の喪失と、「あなたのおかげでこんなにも心が豊か」という生まれて来てくれたことへの感謝と愛を、すべて言葉に変えて手向けるのにおよそ78分間の時間を要した。
探索の13分、鎮魂の26分、語らいの78分、合計117分間のサグラダファミリア参詣の後、マザーランドらはヒューストンに向け大西洋を西に飛び立った。彼らにとって自分たちの住処に模倣したサグラダファミリアを訪れることは、己を神だと自称する者にとって唯一と言っていい聖行だった。
バルセロナを飛び立ってカナリヤ諸島を左手に大西洋を渡っていると、フランス人学者にもシリコンバレーの技術者の知識にもなかった島の群れが見えてきた。
「ポルトガル領、アゾレス諸島ね。特になにもない保養地だわ。ただ、火山島。吹き飛ばす?ママ」
食べた者の中にたまたま島に行ったことがある人間がいたリジムゲがそう説明し、ゲイを殺したマグマの噴出口と成り得る島の破壊の是非を彼女は苛立ちを込めてマザーランドに尋ねた。妹を殺したものは、例え手段だろうと許せなかった。
「いいえ。星は悪くありません。悪いのはいつだって、それを利用し、消費し、使い尽くし、破滅させる者たち」
マザーランドはそう言って、子らに素通りを指示した。眼下の緑豊かな島には、ブドウ畑の実りが風に吹かれて上空からもさざめいて見えた。
ひとつの島を通過して次の島が見えてきた時、前方の空をエネルギーが走った。
「母上」
「ええ。向こうから来るなんて。祈りを捧げた甲斐がありました。あの子のおかげ」
瞬時に、星を越えて求めたエネルギーだと認知したヒライスに、マザーランドはサグラダファミリアでの瞑想を祈りだと表現し、シリウスらの地球への出現はゲイのおかげだと感謝をした。
「目標を変更します。ヒューストンからあのエネルギー、その発信源。ああ、あれですね。ゲイを殺した愚かな連中です。でも、低俗ではない。侮(あなど)らず、確実に根絶やしにしましょう」
繋がれば感覚を共有できるため、言わずとも十分な理解をしているリジムゲ、ジジムゲ、ケルビム、そしてヒライスにマザーランドはわざと言葉を掛けた。自分自身に、憤懣(ふんまん)と侮蔑(ぶべつ)に身を委ねるな、そう言い聞かせるためでもあった。
エネルギーの推進元おおよその方向に舵を切ると、すぐに空に浮かぶ船と、見覚えのある衣装に身を包んだ人間の群れが確認できた。
マザーランドはもう、イーシャの火のエネルギーを求めていなかった。これまでの進撃で、今のままでも地球の征服は可能だとわかったし、何よりゲイを殺した奴らが所有するものを求める行為自体を、彼女はひどく忌み嫌った。
飛行船の人間は、先ほどのエネルギーを弾丸にして4発放ってきた。2発は大きく的を外れ、残り2発は栄光のファサードにも匹敵するマザーランドの巨体を捉え着弾しそうな軌跡を描いた。
エネルギー弾の威力を確かめるため、マザーランドはわざと受けてみようと思った。しかし、「侮るな」というマザーランドの言葉に従ったジジムゲとケルビムが身代わりになって被弾した。彼らの最優先は、後にも先にも母、マザーランドの命にあり、もはやそこにしか執着がなかった。
蓄えた生体的資材を使ってすぐに再生はしたが、損傷具合の苛酷さと広範性にマザーランドは警戒を発した。
「あの攻撃を受けてはいけません。また、摂り込めるものでもない。回避を」
またマザーランドへ着弾しそうな軌跡で飛んで来たイーシャの火のエネルギー弾を、彼らは散り散りになって今度は避けた。それを見て、飛行船の人間の群れの一人が不敵に笑ったのをマザーランドは見逃さなかった。
飛行船はゆっくりと降下を始めていた。
「地上戦が望みか。どうする?母上」
エネルギー弾を放った、こちらを睨みつけてくる人間をやや上空から睥睨(へいげい)してヒライスが尋ねた。どう見ても棒きれの一撃で打倒できそうなか弱い人間だったが、侮ることなく対峙した。瞳に灯る刃がとても脆弱には見えなかった。
「受けましょう。星の大地に繋がることはこちらにも有利。神はどちらか、思い知らせるのです」
星を越えて降り立った特殊な人間を評して、これは地球の神を決める戦いだとマザーランドは表現した。
地球人類にとってその表現は、ちっとも大袈裟でも誇大でもなく、ちょうど真下のコルヴォ島の住人を縮図にして、世界中が同じ恐怖に震えていた。
