第五章 御史台にて -前編-

第十七話 大らかな武官見習い

 内府ないふ御史台ぎょしだいの中は文輝ぶんきが想像していた以上に広大だった。鏡面のように磨かれた石畳がずっと続く。左尚書さしょうしょの回廊も随分長いと感じたが、御史台のそれは比べるべくもない。回廊のない右官府うかんふの方が異質なのかと思うほど、果てが見える気配がなかった。

 楓が終わると竹、竹が終わると椿という風に季節を逆に追っていくように並木が変わる。その変化を興味深く観察していると晶矢しょうしが苦く笑いながら「首夏しゅか」と名を呼んだ。彼女自身も御史台の中へ入るのは初めてのことだろうに落ち着き払って凛としている。


「首夏、御史台の中が珍しいのか」


 珍しくない道理がない。内府の中に入るには正当な理由が必要で、たとえ九品きゅうほんといえどもそう簡単に許可が下りることはない。内府に三つある役所の中でもとりわけ御史台は敷居が高く、係累を辿ってもたいの家に大夫たいふ――御史台の長官に公務で面会したものはいない。

 百六十年続く系譜の中で文輝がその最初の一人になろうとしている。

 この事実が心を浮かせないのなら、それはもう官吏としての名利を失っているのと同義だ。あらゆる意味で官吏然としている晶矢でも、幾ばくかは心が揺れるだろうと反論する。晶矢はそれに大らかに笑って答えた。


暮春ぼしゅん、お前はどうなんだ」

「珍しいとも。だが、わたしはその好奇に勝る宿命を負っているからな」

「またそれだ。俺はてっきり、お前も『何の文を運んでいるかも知らないてん』の仲間だと思っていたんだがな」

「伝えそびれたことは詫びる。だが、今はときではない」


 左尚書の控室で彼女と対面したとき、文輝は晶矢もまた家格を盾に取った中身のない伝なのだと判じた。だが、事実はそれと異なる。右官府で爆発事件が起き、晶矢はそれを皮切りに伝ではなく、実権を持った使者として振る舞った。文輝一人が勝手に勘違いしていた。それを悔いる間もなく事態は進展している。


「なぁ暮春。お前は誰と戦ってるんだ」


 晶矢は本当に左尚書を相手に大立ち回りをする気なのだろうか。同じ九品のものである棕若しゅじゃくの面目を潰すのが彼女の本懐なのだろうか。文輝にはその辺りのことが今も理解出来ない。造反の証左を集めて左尚書に乗り込んで、左官さかんたちの非を糺して、そのあと、晶矢がしたい何かが見えてこない。大義は、と問えば晶矢の足が止まった。つられて文輝の足も止まる。晶矢の先を歩いていた棕若が興味深そうな顔で、彼もまた立ち止まって二人を見ていた。


「おまえにはいずれ知れることだ。先に言っておく」


 不意に厳しさを増した眼差しで晶矢が文輝を見た。その輝きの強さには可能性ではなく、確信が滲んでいて文輝は思わず及び腰になる。


「不安を煽るような言い方はやめろ」

「仕方がないだろう。おまえが幾ら大らかな性質をしていると言っても武官としての素養がある以上、この話を聞けば無関心ではいられまい」

「だから――」


 そういう不確定要素を切り取って誇張するのはやめろ、と反論するより早く、強く、晶矢が次の句を放った。


「首夏、これは国家の根幹を揺るがす可能性を持った事件だ。このまま黙認していればこの国は荒れる」


 国ならばとうの昔に荒れている。荒れていないのが首府しゅふである岐崔ぎさいだけだということは幾ら半人前の見習い官吏といえども、文輝もまた承知している。だから、晶矢が言っているのはそのことではないのは理解出来た。

 ただ、それ以上のことが伝わらない。

 文輝が頭の上に疑問符を浮かべたのに気付いた棕若が回廊を少し戻ってきて会話に加わる。


阿程あてい殿、小戴しょうたい殿に配慮したにしても表現が柔らかすぎると僕は思うのだけれど?」

孫翁そんおう、事実をありのまま伝えても問題のない相手と問題がある相手の区別をなされよ。そこな小戴は九品の三男の育ち。ぬくぬくと守られて育った貴族の坊ちゃんに有事の重みは些か過ぎるとはお思いになれないのか」


 晶矢の言は表面上、文輝を庇う形になっているがその実小馬鹿にされているのとさして変わらない。同じ十七の中科生にこれほどまでに慇懃無礼な誹謗を受けるのは心外だ、と表情で伝えると、晶矢の顔色が曇る。彼女の失態を認知したのではない。文輝が棕若の挑発に乗った、という失望が晶矢の顔色を変えさせた。

 文輝もまた自らの失態に気付いたが、挽回の機会は与えられない。

 棕若が苦々しく言葉を続ける。


「九品の出ならば有事の重みに耐えるのが必定。僕は小戴殿も等しく現実を知る義務があると思うのだけれど、どうなのかな、小戴殿」


 挑発的な問いを向けられる。晶矢が眼差しで上手く躱せと言っているのが見えたが、そう出来るほど文輝はまだ成熟していない。九品の品格を盾に取られれば当然、それに恥じぬだけの振る舞いをしなければならない、という義務感に駆られた。


「それは岐崔をも災厄が襲う、という意味でしょうか」

「災厄と言えば災厄だけれど、天災ではないね。人が引き起こす。動乱だと言えば小戴殿にも伝わるかな?」


 その予兆を文輝以外の二人は知っている。文輝は安寧の岐崔しか知らない。動乱など峻険な山々の向こうだけで起こる、いわば伝聞の産物だと思ってきた。

 それが今、岐崔でも起ころうとしている。

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