マザーランド
Ⅴ マザーランド
それ(、、)は大きく咆哮(ほうこう)をした。美しく伸びやかな咆哮だった。
初めて子を生んだ、喜びに満ちた咆哮だった。
子を生んだと言っても生殖では無く分裂に近かったが、それ(、、)はその行為を出産だと理解し、分裂して誕生した個体を我が子だと認識した。
フランス人の学者と助手とコックを捕食し、自然科学の知識だけでなく詩や芸術に対しても理解を深めたそれ(、、)は、子に「ヒライス」と名を付けた。ウェールズ地方の古い言葉で「もう帰れない場所に帰りたいと思う気持ち」という意味だった。
いつでも親である自分の元に帰りたいと思って欲しい、そう願いを込めて名付けた。
子に名を付けたそれ(、、)は、自身に名が無い事に気付いた。
今後もっと子を増やして、この星に種を拡張するつもりだったから、子供たちがこんな極寒じゃなく、私(、)を故郷だと思ってくれるように「マザーランド」と名乗った。子を生んだ母性からか、それ(、、)は一人称を「私」と女性的に整え始めた。
ヒライスにもっと知識を与えなければとマザーランドは思った。コックの細胞は調理や野営の知識には優れていたけれど、学者や助手の様に包括的な知識は有さなかった。
(優秀な人間を食べさせなければ。動物ではだめ)
南極という極地に来る人間は優秀な者が多いとフランス人学者の細胞が教えてくれた。
もう少ししたら昭和基地という施設に日本人が来る事がフランス人学者の細胞から分かっていたから、それまではヒライスに魚を獲物にして狩りの仕方を教えた。
マザーランドと違って、初めからフランス人学者らの細胞を摂り込んでいたヒライスの学習能力は凄まじく、生後3日目にはフランス語と英語とウェールズ語とスペイン語を理解し、声帯を自分で整形し話す事ができた。
ヒライスは自身の造形を青年の男性に整えた。ダビデ像やナポレオン・ボナパルトらの英雄像をその参考にした。
「母上、貴女も姿を美しく整えるべきだ」
ヒライスはマザーランドにそう進言した。美しい母は、これから生まれてくる兄弟たちの誇りになると最初の子供は思った。
ヒライスの進言にマザーランドは巨大な姿の、下半身を薔薇の花に、上半身をフランス人学者の知識の中で一番美しい女神の造形に変えた。
「どう?ヒライス」
マザーランドはもう完全に、その口調を女性的に変化させていた。
「良いと思う。シヴァ神だね。遍(あまね)く神だ」
男性神のシヴァをヒライスもマザーランドも女神だと誤って認識していたのは、南アジア地方の宗教知識よりも、東アジアのゲーム会社が創作したデザインの方にフランス人学者の知識が偏重していたからだった。ゲームの中で、シヴァは美しい氷の女神として何度も登場した。
ヒライスが誕生して7日後に日本人クルーが到着した。先着のフランス人らと連絡が取れなくなったというのに、日本人クルーは相応の武装をしていなかった。それをマザーランドは落胆して思った。
(あんまり賢くなさそうだ)
とりあえず栄養になればいいかと考えた。
日本人クルーは飛行機でやってきた。
海中に隠れていたマザーランドは着陸と同時に一気呵成に飛行機ごと体内に取り込み、身動きを不可能にした。
まさかいきなり捕食してくる未知の生物がいようだなんて微塵も予測していなかった日本人クルーは飛行機ごと取り込まれ捕食されようとしていたのに、
「なんだもう夜か?」
急に暗くなった舷窓外を知覚して身構えもせずに笑い合った。
姿をスライム状に変え、開いていないハッチのわずかな隙間から侵入したヒライスに日本人クルー4人が気付いたのは、すでに1人が彼の体内に取り込まれた後だった。他の3人はフランス人学者と同じように、結構な間ただ茫然とした。
窓の外の翳(かげ)り、未知の生物の出現、仲間の危機、そのどれ一つにも解答を導き出す事無く、彼らはヒライスに捕食された。
「母上、これも食べてみたい」
ヒライスはそのまま、飛行機を指差してマザーランドにそう言った。マザーランドは飛行機の緊縛を解き、飛行機から少し離れた。