「青い星の神たちよ。どうか、星に祈りを」
アゾレス諸島から遠い西の曙光の空に向けて、ホピ族がそう願いを懸けた。
§
かつて海賊の上陸から島を守ったというマリア像を尻目に、島唯一の集落を避けて、火山崩落が作ったクレーター盆地にグランペリカン号は着陸した。ジオラマをそのまま大きくしたような景色は、湖がただの水たまりにしか見えず、遠目に見る限り生命の気配はほとんど感じなかった。
グランペリカン号の展望デッキからは縄梯子が下ろされ、逃走用のチコペリカン号が補佐官によって格納庫から外に出された。盆地に吹き下ろす午後の風が、草木と湖の表面を音を立てて走り抜けた。
アマノガワ銀河軍の5名はナナユウを中心にして展望デッキで立ち並んだ。マザーランドら5体は盆地を囲む緩やかな崖の頂上に降り立った。
マザーランドらの降臨を認めてすぐ、ナナユウは、自分の血液の入った薬瓶の蓋を外した。百分の一ミリ公差で加工された放射線遮蔽鉛ガラスの蓋と口が空気を圧縮し解放する可愛らしい音がした。初めから、イーシャの火の全力でいくつもりだった。
「レグルス、手筈通りホットスポットを見つけてくれ、使う場面が来ると思う。ナナユウ、俺とベガで陽動する、渾身の一撃をぶっ放せ。発射の合図はミアだ。敵もかなり警戒している。易々とは当たってくれないぞ。ミア、お前の見極めに懸かっている。やれるな?」
鼓舞にも似たシリウスの指示に、
「了解だ」
レグルスがまず先陣を切り、
「お任せっす!」
ミアプラキドスが信頼に喜色ばんで答え、
「・・・・」
ベガが無言で拳を鳴らした。
「なるべく5体をひとまとめにしてください。一気に打ち倒します」
イーシャの火のクリスタルに一瓶まるまるの血液を振りかけたナナユウは、躍動するエネルギーをビルシャナの杖で抑え操りながら答えた。エリクサーの興奮作用が齎(もたら)しただろう自信のこもった言葉を、シリウスは良好な覚悟だと見て取った。
「了解だ。ベガ、右翼と左翼、どっちにする?」
「右」
「じゃあ俺は左だ。そっちの方が2体も多いが、大丈夫か?」
「そっちの方が上位でしょ」
シリウスたちから向かって、マザーランドの右翼側にはリジムゲとジジムゲとケルビムが、左翼側にはヒライスが陣を取っていた。シリウスとベガは暗黙で、両翼を中央に集める陽動作戦を確認し合った。
「さあ、行くか。じゃあ、頼んだぞ、ミア」
シリウスはそう戦闘開始の発令をして、ミアプラキドスに確認のアイコンタクトを取った。
(俺たちがやられたら、補佐官に任せて逃げろ)
ナナユウには内緒で下されていた指令に、「自分も最後まで一緒に」などという甘言を用いることなく承諾していたミアプラキドスは瞳で強く頷いた。
彼女の本心は甘言通りであったが、語り継ぐことの意義と大切さを、突き詰めれば空虚なこの宇宙でミアプラキドスは十分に理解していた。
シリウスとベガは、縄梯子を使うことなく展望デッキから跳躍した。
エリクサーを服用したふたりの跳躍は凄まじかった。一歩で39メートルの距離を置き去りにし、強化された足腰は難なくその衝撃に耐えられた。
シリウスは黒刀、ベガはヨロイガニの血液が練り込まれた繊維で作られたグラブとブーツを着装していた。
エリクサーと適応した繊維は想定外の事故により偶然発見されたもので、フォーマルハウトを中心とした研究グループはその偶然を、「神のひらめき」、と表現した。地球でもそうだが、いつだって大発見というものは想像力を超えた先から現れるもので、学者はそれを「縁起」と呼び何とか思考を追いつかせた。
高速で進撃してくる2体の人間から、母を守ろうとヒライス、リジムゲ、ジジムゲ、ケルビムは前に躍り出て、矛なる臨戦の体勢を示した。それをマザーランドは美しく伸びた手で制した。
「おそらく、あれらは我ら最大にして最終の敵。趣向を凝らします。ことばは命。ならば、ことばで命を狩れないか。肉体を打倒するよりも、ずっと無惨な傷を与えられる。きっとゲイも喜ぶでしょう。最終的な永訣は、ことばが相応しい、そう思います」
マザーランドの穏やかな命令に、ヒライスらは前進を止め臨戦の体勢を矛から盾に変えた。子らを制し、マザーランドは一歩前に出た。
「「はじめまして、星を越えた人間たち。私の名は、マザーランド。いいえ、はじめまして、ではありませんね」」
