ことだまいのち
針間有年
ことだまいのち
庭に二羽の鶏を発見した。
うっすら降り積もった雪の白に、とさかの赤が映える。窓の
そこではっと意識を得る。僕はフローリングに転がっている。目に入った時計は三時を指している。
娘が上から僕の顔を覗き込んだ。僕が目覚めるのを待っていたのか、娘はにこりと笑う。
「パパ、鬼ごっこしよう」
「いいよ」
僕が床からのっそりと起き上がると、娘はきゃー、と声を上げ、積み上げられた段ボール箱から一冊の絵本を取り出す。表紙には『はやくちことば』。
早速、娘が言葉を放った。
なまむぎ、なまごめ、なまたまご。
その瞬間、何もない
僕はとりあえず、手に持った卵を手近な段ボール箱の上に置き、リビングから逃走を図る娘を追う。
早く捕まえなければ家じゅうが大変なことになるだろう。
引き戸の扉を開け、娘は絵本を開いて元気に言う。
かえるぴょこぴょこみぴょこぴょこ。あわせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ。
「わぁ!」
僕は思わず声を上げた。十センチにも満たないアマガエルが三匹、やがて、六匹現れ、僕の周りを円を描くように飛び跳ね始めたのだ。
「ぴょこぴょこ!」
娘は嬉しそうに言うと、廊下の二メートル先の角を曲がり、階段に差し掛かる。
早く追いかけたいが、カエルに囲まれている。下手に進むと踏んづけてしまいそうだ。
僕はしゃがみ込み、カエルに手を伸ばす。拾って廊下の端によけてしまおう。
だが、予想に反してカエルは僕の手に飛び乗った後、腕を這いあがり、肩に乗ったり、頭に乗ったり。
半袖なもんだから、皮膚にカエルの感触がして、若干の気持ち悪さはあったが、肩にちょこんと鎮座するカエルを見ると怒る気もなくす。
さて、娘との鬼ごっこだ。
僕はカエルを落とさないようにゆっくり歩きながら階段下まで向かう。足音を忍ばせたいが残念ながら裸足だ。ペタペタと音がする。
あかまきがみ、あおまきがみ、きまきがみ。
やはり、気づかれてしまったようだ。僕の到着を見計らったかのように、頭から言葉が降ってきた。同時に巻紙も降ってくる。巻紙が階段から転がり落ちてくる。
危険を察知したのか、カエルたちは一斉に僕から飛び降り、逃げていく。その間にも娘は同じ早口言葉を繰り返し、巻紙を量産していく。
僕は上から降ってくる巻紙に押され、しりもちをつく。と、また巻紙が降ってくる。僕は重みに耐えきれず押し倒されてしまった。
しばらくすると娘はその早口言葉に飽きてくれたのか、巻紙が止まった。
身体にのしかかる巻紙。むやみに手足をばたつかせると絡まってしまい、余計面倒なことになる。なかなかに強敵だ。
僕は仕方なく巻紙を力任せに引きちぎる。和紙でできたそれは引き裂くと柔らかな切れ目を描き、ふわりとほこりを浮かべた。階段上のライトの光でそれはきらきらと光る。
上からくすくすと娘の笑い声が聞こえた。
さあ、鬼ごっこの続きだ。
僕は巻紙を払いのけ、年甲斐もなく二弾飛ばしで階段を駆け上がっていく。階段を上り切り、娘を見つけ、わっ、と声を出すと、彼女は、きゃっ、とはしゃいだ。
娘の歩調に合わせ、ぱたぱたと後を追いかけ、廊下の端で彼女を抱きしめる。
「つかまえた」
娘もまた、私に抱き着いた。とても、優しいぬくもりだ。柔らかくて温かい。それだけで十分だ。
たとえ僕が『パパ』という
階下の玄関からガチャガチャと音がする。
「ママだ!」
娘が僕の手を取り、ちょいちょいと引っ張ったので、一緒に階段を降りる。巻紙をよけ、どこからか戻ってきたカエルとともに玄関扉の前に行く。
扉が勢いよく開く。
「美里、ことだまあそびはダメって――」
そこで彼女の言葉が止まった。
三十代中頃だろう。髪はぼさぼさで、その顔には疲労が色濃く出ている。だけど、とても素敵な女性だ。
「おかえり」
娘が言った。僕も同じ言葉を繰り返した。
彼女は泣きそうな顔で小さく口にした。
「ただいま」
*
引っ越しの手続きというのはこうも面倒なものだったのか。
私はうっすら雪の積もったコンクリートの上を歩く。
マンションから今の家に引っ越した時はすべての手続きを夫が請け負ってくれた。だから、こんな苦労はしなかった。
