第六章 御史台にて -後編-
第二十二話 万能の幻
息を吸った。
文輝だけが何も知らないという気後れと、
それでも、文輝が御史台から逃げないのは分別があるからではない。この正殿に至るまでに異口同音に明言された文輝への信頼を裏切りたくはなかったからだ。過大評価かもしれない。ただの世辞だったのかもしれない。何か別の思惑があり、手のひらの上で転がす為の甘言だったのかもしれない。そうだとしても、二人はこの動乱を見届けるだけの器だと文輝を評した。だから文輝は耐えている。いつ来るかもわからない、文輝が必要とされるそのときに恥じ入る自分でない為だけに耐えていた。
そんな文輝の緊張感を見抜いたのかどうかはわからないが、休みなく行われる筈だった審議が一旦中断している。四半刻と区切られた休憩が始まり、御史台の女官が出した茶を飲んでいる。
「
美しい作法で茶を飲んでいる晶矢に問うてみる。その問いに先ほどまでの引き締まった
「このわたしに不得手があると思うのか?」
その悔しさを吹き飛ばすほどの笑みに文輝は目を瞠った。
ああ、やっぱりこいつは別格なんだ。だなんて感想が胸中に湧いた。それぐらい、自信に満ちた笑顔で晶矢が答える。
「茶の良し悪しなどわたしにわかるわけがないだろう」
それともおまえにはわかるのか?
想定していない否定の言葉に文輝は思考停止した。回答の内容と表情が一致していない。その答えはもっと慎ましやかに告げられるべきだ。ぽかんと口を開けて固まっている文輝と堂々たる晶矢の落差に後ろ向きに
「してやられたようだね、
「
同意を求めて身を乗り出す。勢い込んで晶矢への非難を求めたが、棕若は笑ったままどちらの肩も持たなかった。
「という既成概念の価値を奪う。
「わたしは別に孫翁を懐かしがらせたかったわけではない」
茶の良し悪しがわかるわけがないと言ったのとは対照的に切なげに細められた目元が彼女の本音を語る。晶矢は評判だけが人の口を渡り歩き、彼女のあずかり知らないところで神格化されていくのに辟易しているのだ。
その弱音を吐く相手として選ばれた。文輝を驚かせて、晶矢にも出来ないことがあると打ち明けて彼女は安堵している。話している相手の感情の機微がわからないほど文輝は愚鈍ではない。
だから、敢えて文輝は口を噤んだ。
代わりに棕若が晶矢に受け答えする。
「存じているよ。君が
「なるほど、わたしはまんまと孫翁の副官になり損ねたわけだ」
「小戴殿、君が今から
孫棕若という老翁を知っているものは彼の暴言がただの冗談では済まないということもまた知っている。言葉遊びと侮って迂闊に彼の要求に応じようものなら痛い目を見るのは明白だ。文輝は慌てて白旗を挙げる。
「勘弁してください、孫翁。俺に武官以外は務まりません」
「では君も将軍位を目指すのだね? ならばなおのこと二人に老翁の説教が必要だ。戦には直接関係しないことも望んで学びなさい。君たちにならそれが出来る、と僕は信じている」
それが九品の子息として生まれた二人の運命だと棕若は強く言い聞かせていた。
棕若が敢えて改めて訓告したことに文輝と晶矢は顔を見合わせる。そしてどちららともなく表情を緩めて彼の信頼に応えた。
「孫翁、ご心配には及びません」
「そうとも、孫翁。その覚悟がないのならこの首夏がここにいられるはずがないし、あなたもそれを認めなかったはずだ。そうだろう?」
晶矢の言葉は言外に彼女自身の処遇を棚上げしているが、短時間の間にこれだけ意識と実力の格差を見せつけられれば反論をする気もなくなる。文輝は微苦笑を浮かべることで晶矢の言葉を肯定した。
その二人の反応を見ていた棕若が悪戯に微笑む。
「おや? 君たちは齢十七で一人前に九品の矜持を語るのだね。ではその将来が明るい未来の将軍たちにお聞きしようか。小戴殿、君は阿程殿に聞きたいことがある筈だ。違うかな?」
非難ではない。叱責でもない。棕若は文輝たちの強がりを正面から受け取って認めた。そして文輝たちへの評価に見合う対応として挑発を選ぶ。
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