緩やかな崖の頂点の汀(みぎわ)から打ち下ろされる声に、シリウスとベガは進撃を止めた。マザーランドの声は、盆地の凹形状を滑らかに抜けて、島中にまで響きそうだった。
「「我らと貴方がたとの心理的距離は遠い。なぜなら、我らは神で、貴方がたもまた、神なのだろうから」」
対話の要求は、シリウスにも想定外だった。ベガは行動の決定を任せるため、シリウスの方に顔を向けた。
「そんな大層なもんじゃないよ、マザーランド」
一度ナナユウの方を向き、イーシャの火のエネルギーの保持を確認したシリウスは、良く通る声でマザーランドに返答した。通過の良い声の質は、彼を地球にとっては神とも映る組織の長たらしめた資質のひとつだった。
「「真実を語りましょう。美しく飾られたことばより、耳ざわりのいい修辞より、病者が天を仰いで叫ぶ自暴自棄の真実を」」
要領を得ないマザーランドの言葉に、シリウスは対話を行う事に決め右手を伸ばしベガに静止を指示した。
「ひとつ聞いていいかな、マザーランド。神だと言うのなら、何のために君たちはそんなに荒ぶるんだ?神様が荒ぶっちゃあ、ダメだろう」
「「あら。そんなに狭量な知見でどうしますか。八百万(やおよろず)、神に定型や唯一を求めてはいけませんよ」」
穏やかな、母性溢れる口調で語るマザーランドに、シリウスはその意図を言葉での屈服にあると察し黒刀を鞘から抜き肩に掛けた。他愛無い問答は無用、そういう姿勢(ポーズ)だった。
「神になって、荒ぶって、なにが望みだ?」
「「新世界の創世、それをしようと思いました。迫害されたものが迫害し、弱いものが更に弱いものを虐げることのない世界へ。私の考えではありません。この子たちの発案。優しくて、慈愛を身に宿した、とてもいい子供たち」」
「父親は、あれか?」
ナナユウが保持を続けるイーシャの火を、肩越しに指差してシリウスは言った。出産に必要ならば、星を越えて求める理由に十分だと思った。
「「ええ。あれが、地球の地下深くで眠っていた私を揺すぶり起こしてくれた。偉大なる父です。それなのに貴方がたが占有するから、求めて荒ぶるのは、いけないこと?」」
「いやあ、当然の権利だ。でも地球にはないぞ」
「「ええ。わかっています。それとこれとは別の問題。尋ねます、強き人間よ。病は害悪だと思いますか?」」
「病?そうだな、言葉自体、害悪だ」
「「病は貧困に比例します。それではつまり、害悪は貧困に比例します。では、なぜ、貧困は偏るのですか?害悪の総数が決まっているのですか?自分が害悪を受けないために、故意に、数の決まった害悪を偏らせているのですか?誰が偏らせているのですか?
飢えて内臓を売る子供がいると知っているのに、何も考えないのはなぜですか?片腕を切り取られて、片足を吹き飛ばされて叫ぶ子供がいると知っているのに、何もしてあげないのはなぜですか?独りぼっちが寂しいからと泣いている子供がいるのに、立ち上がろうとしないのはなぜですか?それが、人間というものですか?」」
「制御は可能だ。つまり、不自然な作為がある。みんな分かってるさ」
「「肌の色の差異が害悪に結び付くのはなぜですか?空疎な自信で他人に唾を吐きかけるのはなぜですか?うなだれる者に差し伸べられる手は、神しかいないのですか?花売りを強制される少女の花を、買ってあげないのはなぜですか?低劣が触れたものは花さえ汚い、そう言いたいのですか?」」
「耳が痛いな。星を違えても優生思想はあるんだって、最近知ったばかりだ」
「「醜いとは思いませんか?同じ形態だから分かりませんか?形態が違うからでしょうか、私の目には肌の色なんて、
能力の優劣なんて、種族の相違なんて、貧富の差なんて、血統の善し悪しなんて、文化の格差なんて、宗教の隔たりなんて、
生まれた星の違いなんて。
すべて同じに映ります。すべてが同じ正道で、すべてが同じ異端。なんならば、差異を求めるなんて自惚れもいいとこだ、そうとさえ思います」」
「それで、一度壊してやり直すのか。まるで積木遊びだな。子供のようだ」
「「経世済民の蓑(みの)を着て、真実を見ないままに糊(のり)と鋏(はさみ)で繋いだような薄ぺらい言論と、目に見えない境を妄信する自分勝手な思想が、グロテスクに肥大しているのが見えませんか?