ヒライスは人間を捕食する時と同じように身体をスライム状にして飛行機を体内に取り込んだ。飛行機のサイズにまで身体をゲル化できず、不足分をマザーランドから分けて貰った。
マザーランドが小さくなった分、ヒライスは身体を大きくした。マザーランドはその事に、身震いのする恍惚を覚えた。
「母上、空を飛べそうだ」
そう言うとヒライスは、身体の形状を飛行機に似せて変化させ空を飛んだ。飛行機に似せた姿は、人の背中に翼が生えたみたいだった。
自由自在に、楽しそうに空を飛び回る息子の姿にマザーランドは感激した。マザーランドにもヒライスにも雌雄は無かったけれど、彼女は彼を息子と形容した。
自由を体感する息子がマザーランドには嬉しかった。まだ生まれて一週間目の出来事だった。
「燃費が悪いな」
降りて来たヒライスはそう言って、
「もっと食わなきゃダメだ。母上、他の棚氷に行こう」
マザーランドに移動を促した。
空を飛んで、成長を欲求する息子の頼もしさにマザーランドはほろりとして従った。南極には、他にも人間のいる基地がある事をフランス人の学者も日本人クルーの細胞も知っていた。
海岸に沿って反時計回りにヒライスとマザーランドは進行を開始した。
昭和基地から西に位置するラーセン棚氷の人間やカニクイアザラシを食い尽くし、マリーバードランドを越え南に位置するロス棚氷に至る頃には彼らの存在は人間社会に露わになった。
ラーセン棚氷突端にあったエスペランサ基地で研究を行っていたアルゼンチン人の学者が、
「化け物に食い尽くされている」
そう本国に連絡を入れた。
ノルウェー王室の結婚を記念した海岸より何倍も広大で、基地と人間の多いラーセン棚氷の突端に届くまで彼らは静かに捕食を行った。連絡は異常事態を知らしめるように不自然に途絶えた。
エスペランサ基地でアルゼンチン人の学者を捕食する前、マザーランドは二度目の出産を行った。生まれたのは双子だった。
名を、「リジムゲ」と「ジジムゲ」と名付けた。仏教用語で「すべての真理は縁起し合い、あらゆるものは碍(さまた)げ合うことなく溶け合う」という意味だった。
リジムゲとジジムゲに捕食させようと残されておいたアルゼンチン人の学者はヒライスの体内に拘束され、そこで彼は清らかな水と咲き誇る花々と美しい女の天使に囲まれる楽園を見た。確かに肉の感触と花の匂いを感じた。
楽園は単なる脳への電気刺激だったけれど、アルゼンチン人の学者は天国を見たと錯覚したままリジムゲとジジムゲに食べられて溶けた。
アルゼンチン人の学者が死に際に見た楽園はヒライスの所業だった。生まれてから二週間目には彼はもう、世界に生まれて死にゆく事の意味について考え始めていた。
(冥途の土産とはこういうものか)
アルゼンチン人の学者に見せた夢を、ヒライスは自身の内でそう呼んだ。
リジムゲとジジムゲは、仲良く縦半分にして学者を食べた。
ロス棚氷に到達する頃には、リジムゲは姿を10歳前後の女の子に、ジジムゲは11歳前後の男の子に変形させていた。多民族国家を象徴する様に、アルゼンチン人学者の細胞には世界中の人種容姿の記憶があり、リジムゲは色白のアジア人と北欧人のハイブリッドを、ジジムゲは溌溂としたラテン人をその容姿に選んだ。
ロス棚氷ではアメリカ合衆国が保有するマグナード基地にアルゼンチン軍が軍備を敷いて待ち構えていた。
学者から不可解な連絡を受けたアルゼンチン当局は政府に報告し、政府は大統領に世界に発信するよう呼びかけた。
アルゼンチンから情報を受けたアメリカ合衆国が偵察機を南極に飛ばし、ラーセン棚氷基地の消滅とマリーバードランドを南下する異様物体を確認してすぐに、マグナード基地に戦線を敷く事を、南極に最も近いアルゼンチン軍に要望した。
アルゼンチン軍は、ライフルとマシンガンを主武器としてマザーランド一行の姿を認めるや一斉に掃射した。
アメリカ合衆国、イギリス、チリなどもアルゼンチン軍に協力し派兵や武器支援を行っていたが、跡形の無くなった基地と人間は不可解だったけれど、それでも一国の軍小隊で十分と考えていた。
アルゼンチン軍は保険としてグレネードランチャーまで装備して来たが、銃器の弾幕でカタは着く、誰もがそう考えていた。不可侵が原則の南極への軍事行動の許可はアメリカ合衆国大統領が担保した。
