(9)恋情
帰着してすぐ、その一言を耳にしたあの瞬間、朔の胸のうちに沸々と怒りがこみあげた。
どうして一言寂しいと素直に言ってくれないのか。
月には心のうちをさらけだせて、俺には心をゆるせない?
では俺はお前のなんだ?
そう問いただしたくなるのをグッとこらえる。
『…………』
嫌い、そう言われることを怖れたからだ。
その一言ですべてが終わってしまいそうで恐かった。
思えば、いつも孤独にさいなまれながら月を心のよりどころとして明宝はただ月を描きつづける。
まるで月こそがもうひとりの自身であるかのように。
それでも孤独を孤独と感じさせまいとして懸命にけどられまいとつとめている。
いつの頃からか、これが如実にあらわれた。
『妾はこの掌上におさまるだけの大切なものがあればそれでよい。それ以上は手のひらからこぼれおち露と消えてしまう。
人の弱さも強さも、本当は誰かのためのものかもしれぬ。人は独りではいきられぬのだから。
誰かのために生きること、すなわち今を精一杯生きるということじゃ。
妾は大切なものを守るために強くなりたいのじゃ』
明宝は目に見えない何かを、こぼれおちないようぎゅと握りしめる。
『妾はこの掌上のものによって今を生かされておる』
ふわりと会心の笑みがこぼれた。その瞬間、朔の心の腑がとくとくと早鐘をうった。
『…………』
ぁぁ……俺だけにその笑みをかたむけてほしい。
でも悲しきかな、それをむけられたのは朔の肩越しの見知らぬ誰か。万人にむけられたもの。
だからその掌上からこぼれおちてしまったであろう朔の心が否定するのだ。
『俺は人の強欲なる醜さも、悪意のかたまりのくせしてなに食わぬ顔で平然と人をあざむくそんな浅はかさも存分にあじわってきた』
その俺が人がどういった生き物であるかなど今さら語るにはおよばない。
『だからさ、明宝のいう誰かのために生かされているとも、誰かのために生きるとか正直俺にはわからない。ーーな、俺は何か間違っているのか? 人として何かたりないのか?』
俺は人ではないから。
人として当然与えられてしかるべき愛情すらもあたえられなかった。
人間もどき。
ならばその線引きはどこにある?
すると明宝は肩をすくめ困ったように眉根をよせて、ふぅ、と息を吐き捨てた。
『ならば妾のために生きよ。他の誰のためでもなく朔自身のために』
『な!?』
俺自身のため? んなことは許されるはずがない。
人の手によって創られたも同然の化け物。生きる資格すらもないに等しい。
『朔よ。生きることに意味を求めてはならぬ。そこに意味など毛ほどにもないのじゃ。大切なものを見つけたその時、はじめてそこに意味がともなう』
それでよしとしょう、そう付け加えた明宝は『今は』といい終えた。
『…………』
ーー今は。
胸の奥がじんとして熱いのはなぜだろう。
なぜ俺はこんなにも腹立たしい?
未来への期待と不安。つまりは自分にも変えていける未来があるということ? 化け物として育てられた自分に?
『!?』
そっか、とハタと気づく。
("ーーーーオレーーーー明宝のことがーーーー")
「ーー起きよーー」
揺り動かされ朔は眠りを浅くして薄く目をあける。
「ーー夢?」
「いい加減起きぬか!」
薄い月明かりに照る青い羽根が鼻先をくすぐる。
くしゅん、とく景気よくしゃみをして瓊蘭のもふもふの羽根に頬をうずめる。
「まだ眠い。着いたら起こしてくれ」
というより見ないでくれ!
顔の筋肉がどうにも緩んで熱ってしまりがなく、今人に見せられるような感じではない。
瓊蘭の羽毛にしがみつく。
「何をたわけたことを! 起きよ! 大事の前に風邪をひきでもしたらどうする」
ごもっとも。
ゆさゆさと腕をひかれた。
そっとしておいてくれぇぇ!
悲鳴にも似た絶叫を心中で叫ぶ。
が、どういうわけか意にはんして掴まれた腕が焼けつくように熱い。
そっか、と頷く。
("ーーーー好き、だから?")
「…………」
とくん、と脈うつ。
("そっか")
意識すればしっくりと心になじんだ。すべてが府に落ちる。これが恋であると。
俺にも人間らしい感情がのこっていたのか。
くく、と咽の奥をならす。
次いで、力なくくったりと羽根にうずもれた。
「……って言ってるそばから寝るでない!!」
生きてきた過去、その轍。決して忘れてはならない原点が記憶として刻まれ、まざまざと鮮やかに眼瞼に蘇った。
そうして立ち返ったことで朔の腹積もりもきまった。
これから何が起ころうとも明宝を傷つける者をゆるさない。
それが誰であろうとも。
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