複雑怪奇に絡まり合って、もう、一度壊さなければ解けません。解こうとした人間もいるはずです。ここに来る前に、とても美しい教会を見ました。けれど、彼にも力が足りなかった。私には、その力があると、自尊が過ぎるでしょうか?強き人間よ」」
「力も理想も十分だ。けどな、すまないが、マザーランド。どれだけ作麼生(そもさん)されても、説破(せっぱ)するつもりはないんだ。そろそろ、限界っぽいしな」
シリウスはそう言って飛行船のナナユウとミアプラキドスをちらりと見やった。ビルシャナの杖に保持されたイーシャの火が、今にも爆発しそうに光り輝いていた。
「そうですか。つまらない男。はやく、我がことばに屈服して、這いつくばって無様に死ねばいいのに」
目論みの外れに声を落とし、マザーランドは苛立ちの炎をそのままシリウスへの物理攻撃に変えた。苛立ちの理由は目論見外れだけでなく、問答相手から発せられる底の知れない威圧にあった。
シリウスのいた大地が、ロケット爆破されたみたいに放射状に抉れた。
「ベガ!」
音速よりも速い攻撃を避けたシリウスはベガに号令した。号令よりも早く、ベガの拳はすでにケルビムの身体を捉えていた。
ケルビムの身体がベガの拳の圧力に負けて吹き飛び始めると同時に、ジジムゲの打撃がベガの左側頭を捉えた。
ベガは自在に伸びるジジムゲの触手による打撃に、カウンターで応戦した。ケルビムからコンマ数秒遅れてジジムゲの身体も吹き飛び始めた。
触手を刃物に形状したリジムゲが、ケルビムとジジムゲが突破される陰死角をついてベガの心臓部を狙った。
完全に捕えたと直感したリジムゲだったが、その急襲は空振りに終わり、反対に左側体に重い衝撃を感じた。回転を加えたベガの脚撃だと気づく前にリジムゲも、ケルビムとジジムゲと同じ方向に吹き飛ばされた。
「ミア!」
ヒライスと対峙するシリウスを確認して、ベガが大声でミアプラキドスに発射を合図した。盆地の形状と生命を感じない自然の静かさが、声を飛行船まで届かせた。
ベガの号令よりも先に、ミアプラキドスはナナユウにイーシャの火の発射を指示していた。
ナナユウによって指向性を与えられた、一瓶まるまるの血液に化学反応したクリスタルエネルギーがマザーランドを目がけて飛翔した。一瓶まるまるの触媒が励起するエネルギーは、まるで仙境から生まれたドラゴンのように輝く尾を引いた。
「回避!!」
マザーランドの怒号よりも早く、イーシャの火はベガの圧力に負けて一塊になったケルビム、ジジムゲ、リジムゲ、そしてマザーランドを呑み込んだ。
ヒライスは戦慄した。イーシャの火に呑み込まれた4体のうち3体が生体反応を著しく減衰させたのが見た目で判断できた。中央に守られた1体、マザーランドでさえ身体を大きく損傷させていた。
「母上!」
呼んだ隙から身体を切り刻まれた。再生が追いつかない速度だった。ヒライスは目の前の敵に集中しなければ全滅だと危機感を加速させた。
「ナナユウ、もう一発!」
追い打ちをかけるベガが叫んだ。シールド状に変態したリジムゲとジジムゲは、防御以外をかなぐり捨てた。ために、咆哮と共に連続されるベガの打撃からマザーランドをなんとか守った。
動いたのはケルビムだった。イーシャの火の威力をかなりまずいと直感した彼は、その発信源を何とかしなければ一気に壊滅だと判断し、間隙をついて地中に潜り込み暗殺者としてナナユウを狙った。ベガもシリウスも、猛攻の最中にあってそれに気付かなかった。
ケルビムの移動は迅速だった。飛行船の裏手から回り、鋭く形状した触手をナナユウの体内に突き刺す算段で、隣の女軍人は構わないことにした。実力の目星がつかなかったし、凶悪なエネルギーの発信源を殺すことができるなら、あとは構わなかった。
ミアプラキドスもナナユウ自身も、彼女に迫る凶刃に気付かなかった。うまくいけば、アマノガワ銀河軍が先手を取った戦局は大きく傾いたかもしれなかった。だが、レグルスがそれを阻止した。
「まさか、ここまで読んでたなんてこと、ねえよな」
飛行船の裏手から奇襲するケルビムを、更にその裏手から突き刺したレグルスが、気付かないままの二人に言葉をかけた。ホットスポットを探索していたからこそ気付くことができた敵の奇襲に、レグルスはシリウスの大局を読む深甚さを呆れたように疑った。