放たれる銃弾の雨の前に、リジムゲとジジムゲが立った。
「すごいね!ジジ!おもしろーい」
「まったく子供だな、リジ」
そう言い合うと二人は身体を大きく広げて銃弾を悉(ことごと)く浴びた。彼らの身体に当たった銃弾は通過することなく全てどこかへと消えた様に兵士達には見えた。
「きゃー!スリルー!だよね!?ジジ」
「はしゃぐなよ、そら、もう一発来るぞ、リジ」
アルゼンチン軍は理屈が分からず、旧式だが十分な速射と殺傷能力を誇るライフルをもう一度一斉掃射した。また子供の形が大きく膨らんで、すべての弾をその体内に飲み込んで消化して見えた。
「げふー、お腹いっぱいね、ジジ」
「満腹感なんか感じないだろ、リジ」
銃弾を浴びて無邪気な二体の生物を眺めて、
(身体サイズを自在に可変して鉄を消化するのか。はは、日本アニメだな)
小隊を指揮する将官は、パニックになってはいけないと自分に言い聞かせながら冷静に混乱した。
「遊ぶな、命に失礼だぞ」
そう弟妹を窘(たしな)めて、ヒライスが剣形に広げた右腕を整列するアルゼンチン軍に向けて振るった。一小隊と銃器がすっぽりと収まるほどに巨大な剣だった。
ヒライスの剣が風を切る一瞬で、28人編成のアルゼンチン軍小隊が消滅した。
滅多に見られるものじゃない戦闘を見物していたマグナード基地の研究者らは呆気に捉え、皆が行動を忘れた。リジムゲとジジムゲが競うように彼らを捕食した。
「母上、銃器だ。これを食えば我らはさらに強くなる」
ヒライスは、
(強くなってどうする?)
そう自問しながらマザーランドにマシンガン1挺を手渡した。
「ありがとう、いい子ね」
マザーランドはそう言って微笑みながらマシンガンを食べた。
(母が喜ぶ。それで構わないか)
ヒライスはマグナード基地を殲滅している弟妹に気付かれないよう、「いい子」と言われた事に喜色ばんだ。
§
戦闘の様子は将官のヘルメットに装備されたヘッドセット型のビデオカメラを通じてライブ映像でアルゼンチン軍部に送られていた。将官は銃列から離れていたため、彼が捕食されるまでの一部始終をビデオカメラは伝えた。
「怪物(モンスター)だ」
アルゼンチン軍部は一時揉めた。すぐさま世界にこの脅威を発信するべきだという意見と、怪物を飼い慣らす事ができれば強大な戦力になるぞ世界の覇権だって握れるぞという意見が争った。
結局、どうやって飼い慣らすかの策案すら出ない懐柔派の意見は棄却され、アルゼンチン大統領はアメリカ合衆国大統領に映像と共に小隊の全滅を伝えた。
アメリカ合衆国大統領は思案した。彼の地に伝えるべきかどうかを合議することなく単独で思案した。
(どうせすぐわかる事か)
ホワイトハウスの執務室の中で独り呟いて、ホットラインの受話器を取った。
ティエラアトランティスの首相ローランはアメリカ合衆国大統領の報告を受けてすぐに首脳会議を開いた。ティエラとはスペイン語で「地球」を意味し、ルナベーヌスへの移住を始めた初期から地球のアトランティスをそう呼ぶ様に改名した。
首脳会議はまず、映像の生命体が地球産かルナベーヌス産かあるいは他の惑星かで意見を交わした。アメリカ合衆国より送られた映像は会議場で繰り返し流されたが、明確な答えと対策は出なかった。
議長を務めたローランは、
「ルナベーヌスに指示を仰ぐ。ルナベーヌスからの回答があるまで生命体には近付くな」
そう決議し、アメリカ合衆国に決議結果を伝えるよう指示をした。
生命体が南極を根城にしている理由は分からなかったが、近付かなければひとまずの脅威は無いだろう、そう考えるのに南極は人類の生態圏から十分の距離があった。
ローランはルナベーヌスのギルガメシュ国防長官へ緊急通信を繋げた。ティエラアトランティスの首相に任命されて初めての緊急通信だった。
「どうしたんだい、ローラン。ティエラからエマージェンシーは初めてだよ、何かあったかい?」
ギルガメシュ国防長官は1コールですぐに応答し、柔らかな言葉でしかし緊張した口調で言った。
