(6) オサナキ君



『着いたぞ』



次にパッと瞼を押し上げると、一幅の名画をみているような山水が目の前に広がった。



鋭利な形の小山、小川のせせらぎ。小さな滝。赤松に紅葉。白樺に桜までもが一同にそろえられ、いずれかの庭園であることがうかがえた。



『ぇーと? ここはどこ!?』



『そなたは守るべきものがなくては生きられぬのか? 存在理由がなければ生きてはならぬのか? 生きることに飽いてはならぬ。また怠ってもならぬ。生は難く死は易し、生きていることに意味がある。これよりここで修行するがよい』



『はぁ!?』



『守るべき者、己の帰る場所。そなたのいう生きる意味がここにあるだろう』



『守るべき者? それって……?』



『逢えばわかる。捨ててしまったことに悔いておるのだろう? なれば次こそ守りきれ。悔恨の念を雪ぐのだ、よいな?』



『ぇ?』



『ではさらばだ、不肖の弟子よ。吾は見守っておるぞ、そなたがどう守りきるのか』



『って! ちょ、ちょっと待ってくださーーーー師匠!! せめてここがどこか教え…………』



朔が言い終える前に伯陽の姿はかき消えた。朔を置き去りにして。その真意もわからぬまま。



『ったく、師匠はせっかちすぎる。庭園ってことは人がいるだろう。庭師とか』



朔は困惑顔で辺りを見回し、踵をかえしてから数歩ほど歩いたその時。



『誰じゃ、誰ぞおるのか?』



図らずも、その出逢いは突然訪れた。



『ーーーーぇ?』



最上級の絹をまとう女児はほてほてと駆け寄り、怪訝そうに朔の顔をのぞきこむ。



『どこの子じゃ? 腹が痛むのか?』



『!?』



女児のこの言葉が朔の心をさらった。



『痛むならばこれを飲むがよい。たちどころに治るぞ』



首から下げた薬入れから一粒の丸薬を取り出した。



『案ずることはない。見た目はアレじゃがこれは仙のものが作った万能薬じゃ、そら』



朔の手をとる。なかばそれを強引に受け取らせた。


遠慮しているとでも思ったのだろう。



『…………』



『そなた、泣いておるのか?』



指摘されてはじめて頬をつたう温かさに気づく。



無償の優しさになれていないものにとって、それがどんなに嬉しい言葉だったのか、きっとこの女児には理解すらもできないだろう。



温かい家族と悪意をもたぬ心優しい人々にかこまれ、なに不自由もなく育っただろう人に。



『ーーーー!?』



自らの弱みをさらけだせるほど朔は大人ではない。


年下の女児となればなおさらだ。



朔は慌てて煤けた袖口で乱暴にぬぐいさる。



『ち、ちがっ! これは鼻水だっ!』



『目から? 器用じゃのぅ』



女児はそれで納得したのか、月夜に照る星のごとく明眸な眸を煌めかせた。



『……ま……まぁな……?』



どこまでも優しい人。腹は痛まぬが、もしこれを捨てたら心が痛む。



もらった手前、手のひらのものをもてあまし、悩んだ末それを口のなかへ放り込む。



女児の気持ちを無碍にせず最良手段だったはず。



『ん!?』



だがこの世のものとは思えぬ不味さに悶絶。しかも超絶に臭かった。


腐りかけの卵のような臭いがして、耐えられずに右眉がピクピクとコオロギのように跳ね回る。



『どうじゃ、もうどこも痛まぬであろう。もし他に困っていることがあれば妾が力になろう。有り体に申してみよ?』



訳ありとでも思ったのか、涙のわけもきかず朔に恥をかかせまいとして居丈高をよそおう。


またそれが小さな女児に気遣われたとあって気恥ずかしくて、なけなしの虚勢に拍車をかけた。



『力になる? プッ。この俺の?』



『そうじゃ? 困っている人を助けるのは人として当たり前のことではないか』



当たり前、そうのたまった。


その当たり前ができないのが人だ。


悪戯心がうずく。


意地悪をしてみたくなった。


本当にできるのかと。



『お嬢ちゃんには俺がどう見える』



『人』



あっけらかんとして言う。


これには朔のほうが面をくらった。


ぽかんと開いた口からポロリとこぼれ落ちる。



『ーー人? ただの?』



女児の目顔がいぶかしみ、眸に困惑の色をにじませながら朔を直視する。



『人いがいの何ものに見えるというのじゃ? 目だって鼻だって人と同じところにあるではないか、人でないのならなんと答えてほしい?』



こんなにも清い眼で朔を直視した者がいただろうか。



『……ごめん』



意地悪をして。



浅ましい人でないものが朔の深淵で巣くっている。


まだこれを制御できず焦燥感にさいなまれることもしばしばだ。



チッと苦々しげに舌をうつ。



すると女児は再び朔を直視する。



『それで、どこへ行きたいのじゃ?』



故郷? それとも老師、師匠のもとへ?



『わからない』



『記憶喪失とは珍しい。そなた、名は?』



『朔。ただの朔だ』



姓は捨てた。故郷とともに。一族もすべて。



その結果、自らの浅はかさに憤った。



『朔、か。ということは、記憶喪失でもなさそうじゃな。どこから来た?』



『あっち。東の方。あとは答えたくない』



適当に指さした。


女児はその指先を見つめ、それとなく察する。



『……もし、行くあてがないのならこの王宮におればよい。妾はこの国の公主、明宝じゃ』



『ーーーー王宮? ここが!? てか公主?』



とんでもない爺だ。王宮になんぞ置き去りにしやがって。



だがこれでこの女児の偉ぶった物言いに得心がいった。



『朔とやら。この国では人を遇するに城府をもうけずとの教えがある。妾の手をとれ朔。そなたは今日より東方朔、そう名乗るがよい。これから妾とともに生きるのじゃ。嫌か?』



小さな手がさしだされた。



小さくて、とても小さいくせに、やけに大きくみえる。



指紋や手相も大変きれいなもので、この清らかな手が無条件に朔を受け入れようとしている。



裏切られ、信じて、捨てられて。



そしてまた信じ、何かが変わる?



『それってーー東から来たから東方の朔?』



心の奥がじんと熱くなった。



『東方朔』



そう反芻するごとに全身ではりつめていた力が抜け落ち、ヘロヘロとその場に崩れる。



それまでの人のためにあった一生に終止符をうち、これから東方朔という自分のための一生がはじまろうとしているーーーーそう思いいたると雨上がりの蒼穹に架かる虹をみつけたように心が弾んだ。



『笑ったな! 無礼であろう。笑うとは何事か。妙案だと思ったのに……』



ぷぅと唇を尖らせた。



こういったところは年相応の反応。


可愛いと言ったら怒るだろうか。



『ごめん、笑ったりして。東方朔か、あんがい語呂もよく存外こきみいい。実にいいよその名前。了解、ご主人様。今日から俺は東方朔だ』



朔は下衣の塵をぱんと払いながらすくりと立ち上がるや、穏やかな口調で言う。



『もう俺の足で立てる。公主様』



『よい。ただの明宝とよべ。そなたは妾の家族となるのだから』



ーー家族ーー



『了解、ただの明宝』




ぽぅと灯る。



朔の心に穏やかで優しい、とても温かなものが。





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