エリクサーで強化されたレグルスの武器に磔(はりつけ)にされたままケルビムは打開策を探り、ヒライスがクリスタルエネルギーを使用してようやくシリウスと距離をとり、ベガの猛攻で確実に疲弊していくリジムゲとジジムゲの隙間から、マザーランドが敵を睨みつけた。事態は何かの終局に向けて、確実に驀進(ばくしん)していた。
簒奪したクリスタルエネルギー、採掘した原子力エネルギー、摂取した生体エネルギー、組み合わせ次第でほとんど無限に近い打つ手がマザーランドらにはあった。しかし、それらを繰り出すどころか考える隙すらアマノガワ銀河軍は与えなかった。マザーランドらは防戦一方の後手後手に回った。
油断をしたわけではなかった。星を越えて遭遇した時から、この2体の人間には危険を感じていた。だから、ウランを集め知識を強化し十分に準備したつもりだった。だけど、2体の人間は、対する危険予知の想定を遥かに逸脱していた。
加えて、イーシャの火の威力に面食らった。おそろしい火力だとは分かっていたが、スピードには分があり対処は簡単だと考えた。だがここも、2体の人間にしてやられた。これ以上ないタイミングで動作を奪われ、被弾し易い位置に整列させられた。
子の盾という、途轍もない屈辱の隙間からベガを睨みつけたマザーランドは敗北を予感した。
体内のクリスタルエネルギーとウランエネルギーを超爆発させれば相打ちにはできるかもしれないが、あくまでそれは可能性で道連れにできる確証はなく、自爆を回避され惨めな自殺に終わればゲイに会わせる顔がないと思った。何より、今一番すべきことを優先するしか術がなかった。
「ダメ!ケルビム!」
マザーランドは叫んだ。自分が考えたことをケルビムが実行しようとしている気配を感じたから阻止しようと叫んだ。飛行船と3体の敵勢力を巻き添えに駆逐するため自身を爆発させよう、ケルビムはそう覚悟を決めていた。
(なんて優しい子)、心で念じながらマザーランドは咆哮した。
「死んじゃダメ!」
咆哮と一緒に、マザーランドは涙を流した。
すでに覚悟を決め実行に移っていたケルビムは、その言葉に一瞬躊躇った。
母に止められることは分かっていた。何を言われても敢行するつもりだった。母の嘆きよりも、母の命の方が大事だった。
しかし、こんなに子供みたいな言い方だとは思わなかった。
マザーランドの幼稚な言い方に、かえってケルビムは愛情を強く感じ、死にたくないと本能が疼いてしまった。
その隙をミアプラキドスが逃さなかった。
事前に、超爆発を想定したシリウスがフォーマルハウトに原子励起を遮断する物質と青色クリスタルを融合させた防御装置を作らせ、ミアプラキドスに持たせていた。爆発からナナユウを守る盾とするためだった。それを、ミアプラキドスはケルビムに投げつけた。
元々、クリスタルを励起する触媒を内包していた盾に、加えてミアプラキドスはナナユウの血液の入った小薬瓶も投げつけた。放射線遮蔽鉛ガラスの割れる高い音が飛行船デッキに響いた。
クリスタルエネルギーが活動し始めた盾は、膨れかけていたケルビムの身体をすっぽりと包み、彼の体内で励起されていた原子の活動を抑制し、青色のクリスタルの諸元力である圧縮の性質を十分に発揮した。圧縮された地球の大気はルナベーヌスと同じように固体化し、ケルビムはレグルスの武器に磔にされたまま飛行船デッキで氷結した。
死亡はしていないが身動きを奪われたケルビムは、氷の結晶の中で何事かを叫んだが、分厚い氷がその叫びを阻んだ。
盾となる部位は摂取した材料から作り上げたものだったから痛みはなかったが、鋭く重く途切れのないベガの打撃が本体の細胞に響いて、リジムゲとジジムゲは意識を保つだけで精一杯だった。
マザーランドが次子として生んだ双子の化物はお互いすれすれの意識で、融合してひとつの生命体になればもう少しましに抗(あらが)えるのではと認識を共通させ、崩壊し続ける身体の陰で本体同士を近づけ合い融合した。母を守るに十分な、より強固な生命体になりたいと切望しての行動だった。
だが目論見は外れ、元々2体が等分に分かれたものが1体に戻ったからと言って特段な機能向上を起こすことはなく、リジムゲとジジムゲはただ1体の命に2体の意識が共存する文字通りの化物と成り果てた。
((このまま崩落するだけなんて、嫌ねジジ。嫌だねリジ。どうしようか?どうしよう?))