「大変だよギルガメシュ。地球にモンスターが出現さ」
官僚試験からの同期に対してローランは、老獪らしく冗談めいた切り出しから危機を伝えた。
「映像があるんだ。送るよ。それで判断してくれ。俺は銀河軍が降りてくる必要があると思っている」
ティエラアトランティスは小政府で、主導権と武力はルナベーヌスにあった。
ただ、ルナベーヌスに比べて温潤な地球環境を好むアトランティス人も多く、大型の機械設備が必要な大規模な研究はその待遇と裁量度から研究者に好まれ、ティエラアトランティスの航空宇宙局で働く事は工学志望者たちの憧れのひとつだった。
人口は231万人で、これはアメリカ国家航空宇宙局のあるヒューストンと同程度の規模だったが、混血も含むルナベーヌスのアトランティス人の2%に過ぎなかった。
だから相まって、ティエラアトランティス小政府の、特に軍事に関する権限は多くはなかった。
「こっちも大変なんだ。聞いてくれよ、宇宙人の襲来だよ。冥王星だって」
ギルガメシュは、ローランの「俺は思っている」という言葉に重みを感じ、46あるうちのどの梯団を地球に、どの梯団をルナベーヌスで対冥王星人に当たらせるかを、電話口とは別に試算していた。
「冥王星人だって?本当かそりゃあ?ギルガメシュ」
「うん。シリウスが言っているよ」
少し離れた所で同じように通信機で会話をしているシリウスをギルガメシュはちらりと見た。話しながら他に気を配るのは得意だったが、シリウスの会話の内容までは分からなかった。
「マジなヤツじゃねえか。まあ、映像見てくれよ、冥王星人もびっくりだけどこっちもびっくりだよ」
ローランは国防省時代の部下だった今やアマノガワ銀河軍第1梯団長、つまり次期長官が約束されている優秀な軍人の顔を思い出して言った。
ジョークが効いてお堅い人間では無かったが、とりあえずで報告をする様な男でもなかった。
「わかったよ、どの梯団を派遣するかはその映像を見てからシリウスと決めるよ。それまでモンスターに大人しくしとくように言っといてよ」
「ベガを送ってくれよ。久しく会っていないんだ」
「考慮するよ。じゃあ」
通話を切ったギルガメシュは既に送られてきていた映像を再生機にもなる通信機で確認した。
思わず嘲笑が零れそうだったが、死人が出ているのだと自粛した。それくらい非現実的な映像だった。通信が終わったシリウスに近付いて声を掛けた。
「見ておくれよシリウス。どう思うね?」
通信機を軍服に仕舞ったシリウスは、ギルガメシュの差し出す通信機を手で制した。
「その前に報告が。ノバラでクーデターが発生。現在、東方基地が制圧に当たっています。エマージェンシーはアルデバラン東方基地長より。救援要請です。相手は見たことの無い武器を持っていると。差し当たりレグルスとプロキオンに向かわせてます」
「冥王星人?」
「十中八九。我々が考えているより根付いていそうです」
「ノバラって小都市だったよね?」
「人口2万6000の地方都市ですが、地形がいい。四方が1000m級の山に囲われほとんど城塞都市の様相を呈しています。すでに官公庁舎は占拠され、8000人のルナベーヌス人が人質になっています」
「8000?他は逃げたの?」
「いえ。残り全員がテロリストです」
ギルガメシュ国防長官は、は?という表情でシリウスを見た。通信機に映された地球からの映像が、アルゼンチン軍の将官が捕食される場面で停止していた。
「1万8000が敵です」
シリウスははっきりと言った。
冥王星人はコスモフレアを丸ごと乗っ取るつもりだったというミアプラキドスの推測はほとんど当たっていた。が、敵にとってそれはすでに、ノバラという成功事例の次段階だった。
「めちゃくちゃだねえ。何か悪い事したかい、僕ら」
1万年の平和のツケが回った様に畳みかける非常事態を皮肉ってギルガメシュは言った。
「そちらは?」
「ああ。これだよ。地球にモンスターが出現だって」
シリウスが映像を確認している間中、間の悪い自分の運命を一通り皮肉ってから、ギルガメシュは顔つきを変えて言った。
「ローラン首相は軍の派遣を要請している。ベガをご指名だったけど考慮しなくていいよ。君が考えるベストを整理して48時間後に答えをおくれ」
