第十八話 言葉遊び

 非常事態だということをようやく文輝ぶんきも理解し始めていた。

 棕若しゅじゃく左官府さかんふの全権を持って左官の潔白を証明しようとしている。晶矢はその疑惑の一欠けらを確証に変える為に詮議の場に出ようとしている。

 これは紛れもない有事だ。

 だが、いやだからこそ、というべきだろう。

 文輝の胸中には一つの疑問が浮かび上がった。


「敢えてお聞きしたいのですが、孫翁そんおう。その非常事態にこのように悠長に言葉遊びに興じている余裕があるのですか?」


 右官府うかんふで起きたのだろう事件の全容もわからない。左官府のどの官吏が何の罪科つみとがで罰せられようとしているのかもわからない。

 それでも、一つだけはっきりしていることがある。

 有事は文輝の理解を待ってはくれない。

 それを肯定するように棕若は静かに首を横に振った。


「ない、と僕は思っているよ」

「わたしもその見解に同意する」

「ならば――」


 先を急ぐべきではないのか。そう反駁しようとした文輝の言葉は棕若の微苦笑で遮られる。晶矢しょうしが呆れた顔をしていたから、多分彼女は棕若の意図を知ってそれでも文輝に忠告を与えたのだろう。

 棕若が不意に真剣な眼差しで射る。文輝は棕若の持つ雰囲気がぴりと引き締まったのを感じた。


「気を悪くしないでほしい。僕は君を試そうとした。そのことについては深く詫びよう。ただ」

「ただ?」

九品きゅうほんの矜持がないのであれば僕は君を大夫たいふのところへ連れて行くわけにはいかない、と思ったからね。もっとも、それは僕の杞憂だったようだけれど」


 物見遊山ものみゆさんにはならない。棕若は言外にそう言っている。

 有事の重みを自らの目で確かに見る。その経験を与える為に文輝は同伴された。だから、遊びの気分はここで置いて行けと言われているのだ。

 遅ればせながらそれを理解した文輝は背筋を正して棕若に応える。

 晶矢の望みは棕若を論破することではないのだろう。その過程を経るかもしれない。それでも、その先には岐崔ぎさいの益たる結論が待っている。二人はそれを確信しているからここに来た。


「状況はわたしと孫翁の陳述を聞けばおまえにも伝わるだろう。納得が出来たなら先へ進むぞ、首夏しゅか


 晶矢が促し、三人は再び回廊を歩きはじめる。

 彼女のその覚悟と胆力はどこから来るのだ、と感心すると同時に家格の差と立場の差を感じた。世間は九品を一括りにするが、二人の間にはこれほどまでに距離がある。

 ほんの少しだけ無力感を覚え、そしてそれは感傷にすぎないと自嘲してかき消した。

 鏡面の石畳はまだ続いている。


 門兵の案内で辿り着いた回廊の果てには白木造りの正殿せいでんがあった。案内はそこで終わり、門兵は階段の手前で叩頭する。棕若がそれを目線で受け止め、黙って段を上った。晶矢に続いて文輝も段を上るとそこには見たこともない荘厳な広間が三人を待っていた。

 言葉もなく、その光景を受け入れる。最上段に座っていた男が「大夫がお話を伺うそうです。中へ」と案内を引き継いだ。促された三人は揃って正殿の中へ踏み入る。室内は薄暗く、大夫が上座に座っていた。向かって左手に大夫付の通信士つうしんし、右に副官が二人並んでいる。副官の後ろには大きなむくの扉があり、そこだけが何の装飾も施されておらず、豪奢な部屋の中で逆に存在感を持っていた。


「おかけになられよ」


 文輝たちが中に入ったことを確かめた大夫が上座で発言する。御史大夫ぎょしたいふの位階は左尚書令さしょうしょれいのそれよりもやや劣る。にも関わらず、大夫が左尚書令である棕若に高圧的な態度を取れるのはひとえに棕若の管理能力を問うているという右官府からの書状があるからだ。御史台にとって疑わしき相手、罰すべき相手に振る舞うべき敬意はない。たとえ出自が九品三公さんこうであろうとも、平民であろうとも、関係がないし、位階の上下に臆すこともない。御史台の詮議の前には出自など大した意味を持たないというのを大夫は言葉一つで表した。

 棕若はその高圧的な態度に臆することも不快を顕わにすることもなく、用意された三脚の胡床いすのうち、前列に置かれた一つに座る。晶矢がそれに続き、棕若の右斜め後ろに着席した。消去法で残った胡床が文輝の場所ということになる。恐る恐るそこに腰を下ろすと、全員の着席を確認した大夫がゆっくりと口を開いた。


「『国家存亡の危機』を懸念して来られたとお聞きしておりまする。まずはその主張をお聞きいたしまするが、よろしいか」


 大夫の問いに「はい」が唱和する。棕若と晶矢が一様に緊張感を持って詮議の開始を受け入れた。


てい案内官あんないかん殿。右官府は何を懸念しておらるるのでしょう」


 晶矢を阿程あていと呼ばず、肩書きが呼ばれる。大夫が晶矢を一人の官吏として扱おうとしているのがそこに見えて文輝は御史台の品格を感じた。呼ばれた晶矢もそのような呼称が用いられるとは思ってもみなかったのだろう。短く息を呑む音が聞こえる。それでも、流石は晶矢といったところか。彼女は次の瞬間に再び鋭い眼差しを取り戻し、自らが運んだ薄紅の内容を再び諳んじはじめた。

 大夫は顔色一つ変えずに晶矢の訴えを聞いている。副官の片方は書記官を兼ねているのだろう。訴えが記録として残されていく。棕若がそれをどんな表情で見ているのかはわからなかったが、彼の背中には確固たる信念が宿っているように見えた。

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