ベガの止めどない、星から降る隕石雨のような猛攻撃に、リジムゲとジジムゲはかすれてゆく共通意識で自問し合い、結局ケルビムと同じ結論に至った。
((こいつを止めないと、ママが困っちゃう。ほら、困った、怖い顔してる。わたし、生まれてきてよかったわ。脅威からママを守れるんだもの。ジジ、あなたは?
僕もさ、リジ。さあ、僕が爆風と起爆剤になる。燃え上がれ、リジ。こいつを殺そう、この強い人間と、消滅しよう))
同体の中でジジムゲが先立つ覚悟を決め、リジムゲがそれに答える前に、1体となった彼ら2体は強制的に元の双子に戻され、自爆のための起爆燃焼剤にするはずだったクリスタルとウランもすっかりが奪われた。奪ったのはマザーランドだった。
「許しません。リジ、ジジ。親より先に死のうとするなんて。悪いのは私の不甲斐なさですね。けれど、悲しい。ケルビムへの叱責が聞こえなかったのですか?ごめんなさい、は?」
大きな翼で2体を抱きかかえて保護するマザーランドは、変わらずベガを睨み続け、リジムゲとジジムゲを叱った。
ベガの猛攻に耐え続けたリジムゲとジジムゲの身体は、マザーランドの片翼に2体が仲良く収まるほどに減衰していた。
「「ごめんなさい」」
ケルビムと同じくマザーランドを悲しませる覚悟などとうにできていたリジムゲとジジムゲは、叱られたことよりも結局守られてしまった自分たちの弱さに悔しくて、涙を流してマザーランドに謝罪した。
マザーランドは2体の頭を撫で、あやすようにそれを許した。その優しく慈愛に満ちた感触に、リジムゲとジジムゲは張り詰めた糸が解け死亡に向けて意識を消失した。
(独りになって、生き抜くなんてよりも)
この時点でマザーランドは、ヒライスの劣勢もあって密かに、ゲイに向けた謝罪を睨み目のまま天空に向けていた。
(どこで、なにを、間違えた?)
星の大陸をひとつ滅ぼせるほどの力を持った自分を、一方的に圧倒するシリウスに切り刻まれながらヒライスは自問した。斬撃に再生がまったく追いつかず、母や弟妹に気を配る余裕はとても持てなかった。
(間違えてなど、いないのか。初めから、か)
切り刻まれ過ぎて再生できなくなり欠損した左腕越しに振り返ったヒライスは、リジムゲとジジムゲを保護するマザーランドを見て観念をした。
(ことばは命、か)
マザーランドを見つめるヒライスの瞳は、非情な戦車に蹂躙される可憐な野草を見るかのような色を呈していた。
「教えてくれないか、強き人間よ。なぜわざわざ、あんな遠回りをしたんだ?」
瞳の色を戻したヒライスは、右手で飛行船を指差して言った。ヒライスの瞳の先で、ナナユウが合図を待っていた。
「ん?いや、なあに。君の所と似たような理由さ」
シリウスは子を守るマザーランドに焦点を当てて答えた。
これほどの破壊力を個人で持ちながらなぜ一刀両断で決着をつけてしまわないのか、想定外の威力に確かに面食らったが対処可能なエネルギー弾をなぜ待つのか、ヒライスは疑問だった。この強大な2体の人間だけで、自分達はいとも簡単に駆逐されてもおかしくなかった。
「あれは君の家族か?」
「いや、違うがな。少しさ、娘に似ているそうなんだ。だから自分の命に向き合って欲しくてね。君たちを利用させてもらった」
「我らが何か奪ったからか?」
「いいや、君らじゃない。奪ったのは同じ人間さ」
「我らは多くを殺した」
「人間の方が人間を多く殺してきたさ。自然も多く壊してきた。君らなんてとても及ばない」
「我らを殺すことで、あの娘は救われるのか?」
「そうじゃない。命の使い方を教えるつもりさ。つまり、使命だ。手を汚すのは俺たちだけさ」
「ゲイが死んで、血の狂宴を選択した時から、我らの自壊作用が始まった気がするな。敗北理由はなにかな?」
「経験値の差、だな。せっかくの力なのに、使い方が下手過ぎるよお前たち」