頼りになる人だったのだ。
感傷に呑まれないように、頭を左右に強く振った。踏みしめられ凍った雪の上を滑らないように歩く。
美里は大丈夫だろうか。まだ小学校に上がったばかりの子を一人家に置いていくのは不安だ。だが、美里を外に連れ出すのも酷な話だ。
あの日から彼女は外に出たがらない。車という存在が怖くなったのだろう。私も同じだからよくわかる。
庭先まで来たとき、私はぎょっとした。そこには二羽の鶏がいたのだ。こんな住宅街に鶏がいるわけがない。
どうやら私が不在の間に、美里がまた「ことだまあそび」をしたようだ。この間、ずいぶん怒ったというのに。
鶏の輪郭がおぼろげになっていく。まずはとさかが柔らかな光となって消えた。続けて顔、胸、翼、脚。あとには何も残らない。
何度見ても不可思議な現象に思わず見入ってしまうが、それどころではない。
鶏が消えたということは、美里が遊び始めてから四十分は経っているはずだ。家の中はどうなっているのか。惨状を思い浮かべてぞっとする。
私は鞄から鍵を探すが、こういう時に限っていつもの場所に入れていない。鞄の中を散々引っ掻き回し、見つけたと思ったら今度はうまく鍵が回らない。
焦っているときほどこうだ。やっとのことで鍵が開き、私は引き戸を引いた。
「美里、ことだまあそびはダメって――」
帰宅早々声を張った私の目に恐ろしいものが映った。
「おかえり」
美里に続けて言ったのは、夫の姿をした何かだった。
それは、それだけは二度とことだまに乗せてはならないと言ったのに。
私の胸はかき乱される。
目の前のそれは夫ではない。美里の作った夫の形をした何かだ。
本当はこんなもの否定しなければならない。だけど、できなかった。
「ただいま」
自分の口から出た弱弱しい声。惨めになった。
美里とそれと私。
引っ越し準備中の散らかったリビングで私たちは腰を下ろす。蛙が段ボール箱の周りを跳ね飛んでいる。
ことだまあそび。
美里は口にした言葉に形を与え、命を吹き込むことが出来る。四十分だけの儚い命だ。
命を与え、命を消す力。これはきっと理に反す力だろう。そして、きっと将来この子を悩ませる力だ。
今のうちにやめさせなければならない。叱って、諭して。今すぐにでも。
だけど、それができない私がいる。
夫の形をしたそれは、あの日の彼の姿のままだ。半袖にゆるいズボン、裸足。
サンダルを履いて、近くのコンビニまで買い物に出かけて、帰ってこなかった。
このくぎはひきにくいくぎだ。
夫にもらった絵本を手に美里は嬉しそうに言葉を口にする。絵本のイラスト通り、木片に突き刺さった大きな釘が現れる。
夫の形をしたそれは必死になって釘を引っ張るが、なかなか抜ける気配はない。それが私を振り返る。
「君も手伝ってくれるかな」
その弱った顔は彼そのものだった。だけど、それは私の名前を呼ばない。私の名前を知らないからだ。
前回のそれもそうだった。目の前のこれもおそらく同じなのだろう。
きっと、ことだまで出来たそれは美里の『パパ』でしかない。与えられた役割はそれだけ。私の夫ではない。
だけど、私は拒めなかった。
「仕方ないわね」
私はそれと一緒に釘を引っ張る。美里が声を上げて私たちを応援する。触れたそれの大きな手は温かかった。
午後三時四十分。それの輪郭がぼやけはじめる。
「ばいばい」
美里は無邪気に手を振る。また、ことだまで作り出せると思っているのだろうか。
私も美里のように穏やかに手を振ることが出来たらよかった。だが、私はそれの、彼の手を掴んでいた。
あの日、私の掌から滑り落ちた手と同じ形をした、その手を。
輪郭の薄れゆく彼は、小さく首を横に振った。そして、私の手を美里の手に導いた。
私ははっとする。そうだ、そうなのだ。私には守るべき存在がいる。幻に心を奪われるわけにはいかない。
深呼吸をして、顔を上げ、私は笑顔で言った。
「ありがとう、さよなら」
彼は頷いた。
その優しい瞳が、少し低い鼻が消え、微笑んだ口元が空気に溶けた。
そこに残ったのは、冬の澄み切った陽光だけだった。
ことだまいのち 針間有年 @harima0049
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます