第十六話 随身

 二通の文がするすると細い糸に変わり、そして二羽の小鳥の姿になる。小鳥は歌い終えた通信士の肩にとまり、そして彼の指示に従って右官府うかんふへと向けて飛び立った。通信士つうしんしはそれを見届け、一礼して尚書令しょうしょれい室を出て行く。

 通信士の背を見送った棕若しゅじゃく香薛こうせつに後のことを指示し、内府ないふへと向けてつ準備を始めた。文輝ぶんき晶矢しょうしもそれにならい、身支度を整える。香薛が気を利かせ、三人分の遅い昼食を用意してくれたのを食べた。岐崔ぎさいらしい、素材を活かした薄味の肉饅頭を頬張りながら食事には文武の別がないことに心のどこかで安堵した。


「香薛、何か進展があれば気兼ねなく内府まで鳥を飛ばすのだよ」

「心得ております」

阿程あてい殿、小戴しょうたい殿。食事はもう終わったかな?」


 その問いに「はい」が唱和した。棕若が穏やかに笑う。

 そして三人は揃って左尚書さしょうしょを後にした。ここから内府・御史台ぎょしだいの役所まではほど近い。中城ちゅうじょうの南半分に左右官府が、北半分に内府と禁裏きんりとが配置されている。左官府では北端にあたる左尚書から内府に向かうには一旦大路おおじに出るしかない。大路を北上すると内府の正門があるので、それを潜る。内府の中は武装が禁じられており、文輝と晶矢は自らのいていた刀剣を預けた。文輝は内府の内側に入るのは今が初めてだ。首府しゅふである岐崔ぎさいは原則的に石を用いた舗装が施されているが、内府の中は別格だった。磨き上げられた石畳が寸分の狂いもなく続いている。歩むべき場所とそれ以外の場所が区別され、道の両脇には玉砂利が敷かれていた。右官府でも左官府でも明け方に積もった雪が道端に残っていたがここではどこにも見当たらない。手の入れ方が違うのだ、と直感的に察した。

 畏怖すら感じる静謐せいひつな空気に文輝は思わず生唾を呑みこんだ。ここにいてもいいのか、と本能が自問する。棕若と晶矢との様子を窺えば、二人とも泰然としていた。自分一人が場違いだ、と文輝は胸中で思う。御史台に着けばこの気持ちはいっそうつのるだろう。わかっていて、それでも右官府へ逃げ帰るという選択はしなかった。分別があったからではない。良識が責任を感じさせたからでもない。何の力も持たないかもしれない。それでも、顔見知りの二人の行き着く先を見届けたいと思った。それぐらいの願いなら許されるだろう。

 勝手に決めたその答えを胸中に抱いて文輝は二人に続く。内府の中は役所と言うよりは神殿めいていてひっそりとしている。正門から続く石畳が最初に枝分かれした地点で二人は迷うことなく東を選んだ。そこからしばらく歩いた先にその建物が見える。荘厳な門の扁額へんがくに「御史台」の文字。門に扉はなく、代わりに門兵が二人立っている。三人の姿を視認した門兵が長槍の穂先を向けて構えた。

 警戒の域を超えた敵意に文輝は反射的に腰帯こしおびに手をやるが、そこに剣はない。先刻、内府の正門で預けたことを思い出し、苦笑する。普段腰にあるものがないというのがこれほど不安を生むのだということを痛いほど感じた。隣の晶矢も同じことをしたのだろう。棕若の後ろで武官見習いが二人、ありもしない刀剣を構えようとしていた。

 棕若は衣擦れの音でそれを察したのか、諸手を挙げて門兵に闘争の意思がないことを表現する。文輝の目の前で左手、晶矢の目の前で右手が揺れる。それを視認して二人ともが慌てて攻撃姿勢を解いた。御史台の門兵が長槍ちょうそうを構えたまま問う。