ヒライスの諦観に黒刀を引いたシリウスは、少し説教じみて言った。実際、クリスタルと原子力を使い惜しみされていなければ、ここまでの圧倒はなかった。
「そうか。星を越える予定があった、とは言い訳だな。ぐうの音もでない」
「まだ、生まれたばかりなんだろ?大したものさ」
「・・すまないが、あれを解放してくれないか?終わりを共に迎えたい。完敗だ」
ナナユウを指していた手を、氷結したケルビムに向けてヒライスは懇願した。シリウスはすぐに通信機でミアプラキドスに連絡をとった。
「地球を壊して、すまなかったな」
「良い薬さ。君たちのおかげで共通の恐怖を知ることができた。血で血を洗う無様な戦争も、しばらくは鳴りを潜めるだろう」
帰還したケルビムを抱き寄せて、マザーランドがヒライスに呼びかけの声を送った。ヒライスは振り向いて、言葉なく頷いた。
「強き者、君の名を教えてくれ。知っておきたい」
「シリウスだ」
「シリウス。そうか。ホピ族の言っていた青き星の神とは君のことか。やはり、我らは神などではなかったのだな」
ケルビムの曲解は抜きとして、ホピ族が古来より崇めた神、宇宙で一番大きな天体と同じ名に、ヒライスは宿命と必然を感じて空を仰ぎ見た。空は、星の色を決定づけるようにどこまでも青かった。
§
シリウスとベガに監視されながら、マザーランドとヒライスは、リジムゲ、ジジムゲ、ケルビム、それにゲイの魂を抱きかかえて、体内のクリスタルを主材に天に架かる橋を構築し始めた。
「さようなら。星を越えた人間。もう二度と、会いたくない」
涅槃(ニルヴァーナ)に向けて入滅するかに満願な表情をしたマザーランドは、ベガにそう言葉を残して空に駆け上がった。
「・・・・」
それを追ってヒライスが、シリウスには言葉をもう残すことなく駆け上がり、2本のクリスタルの大樹は大気圏の狭間で1本にもつれ合い、そのまま宇宙へと脱出していった。
「宇宙を墓場にするつもり?」
「だろうな」
万華鏡のように絢爛に深く輝くクリスタルの双樹を見上げ、ベガとシリウスはそう鑑定し、手招きで飛行船の3人に集合を促した。
「はえー、きれいっすねー」
「ほんと。きれい」
天を貫くクリスタルの双樹を振り仰いで、ミアプラキドスとナナユウが率直な感想を漏らした。
「まるで沙羅双樹だな。王が見たら喜ぶんじゃねえか?」
レグルスが似合わない知識を披露し、それに対してミアプラキドスが感心な表情をした。
「釈尊か。確かに喜ぶかもな」
マザーランドとヒライスが生成した2本の橋が、仏教における涅槃の象徴とされる沙羅双樹のように見えるのは、去り際の彼らの表情を見る限り偶然ではないのだろうとシリウスは思った。
「案外、早い決着だったな」
「この力を最初から全力で使われていたら、やばかったさ。なあ、ベガ」
「そうね。だからかしら、ちょっと、後味が悪いわ」
苦い後味は、敵だとはいえ親を守る子を痛めつけたせいだと理解してベガが言った。
「これ、このままで大丈夫か?」
「もう戻ってくることはないさ。それに、地球にとっても忘れじの良い記念碑になるだろう」
「見る分には綺麗だしね」
ルナベーヌスにも地球にも均等に降り注ぐ太陽の光が、クリスタルの双樹を艶やかに照らしていた。どんなタワーよりも高い碑の誕生を祝してか、上空で風が一陣躍った。
「ちょ、ちょ、ナナユウ!漏れてる漏れてる!」
「え?」
星を懸けた戦闘後とは思えぬ呑気さをみせる軍人たちを発破するかに、発射合図を待ったままのイーシャの火のエネルギーが、ビルシャナの杖に収まり切れなく溢れ出していた。
「ちょうどいい、打ち上げろ、ナナユウ。勝利の祝砲だ」
今にも暴発しそうなイーシャの火を慌てて制御するナナユウに、シリウスはクリスタルの双樹に沿っての打ち上げを指示した。勝利もそうだが、マザーランドらへの追福の意味も込めての指示だった。