ギルガメシュはそうシリウスに命じてから、通信機で秘書を呼びあちこちへ働きかけを始めた。
シリウスは映像データと共に、
「すぐに戻る。各基地長に中央への緊急召集を連絡してくれ」
というメッセージをフォーマルハウトに飛ばした。エマージェンシーは中央基地にも伝達されているとアルデバランからの報告にあった。
早足で抜ける生誕の門ホールの窓に太陽の光が差し込み、ステンドグラスを通過した光が花のようにホールの床に落ちていた。
門窓を抜ける風が王宮を楽器に変えて鳴っていた。
風には匂いがあった。追憶を呼び起こす季節の花の匂いだった。
掴めない光の花に遊ぶ小さかった過去の娘の姿を思い起こし、シリウスは少しの間立ち止まった。
(偶然会えても、もう分からないかもな)
風の匂いが召喚する過去にしばし思いを馳せ、シリウスは生誕の門を抜け自動タクシーに乗り込んだ。
昼間の透明な金星が、王都のすべてを大らかに見守っていた。
§
マグナード基地はひとつの村だった。
100以上の建物があって、3本の滑走路と1体のアメリカ海軍少将の胸像があって、1台のATMと1枚の原子力発電所の跡地を示す銘板があった。
「雪の聖堂」と名付けられた教会もあったが、フランス人学者の知識で知る聖堂とは比べ物にならない粗末なものだった。
「母上、教会を作ろう。貴女が憩う聖堂だ。神の住処だ」
ヒライスの提案にリジムゲとジジムゲが砂で城を作るかのように無邪気に賛成し、マザーランドが、まあ、と発し小さく手を叩いて喜んだ。南極大陸地下5902mに生息したミジンコのようなそれ(、、)だった生命体は、仕草までも完全に女性的に変えていた。
「リジ、ジジ、まずは均(なら)すぞ」
ヒライスの号令に、リジムゲとジジムゲが、はーい、と大きく良い返事をして競うように100を超える建物を破壊し飲み込んでいった。あっという間にマグナード基地村は更地になった。
「重力に逆らわない構造にしよう。自然の秩序に反する建物は非合理だ」
ヒライスはそう言って、リジムゲとジジムゲに柱の組み方を説明するため、天板に錘(おもり)を通した糸の両端を結びそれを逆さにした。
「懸垂曲線だ。天に引っ張られているみたいだろう?これが自力で自重を支える理想的な形だ」
ヒライスは模型まで使って説明したけれど、リジムゲもジジムゲも良く理解できなかった。
これはガウディがコローニア・グエル教会の建造に際して行った逆さ吊り実験に倣(なら)ったもので、マザーランドが最初に食べたフランス人学者の蓄えていた知識だった。
(代が下がると伝達量が減じるのか)
同じ母から生まれた自分と弟妹の知識量の差をヒライスはそう分析した。
ヒライス達は飲み込んで摂り込んだ100を超える建物の廃材を体内で加工し、教会を建設した。
モデルにはサグラダファミリアを選んだ。理由は、摂り込んだ人間の多くが訪れたことがありその美に圧倒され感嘆した、つまり大多数に感動を呼ぶデザインの建物だったからで、マザーランドの住処に相応しいとヒライスは思った。
ガウディが考え、人類が120年以上掛けて建設した建物によく似た聖堂は、ヒライスの監督の下わずか4人工、わずか21日間で完成した。
ガウディは7.5メートルという尺を基本とし、その比例倍数で柱や塔や聖域までの距離を整える事に執心した。
(天啓だな)
まったくの偶然だったが自分達もまた、天地創造に神が要した日数、7日間の比例倍数で母の住処を創造した事をヒライスはそう評した。
「素晴らしいですね、ヒライス。アントニオ・ガウディですか。存命ならば食べたいものです」
マザーランドは聖堂の完成を喜び、そのデザインを描いた今は亡き建築家を彼女なりの最大級で賛辞した。
聖堂の中は木が石化した森の様だった。
知識はあったが見た事の無かった森に、リジムゲとジジムゲは大興奮だった。
「ねえジジ、わたし達のお家。素敵ね。暖かいわ」
「寒さなんかには負けないけど、暖かいって良いものだね、リジ」
二人は木々の様に枝分かれする柱の間や隙間をくるくると行き交い、歌う様に言い合った。
