(8) 暗黙の掟



男は眸をかたく閉じた。



やる気満々、拳を振り上げたその時、ぐぃと袖をつかまれ体制をくずした。



後方へのけぞった瞬間、パン、乾いた音が響いた。



『ーーぇ?』



朔は頬に手をそわせ、目をぱちくりと瞬かせる。



『ぃ、痛い』



一体なにが我が身に起こったのか。つっと横を見る。



朔の眸に写ったのは怒り心頭といったそれまで見たことのない明宝の姿だった。



『痛くて当たり前。じゃがその痛みはそなたが今この者にしようとしていたことと同じじゃ。武をもって人を征することは容易い。だがそれは己の考えを強要し屈服させること。上にたつものは、広い心をもち、ましてや礼節をかいてはならぬ。この者よりそなたの方が新参者ではないか。目上の者にはどんな理不尽極まりなくとも従わねばならぬ。それが宮中での暗黙の掟じゃ。それに従えぬとあれば、うぬが去れ』



『ぐぅ。俺は悪かねぇぞ、俺が悪いのか?』



『まだわからぬのか。良い悪いの問題ではない。やり方そのものが間違っておる。人を屈服させるもの、すなわち委曲をつくし想いを伝える言葉ありきじゃ。ゆえにこの者に謝れ』



『嫌だ、俺は悪かねぇ。そいつが謝るってのなら? 詫びのひとつもいれてやらないでもない。が、俺は悪くねぇ、間違っちゃいね!』



『なんと頑迷な。ーーふぅ。そこな者よ、行け。次は妾とて止めてやれぬぞ』



チラリと横目に見やる。



男はがっくりと膝を折り、そのままいざりながら前進する。



『逃がさねぇぞ! まだ話しは終わって……』



『朔』



明宝の一声で朔は口をつぐんだ。



するとすかさず遠巻きにしていた者たちが男に駆け寄る。



『しっかりしろっ、立てるか? 手をかす』



すまない、居合わせた者の手をかりて男はやっとのことで立ち上がる。



肩腕をまわし、足をひきずるようにして足早にそそくさと立ち去ろうとする間際、ふいに男は立ち止まる。



『覚えていろっ!』



ぺっと行き掛けの駄賃駄賃のように唾を吐き捨てた。



朔も負けじとばかり、男のものより少し遠くへ唾棄する。



が、細く糸をひく。液を手の甲でぬぐい、拳を振り上げる。



『次は容赦しねぇからな!』



男の素行についてかねてより問題視されてきた。



だが寄ると触ると嫌なとばっちりをくうと、誰一人として声をあげようとはせずそれがかえってこの男の言動を増長させた。



官吏としてあるまじき人をさげすむ言動。これぞ典型的な鼻につくお役所気質。



だがこれにこりて男もしばらくの間は自重するだろう。良い薬になったはずだ。



『くっそぅ! 頭にきすぎて身体の震えが止まらねぇ。お前のことなのに何で俺のほうが怒りくるっているんだ? おかしくねぇ? お前はなんで怒らないんだ?』



『仕方のないことじ』



『怒ることですら諦めているような口ぶりなんだな。怒れよ! お前のことだーーーーろ!?』



ぎょとして朔は固まった。



『……ぁ……』



明宝の頬に一粒に雫が伝った。



朔はその一粒の重さを知っている。



知るがゆえに浅はかさに憤った。



握った拳がゆっくりほどかれていく。



明宝の傷をえぐったのは俺だ。塩を塗りたくったのも。



ぎゅときつくひき結んだ唇を押し開いた。



『明宝……ごめん…』



『ーーーーっーーーーぅぅ…………』



明宝はバッと紅唇をおさえた。



声を殺し哭する。



この矜持たかき明宝の根幹がいま脆くも崩れさる。



それでもまだ無理に笑おうとして笑顔が歪んだ。



『笑うな! 笑えねぇんだよ。心を殺して笑おうとするな。今は泣いていいんだーーーーきっと今は亡き蒼王様許してくださる。だから今だけは泣いてくれ。二度と泣かぬと約束をかわした父王のために』



いくそばくの辛苦を舐め、紅涙をぬぐってきた明宝が夜毎枕を塗らし、笑えない現状を打破しようとしてきた。



そんな明宝を追いつめてしまった。



けれど痛みのともなわなぬものなどこの世にありはしない。



何かを失い、犠牲にして。



それでも人は生き続けなければならない。



それが遺された者のつとめだから。



『!?』



『俺に触れられるのは嫌かもしれんが少しだけ我慢しろ』



朔は明宝を抱きよせ優しく頭を撫でつける。



『ーーーー!? そなたの……せ……ぅ……ぅぅ……』



この涙が明宝の癒しになればいい。



『ぁぁ。みんな俺のせいだ。だから泣け』



舌の剣は命を断つほどに鋭い。その言葉ひとつで天にも昇れば奈落の底へ叩き落とされることも。



あの神気あふれる力も喜ばれることもあれば当然罵られることもざらだ。



それでも人のなかに身をおきたい、そう言ってのけるあたりが明宝たらしめる強さにも思える。



一方それを笑って流せる明宝の真意をこの時までははかりかねていた。



『そなた独りぼっちで寂しゅうないのか?』







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