第二十一話 左尚書令の覚悟
「
「馬鹿なことを言わないでいただきたいものだね。
「典礼部の報告では左官府に『確かに』その緑環がある、とのことでございまするぞ」
「そんなはずがない。そんなことがあってはならない」
もう一度、鳥を飛ばして
「
「
環は典礼部の「まじない」を受けており、持ち主以外のものの手に渡れば色も紋様も抜け落ちるようになっている。だから、環の譲渡や強奪は事実上不可能だ。
環の色味は独特で偽造をするには同じように「まじない」を用いるしかない。
「まじない」を使えるものの多くはその才を糧に国官を目指す。国官という肩書きにはそれだけの価値があるからだ。だから、才人は基本的に典礼部の官僚か通信士として国に属している。
今までの環の偽造は記録に残っている限り、国官ではない所謂「在野」の能力者が「まじない」を施していた。
つまり。
「左尚書令殿、私の口から申し上げるのは大変遺憾でございまするが、典礼部にも内通者がいるようでありますな」
偽りの環が正当な手段で作られているのなら、それを偽造だと断定出来るものはどこにもいない。その最たる例が治水班の
「包大夫、
「典礼部の通信士が内通者でない、という前提が今も有効ならばありましょう」
棕若もそのことを承知しているのだろう。重い溜め息を一つ吐いて彼は言った。
「その『不審な』十五の緑環を捕縛してもらおう」
決意に満ちた言葉に正殿の中がざわめいた。黙々と議事録を残していた書記官が筆を取り落とす。それぐらい、棕若の言葉は衝撃的だった。
その棕若が偽りであるかもしれないとはいえ、緑環の捕縛を自ら進言する。
彼の心中を図る余裕もない。それでも高官たちはすぐに正気を取り戻し、沈痛な面持ちになる。晶矢もそちら側に含まれていた。ただ、彼女も動揺しているのだろう。言葉遣いが普段通りに戻っている。
「
「御史台が文官を捕縛する。それは僕たち人事官からすればこの上ない屈辱だけれど、岐崔の安寧に関わるのなら話は別だ。そうだろう、阿程殿」
「建前は結構だ、孫翁。要は緑環の偽造が認められれば左尚書は難を免れる。律を犯しているのは環を偽造したものだけだ、という結論がほしいのだろう?」
「否定はしないよ、阿程殿。でも、一つだけ覚えておいてほしい」
「何を?」
「僕たち文官にも国を守る為には自らを危険に晒す覚悟がある、ということかな」
柔らかい声で語られた一つの事実に文輝は胸を突かれた。背中しか見えない棕若が今、穏やかに微笑んでいることが声音から伝わる。棕若は真実自らの矜持よりも国の大事を選んだ。何もやましいことはない。だから、彼が庇護すべき文官を御史台に引き渡すことを受け入れた。御史台が必ずしも信じられる機関であるかどうかは既に誰も確かめられない。それでも、棕若は御史大夫を信じて左官府に御史台が立ち入ることを許した。
「さぁ、大夫。十五名、きっちり揃えてもらえるかな? 一体どんな顔で僕の庭を汚しているのか確かめたいものだからね」
「左尚書令殿、私は貴官の報復の道具ではありませぬぞ」
「それでもこれが君たちの仕事だろう? 御史台まで腐敗が進んでいる、だなんて言い訳は聞きたくもないね。君は君の矜持にかけて君の公務を遂行するんだ」
それが出来ないと言おうものなら、棕若自らが言を実行に移してしまいかねない雰囲気だった。晶矢が隣で目配せをする。孫翁は本気で怒っているからこれ以上虎の尾を踏むようなことはするなと何重にも含んでいて文輝は顔色をなくして必死で首肯した。
大夫が今一度大きな溜め息を吐いて手元の鈴を鳴らす。
大夫の出自を語る文はそのまま新しく入ってきた御史台の官吏の手に渡り、大夫が言う。
「一刻待って返答がなければ戻って参れ。手段の如何は貴官に一任する。刃傷沙汰もやむなしと心得よ」
「承知」
言って薄紅を受け取った官吏が典礼部への伝として出立する。
この部屋に入ってまだ一刻ほどしか経っていないのに部屋にいる一同は皆同じように疲れ切って倦んだ顔をしている。
半身を捻っていた棕若が正面に戻り、大夫に言う。
「包大夫、我々にはまだ次の問題が残されているよ。阿程殿、君の懸念は環の偽造だけではない。そうだね?」
「是。続きましては
晶矢の目に再び強い輝きが宿る。どうして彼女はこれほどまでに強く、前向きに立ち向かえるのだろう。尊敬の念を抱く、を通り越して圧倒的な距離感を覚えるばかりだ。
それでも。
文輝はこの質疑の場にあることを許された。
だから無駄に時を過ごしているわけではない。それはわかっているが気持ちが急く。文輝が学び取るべきことは何だ。そんなことを考えながら晶矢と棕若の口上を耳朶で拾う。
中城では小休憩を知らせる鐘が鳴った。今日の御史台に休憩はない。質疑は今もまだ続いている。
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