南極の冷たく激しい風から身を守る聖堂は、廃材の中に人間の細胞を埋め込んでいて気温が下がると縮小し互いに擦れ合い発熱するようヒライスは設計した。
だからいつでも暖かかった。
その分エネルギーの補給が必要で、設計者のヒライスに隠れて聖堂は根を南極地下5000メートルまで伸ばし、温水の中からエネルギーを補給した。
(これが自然か。歪なものだ。だが美しいな。うねり(、、、)だ)
フランス人学者の知識にあったサグラダファミリアを出来る限り再現したヒライスは、直線を排除した一見奇抜だというガウディの設計こそが自然に最も則したものであり合理的であるという考えの下、自身の生み出した聖堂に未だ眼にしたことの無い緑の大自然を想った。
聖堂の中でマザーランドは3度目の出産を行った。
(余りに弱体化し過ぎないか)
リジムゲとジジムゲを生んだマザーランドは極端にサイズを減衰させており、3度目の出産をヒライスは危ぶんだ。
「大丈夫。母は強いの」
不安げに出産を見守るヒライスに、マザーランドはそう言って笑った。
自分の心配が見透かされたのか、一般論としての母親の精神的な強さを言ったものなのか分からなかったが、
(守るべきもの、か)
ヒライスはそう思うと、自分の中心部分が頑強になっていくのを感じた。
生まれた4人目は「ケルビム」と名付けられた。旧約聖書に登場する「七つの至高天使」という意味だった。
ケルビムを生んだマザーランドは体躯サイズをすっかり人間と同じに減じていて、誤描された途方もなく美しいシヴァ神の外貌と人間サイズの肉体に薔薇のドレスをまとい休息する母の姿を、
(まさしく女神だ。守るべき女神だ)
ヒライスはそう評した。
僅かながら幼児期のあった自分やリジジジと違って、ケルビムは生まれてすぐに肉体を筋骨隆々な男性に変化させた。強靭さが見て取れる良いデザインだとヒライスは思った。
母を守るに相応しい戦士だった。同時に、マザーランドの出産への適応を見て取った。
「兄者、我には許せぬ事由がある」
生まれてから3日目、天地創造では大地と海が別れ植物が生誕した日にケルビムはヒライスを正面に見据えそう言った。
(やはり、か)
ヒライスはそう思い、
「それは何だ?」
ケルビムに問うた。
「母は神だ。圧倒的な能力を見ただろう?嘗(かつ)てない生命力を見ただろう?比類なき美しさを見ただろう?供物が無いとはどういうことだ?我は許せぬ」
断固と言じるケルビムの瞳の中に、欲求が燃えているのをヒライスは確認した。
(やはり知能が低下している。ほとんど獣だ)
ケルビムの根には破壊衝動が巣食っていて、それを制御する理性が足りていないのはマザーランドの責だとヒライスは思った。
(無理に出産するからだ)
しじま俯き、諭す様にヒライスは言った。
「母上は供物など望んでいない」
「馬鹿を申せ!神に捧げぬ命など何の価値もない!我は天使!神が召使よ!」
ケルビムはそう叫び、廃材で作ったステンドグラスの窓を破って聖堂を出て行った。貫流する太陽の光が、青と赤と緑の破片を輝かせていた。
「せっかちな子ね、ジジ」
「若いんだよ、リジ」
ケルビムの叫びに両手を耳に当てたリジムゲとジジムゲがそう言って笑い合った。
「母思いのいい子なの。許してあげて。すぐに戻ってくるわ」
マザーランドの言葉とは裏腹に、ケルビムは天使の名に違わず翼を造形し海を渡りニュージーランドのテカポに降り立ち、善き羊飼いの教会と星空の鑑賞に訪れていた世界中からの観光客と保養地施設の従業員など1000人近くを虐殺しその血肉を食べた。善き羊飼いの教会の木造壁は血のペンキで歪な真っ赤に染まった。
ケルビムがただ食べるだけに収まらずあたり一面に血をまき散らした理由は、母への献身を言い訳にした低劣な破壊衝動だった。
満天の星空さえも聞いた事のない肉と血を屠る音が、テカポの夜に悍(おぞ)ましく響いた。
開戦を告げるファンファーレ、満天の中にはそう捉えた星もあったかもしれない。
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