「左尚書令・そん棕若殿とお見受けするが、当地に何の用件か」


 内府の官は必ず左右官府の英才から引き抜かれる。というのは知識として文輝も認知していた。英才である彼らには文武官の要職ようしょくにあるものの識別が出来る、ということも知っている。それでも、目の前で迷うことなく棕若の名を言い当てるのを見ると驚かざるを得ない。

 文輝が棕若の姿かたちを知っているのは九品きゅほんの子息だからだ。

 だから、文輝には九品の出身でない府庁やくしょの長官の顔と名前を一致させることが出来ない。

 感嘆の息を吐く。隣で晶矢が呆れ顔で嘆息したから、多分彼女の中では全ての府庁の長官の顔と名前が一致するのだろう。

 背中の向こうで起こっていることを完全に無視して、棕若は門兵に応える。


「貴殿らに確かめていただきたい儀があって参った次第。大夫たいふにお目通り願いたいのだが?」

随身ずいしんをお間違えのようだが?」


 皮肉めいた笑みを浮かべた門兵の指摘に、棕若は「おや? 内府に赴くのには随身が必要なのかな?」と皮肉で応酬する。随身というのは高官が外出する際に警護として同伴する武官を指す。棕若は随身を伴えるだけの高官ではあるが、文輝も晶矢も護衛官に任じられるだけの位ではない。そのことを嘲っているのだと知っていて棕若は皮肉を返した。禁裏の表玄関に立地し、その正門で刀剣の類を必ず回収する内府で心身の危険があるのならば、今後は剣を持って入らねばならない、と言外に含めることで門兵は閉口した。

 沈黙を肯定とみなし、棕若は言葉を続ける。


「それに、彼らは随身ではないよ。共に大夫にお聞かせしたいことがあると申すので同道しただけのこと」


 随身でもそれが叶うのなら、そういうことにしておいても僕は構わない。

 どうかな、と棕若が問い返したところで門兵は二人揃って穂先を収める。


「その物言い、確かに左尚書令殿であらせられる。阿程殿、小戴殿にも非礼をお詫び申し上げる」

「大夫にご用向きとのこと。すぐにでもご案内申し上げますゆえ、取り敢えずは中へ」


 門兵の片方が一礼して中へ消える。言葉の通り、大夫――御史台の長官へ取次に出たのだろう。残った一人が身を引いて門の前を譲る。棕若は「そう」と返答をして泰然とその門を潜った。文輝が晶矢の後を追って門の内側に入ると残った方の門兵は敬礼の姿勢で三人を見送っている。

 門の向こうにはまた石畳が続いていた。紅葉した楓が両脇に並び、視界が赤に染まる。文輝の頭より少し高い位置の葉の上に薄っすらと雪が残っていた。

 赤と白の対比に文輝は城下にあるたい家の屋敷の庭を不意に思い出した。今はもう亡くなったが工部こうぶの長官だった文輝の祖父は造園がことほか好きだった。だから、戴家の庭は彼の趣味で季節ごとに美しい色彩を持っている。見慣れない御史台の役所の中に見慣れたその色があることが却って文輝を落ち着かせた。


「首夏、何をしている。置いていくぞ」


 晶矢の声が聞こえて文輝は自らの足が止まっていたことを知る。ああ、と生返事で答えてもう一度だけ雪を被った楓を見た。横風が吹いて葉が揺れる。その度に雪が水滴に変わって消えていった。

 その軌跡を追うことをやめて文輝も先を急ぐ。

 内府の中には国防の危機などないのだろうかと一人胸中で疑問を転がす。

 そして文輝は自らの出した答えに苦笑した。右官府にも国防の危機などなかった。ほんの数刻前まで、文輝もそんなものは認識していなかったのに随分と傲慢になったものだ。

 自省して石畳を先へ進む二人の背に続いた。

 顧みることは後でも出来る。今は、この背を見失わないように先へ進もうと決めた。

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