双樹の根元に立ったナナユウは天空を見据え、暴れるイーシャの火を垂直に打ち上げた。
南天を越えた太陽の光が眩しかったけれど、花火と称していいエネルギーが、光の飛沫となって双樹に沿ってきれいに天へと駆け上った。
それは鮮やかな祝砲で、恐怖に震えていたアゾレス諸島の住民の間に聖鐘となって大らかに鳴り響いた。
「たーまやー。ほら、ナナユウ。ナナユウの根源(ルーツ)の国の合言葉だよ」
ミアプラキドスの誘いかけにナナユウが応える前に、イーシャの火は宇宙へと吸い込まれていった。
降りてきた爽やかな風が揺らす髪を、ナナユウは梳き抑えながらイーシャの火の消えた果てを見やった。
(コスモフレアのみんなまで、届くといいな)
昼間なのに星のように輝いた送り火に、ナナユウはそう願いを懸けた。
§
マザーランドは歌を歌った。
つい先程、サグラダファミリアの中で歌った歌だった。その時はまさか、同じ歌をすぐに宇宙空間で歌うことになるとは思わなかった。
「美しいな、母上」
真空の宇宙空間では空気が振動せず声が届かないから、ルナベーヌスで合流した時と同じように体内でヒライスとマザーランドは会話をした。
「ええ。他の星を輝かせるために、星が命を燃やしているわ。こんなにも理想が広がっている」
燃える恒星とその光熱で輝く天体のオンパレードを眺め、マザーランドは恍惚とした。月を越えた辺りで彼らはもう生長を止め、地球からの酸素の供給を遮断していた。
「我らも、輝いて見えるのかな」
他の星に照らされる、自身の輝きなど分からなかった。
けれど、色取り取りのクリスタルで構築された彼らの一体は、主に太陽に明るく照らされてどの星よりも複雑に美しく輝いて、月の兎がそれに見惚れた。
「さあ。でも、どうでもいいこと。生まれた意味は、大いに誇ったでしょう」
眠っているように見える、リジムゲ、ジジムゲ、ケルビム、それに造形したゲイの姿を微笑み見つめて、マザーランドは、よく眠る我が子への子守歌のつもりで歌った。
「ああ。そうだね」
ヒライスは、生きていたまるでそのままのゲイの隣に横になり、目を閉じた。母の綺麗な歌声が胸の奥を抱き締めて、涙がこぼれた。
酸素が遮断され、呼吸、つまり有機物の分解ができなくなったマザーランドとヒライスは、ゆっくりと死亡に向かった。
(悔恨はたくさんあるけれど、不安はないな)
慈しみ続く母の子守歌を聴きながら、ヒライスもまた、来たる死をゆっくりと受け入れた。
(強く生まれて、良かったな)
自分が与えた死は性急で、これほど感じ入るものではなかったはずをヒライスは思った。
(できることならば、殺したくなんてなかったな)
自身の死を感じ取りながら、認識できない死を他の生命に与えたことを悔恨のひとつだと認め、ヒライスは懺悔した。主は、他のおかげで輝く星のどれでもよかった。
「母上、生んでくれてありがとう」
「こちらこそ、生まれてくれて、ありがとう。おやすみなさい、ヒライス」
ヒライスは、マザーランドにそう伝えて眠りについた。最終にふさわしい、永訣たる感謝の言葉だった。
サイレントナイト、ホーリーナイト、星は光り、救いの御子は、御母の胸に、眠りたもう、夢易くー。
都合の良いように歌詞を少し改変して、マザーランドはそのフレーズばかりを命が終わるまで歌い続けた。
太陽を指揮としたオーケストラの星々が、歌に合わせて伴奏を重ね、彼女の歌声をその輝きでいつまでも讃美していた。
長い間透明であった旋風のような歌声
長い間透明であった旋風のような歌声 円窓般若桜 @ensouhannya
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